そして朝日へ
それから二年の月日が流れた。千津は英会話教室の事務に再就職した。地味な仕事内容ではあるがやりがいもあり、以前の会社では無視されていた英語のスキルをいかし、生き生きと働いていた。
セルジュの散歩は仕事が見つかるまでという話だったが、千津の希望で今でも続いていた。散歩に行かないと悲しそうな顔で自分を見上げるセルジュが可愛くて仕方ないのだった。
出勤するため家事の手伝いはできなくなったが、家賃を払うようになったこと、そして夜の数時間を一緒に過ごす以外は代わりのない日々だった。
そしてとうとう一ヶ月前に、正臣の家はバイオリン教室と工房のためだけに使い、二人は千津の家で一緒に暮らし始めた。
「また蝋梅の季節だね」
正臣が朝食のトーストにバターを塗りながら言う。向かいに座る千津はスーツ姿でコーヒーを飲み、「そうね」と窓の外に目をやる。正臣の家の窓とは少し景色がずれ、外には艶やかな花を咲かせた蝋梅が見える。
「今年は早い気がしない?」
「そうかな、去年と同じくらいだと思うな」
他愛もない会話が部屋に流れるピアノ曲と溶け合っていく。相変わらずクラシックを聴きながらの朝食だが、もうグノシエンヌが流れることはなかった。
「今日は仲間と弦楽四重奏の練習があるんで、遅くなるよ」
「弦楽四重奏? 珍しいわね」
「ほら、国道沿いに式場があるでしょう? そこのプランナーから結婚式で演奏してほしいって頼まれたんだ。なんでも新郎がクラシック好きなんだって」
「ふぅん、いつ?」
「えっと、五月だよ」
「……五月?」
ふと眉を寄せ、千津がコーヒーカップを置いた。
「もしかして、十五日?」
「そう。なんでわかったの?」
「たまたまよ」
「友達でも結婚するの?」
「うん。多分、その人の結婚式だと思う。正臣、式場で会いましょ」
千津は微笑みながら、中川から送られた結婚式の招待状の返信ハガキがバッグに入っていることを思い出していた。ハガキにある日程は五月十五日、場所は国道沿いの式場、そして出席の文字が丸で囲まれている。
「ところで、今日の曲はなに?」
「これは『エステ荘の噴水』かな。リストだよ」
そう答えてから、正臣が「そういえば」と切り出す。
「香澄が新しいCDを出したそうだよ。それがリストなんだって。来週送ってくれるってメールが来てた」
「へぇ、すごい」
香澄の名前を耳にしても、もう胸は痛まなくなっていた。千津は一度も香澄と会ってはいない。けれど、彼女がいたからこそ今の正臣がいると感謝している。そしてなにより彼女のピアノは好きだった。
「曲は『メフィスト・ワルツ』ってところがあの人らしい」
「メフィストって、ゲーテの『ファウスト』に出てくるメフィストフェレス?」
「レーナウの詩をもとにしてるけどね」
「ふぅん」
ゲーテが誘惑の悪魔として描いたメフィストフェレスに、千津は眉尻を下げた。ふと、正臣と出会う前の自分がよぎったのだ。
自分はメフィストフェレスを宿して生まれたような気がした。おそらく誰でもそうなのだろう。だが、大抵の人がメフィストフェレスを飼い慣らして生きていくところを、踊らされていたのだ。
ファウストはかつての恋人の祈りによって救われたが、千津を救ったのは目の前で目玉焼きの黄身を潰している男だった。どこにでもいそうな、けれどここにしかいない、たった一人の愛する人に、千津は感謝の眼差しを向けた。
出勤の時間になり、玄関を出た千津は、ふと正臣の教室のほうを見た。そこに続く小道に微笑みが漏れる。この小道が輝いて見えた朝のことが昨日のことように思い出された。
背後から正臣のバイオリンが微かに聞こえてきた。その音色は彼の声のように甘く、肌のようにあたたかく、そして唇のように千津の胸を焦がしたり、和やかにする。
あのバイオリンがそばで奏でられているうちは、もう空虚に満ちたため息をつくことはないだろう。
朝日の中を歩き出した彼女の目は、強い光で満ちていた。
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