新しい、そして最後の『始まり』

「昨日、初めて千津さんに触れたとき、肌が若いせいか手のひらに吸い付くようで腰が引けました」


「へっ?」


「若いあなたにはたくさんの選択肢があって、数え切れないほどの道が開けているのに、乾いた手をした僕でいいのか怖くなります。だって僕はもう人生あと何年残っているのか焦っているんです。大人になって一日を大切にする余裕はできたけど、その一方で何もできなかった不安は残酷なほど深くなる。そんなおじさんが、あなたのこれからを左右してもいいのか迷いました。でも、あなたとあの男が一緒にいるのを見たら、なんというか、こんなに攻撃的な自分がいるのかと驚かされました」


 千津がふっと笑い、正臣の唇に軽く触れた。


「だから、私はここにいるわ。何もできなくて不安なら、寝る前に私にキスを一つくれればいい。それだけであなたの一日を充実させる自信はあります」


 一瞬、正臣は目を丸くし、すぐに破顔した。


「千津さんが一夜限りの恋愛ばかりだった理由、わかります」


「え、なんでですか?」


「無自覚でしょうけど、あなたって男に火をつけるのがうまいんですよ。怖気つく男もいれば、俺のものにしたいって衝動にかられる男もいるだろうな」


「先生は?」


「聞かなくてもわかるでしょう」


「じゃあ、行動で示してください」


「言われなくても」


 正臣の唇が千津の瞼に触れた。唇を吸うように味わうと、正臣の手が彼女の胸元に滑り込んできた。冷たい感触にびくりとしたが、すぐに体温で馴染み、千津の心をほっとさせた。


「僕はあなたの声が聞きたいです。すごく心地いいから」


 そう言うなり、昨夜より躊躇いのない手で千津の曲線をなぞり、誘う。唇を塞がれたまま、声にならない声が漏れた。


「ねぇ、千津さん」


 ふっと唇を離し、正臣が囁く。


「君が僕を『終わり』に選んでくれたら嬉しいです」


 大きな手が千津の頬を包むように撫でた。


「お互い最後の相手になれたらと思うのは、僕の独りよがりですか?」


 心の奥底から湧き上がる言葉にならない喜びに、涙があふれた。それを愛おしそうに拭い、正臣が微笑む。


「僕を最後にしましょうよ。僕は千津さんから始めます。新しい、そして最後の『始まり』です」


 どちらからともなくキスを繰り返した。それだけでは伝えきれない愛おしさのままに、お互いの体を撫でるように確かめ合う。脚と脚を絡ませているうちに、二人の体が隙間なく溶け合うような錯覚に陥っていく。

 ふと、何かを思い出したように正臣がキスをやめ、隣に佇む愛犬に向かって苦笑した。


「セルジュ、ハウス。お前の目には毒だ」


 まるで『わかってるよ』と言わんばかりの顔つきで歩き出したセルジュに、二人は噴き出した。そして笑顔で見つめ合ったのもつかの間、再びキスをする。


 千津は正臣の左手を取り、そっと口に含んだ。バイオリンの弦を押さえ続けてきた彼の平らな指先の感触が愛おしい。かすかに感じる煙草の匂いが媚薬のようだった。

 正臣の手が、唇が、千津の肌を火照らせていく。彼女の昂まりを指先で確かめ、彼は唇に笑みを浮かべた。それは千津が今まで他の男たちに見出してきた独占欲のようなものではなく、安堵にも似た喜びだった。


 二人がもつれ合うように体を重ね、熱を帯びながら繋がった瞬間、千津は初めて体を重ねることに意味を見出した。

 切なげに呻く正臣の顔を見上げ、このまま時間が止まればいいと願った。ずっと揺れ動く彼を見つめていたい。少しでも隙間なく抱き合っていたい。そう思えた。

 正臣が果てた瞬間、愛おしさとともに満ち足りたものが沸き起こった。心地よい疲れを感じながら、いたわるようなキスをする。正臣の手が千津を背中から抱き寄せた。


「どうしよう、僕は最後の最後でとびきりの人を選んでしまったみたいです」


 背中に伝わるぬくもりに穏やかな笑みを浮かべていたが、ふと千津が正臣のほうに向き直った。


「背中からぎゅっとするの、好きでしたよね?」


 きょとんとした正臣に顔を寄せ、千津が鼻先にキスをした。


「うん。でも、それってキスができないから」


 正臣が声をあげて笑った。照れたような、嬉しいような、初めて聞く笑い声だった。

 そして二人は身を寄せ合い、ぬくもりを分かち合った。


 千津は天井を見つめながら、そっと「正臣」と呼んでみた。正臣は静かに「千津」と応えて微笑む。名を呼ばれるだけで涙が出そうだった。


「ナガイさんがたくさんいるからって理由がなくても、君を千津と呼べて嬉しいですよ。でもできれば抱き合っているときに名前で呼んで欲しかったですね」


「どうして?」


「だって、先生なんて呼ばれると生徒に手を出したみたいで妙な気分です」


「だって、先生って呼び方、もう慣れちゃいましたからね」


「じゃあ、少しずつまた馴染んでいきましょう」


 千津の頬に優しくキスを落とし、正臣が「ゆっくりとね」と愛おしそうに目を細めた。

 窓の外は真っ暗だ。けれど、朝が怖いとは思わなかった。浅ましさも惨めさもない朝が来ると知っているからだ。

 眩しい光を浴び、生まれ変わった気分になるだろう。そして、朝日は心の栄養になるという正臣の言葉の意味を知るはずだ。


「朝が楽しみなんて、初めて」


 千津は思わず呟き、正臣の額にキスを落とした。今こうして二人でいる瞬間に繋がった全ての偶然とタイミングに心から感謝しながら微笑んだのだった。

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