五匹の子豚

自覚

 中川が来たのはその夜の七時だった。ドアを開けると、彼は両手に幾つかの袋を提げていた。そのうちの一つはピザのようで、チーズの香りが玄関に広がった。


「遅くなったな」


 そう言ってはにかむ彼は、いつものスーツ姿ではなくジーンズ姿だった。新鮮さを感じながらも、カジュアル過ぎず、固すぎない。そんな雰囲気が彼の性格と合っていると思った。


「ずいぶん買い込んだわね」


 袋の中にはたくさんのビールとお茶、お菓子、そしてレンタルDVDが入っていた。


「前にさ、お前が観たいって言ってたやつを見つけたから」


 彼がそう言って取り出したのは、アガサ・クリスティ原作の海外ドラマだった。少し驚きながら、千津は首をかしげた。


「私、ポワロが好きだって話したことあったっけ?」


 彼女は『名探偵ポワロ』というタイトルがつけられた数枚を手に首をかしげる。


「いつだったかな、俺がミステリー好きだって言ったら、お前がすすめてくれた。お前は覚えてなくても、俺は覚えてたんだよ」


 どきりとして彼を見ると、小さく笑ってDVDを差し出された。


「とりあえず、観ようぜ」


 中川はソファに腰を下ろし、千津は真向かいの床にクッションを置いて座る。ビールで乾杯し、ピザを頬張りながら他愛のない話をした。

 画面に映っているのは『ナイルに死す』だった。自分がすすめたことなど思い出せないが、彼の言う通り確かにすすめたのだろうと思った。『ナイルに死す』は、一番お気に入りの作品だったのだ。


 しかし、好きなドラマも内容などちっとも頭に入ってこなかった。ポワロたちの台詞をBGMに、ただただ静かに会話を交わし、中川の顔を探るように見た。

 この夜の中川はいつもより饒舌だった。千津と一緒にいることを楽しんでいるようであり、浮かれても見えた。

 それが嬉しい反面、やはりホテルでの彼は背徳感にかられ、千津のことだけを考えていたわけではなかったのだと痛感した。

 酔いがまわってきたせいか、エンドロールを見ながら、千津がぽつりと言った。


「どうしてあの日、ホテルに行ったの?」


「えっ?」


「いや、どうして私だったのかなって思って。彼女とうまくいってなかったから憂さ晴らし?」


「違うよ」


 ムッとしたように言い、中川が手にしていたビールを置いた。


「彼女と付き合ってる間もさ、些細なことなんだけど、やたらとお前のことを思い出すなって気になってた」


 中川は深いため息を漏らし、千津をまっすぐ見つめた。


「本当にちっちゃいことさ。お前が好きだっていってた本、ドラマ、食べ物、そういうのを見ると嫌でも顔が浮かぶ。会いたくて仕方なくなる。けれど、アパートには同棲してる男がいるのも知ってて、会ったこともないのにそいつに嫉妬してた」


 千津もビールを置き、彼の真摯な眼差しを受け止めた。


「いつもコーヒーはブラック、苛立つと靴を鳴らす癖があって、うなじに二つ並んだほくろがある。なんてことないことがすごく可愛くて、大事なことに思えた。それで、彼女と別れたんだ。あの子には同じように思えなかったから」


 その声は静かなものだった。けれど、今まで聞いたことのない力強さがみなぎっていた。


「ごめんな。俺、焦ったんだよ。お前が退職してこれっきりになるかと思ったら、怖かった。順番間違えたよな」


「お互い様よ、それは」


 思ったよりもストレートな答えが返ってきたことに戸惑いながら、笑みを繕った。気になっていたこととはいえ、聞くんじゃなかったと少し悔いた。


「ねぇ、今度はこっちを観ようよ」


 そう言って手にしたポワロのDVDには『五匹の子豚』というタイトルがある。


「私、これもおすすめした?」


「ううん、なんか面白そうなタイトルだったから借りてきた」


「やっぱり? 私、どんな内容か覚えてない。全部観たはずなのに」


 再生ボタンを押しながら、さっきまでの真面目な空気を誤魔化すように笑った。中川とこれ以上見つめ合うのが怖い。まだ迷いがあるのに、押し流されそうになる。彼女の中で何かがブレーキをかけていた。

 中川は千津を見透かしたような顔で腕を取る。


「おいで」


 身を強張らせたのが伝わったのか、彼は小さく微笑んだ。


「大丈夫、何もしないよ。ただ、せっかく一緒にいるんだからもっと隣にいてほしいだけ」


 おずおずとソファの横に座る。ふと、こんなに大きい人だったかなと思った。ベッドで肌を重ねて寝ていたときよりも、ずっと近く、あたたかく感じる。


 オープニングが終わり、本編が始まっても、二人は言葉を交わすことはなかった。中川はビールを飲みながら、じっと画面に見入っていた。

 中川は一緒にいて沈黙に気まずさがない。思えば会社で顔を合わせているときからだ。

 この人でいいのかもしれない。もしかしたら、彼が最後の恋になるのかもしれない。そんな気がした途端、胸が高鳴ってビールが喉を通らなくなった。

 ふと、中川の手が千津の右手に重ねられた。どこかこわごわと、だが、しっかりと。


 握り返そうか迷った瞬間だった。千津の心臓がぎくりとした。

 テレビ画面から聞きなれた曲が流れてくる。千津の目は依頼人と言葉を交わすポワロに釘付けになった。


「グノシエンヌだ」


 思わず漏らすと、中川が「うん?」と千津を見た。


「グノ? なんだって?」


「今流れている曲、グノシエンヌよね」


「へぇ、そうなの? よく耳にはするけど、タイトルは知らなかったな」


 中川の言葉はもう千津の耳に届かなかった。彼女はそれっきり、食い入るようにドラマを目で追っていた。

 クリスティの『五匹の子豚』はポワロが過去に起きた事件の真相を追うものだった。五人の関係者が過去を語り、時をさかのぼる。グノシエンヌは古傷への感傷をより一層際立たせていた。

 事件の核にある男女の三角関係、そして嫉妬、裏切り、別れ。そんなものを目にし、千津はいつしか、正臣のことを思い出していた。


 グノシエンヌは正臣にとって、何か大事なことを孕んでいる曲だとは容易に想像がついた。あの写真の女性とどういう関係なのか知らないが、きっと彼女を偲んでいるのだろう。

 このドラマに出てくる人々のように過去をひきずっているのだとしたら、自分と朝食をとっている時ですら、彼女を想っているのだろうか。そう考えたとき、腹の底を熱い怒りに似た感情が蛇のように這った。それが嫉妬だと気付き、千津は自分でも驚いていた。


「わかっちゃった」


 思わず声が漏れた。いつの間にか正臣が心の隙間に滑り込み、住み着いていたのだ。


「すごいな、もう犯人がわかったの?」


 面白がって笑う中川に、千津は首を振った。


「ごめん。そうじゃない」


 ふっと中川の顔から笑みが消えた。


「今までの私だったら、中川を選んだと思う。一緒にいて沈黙が怖くないし、すごく安らげるし。でも……」


「千津」


 不意に名前を呼ばれ、思わず怯んだ。中川は祈るような目をしている。


「あのさ、俺たち、すごく居心地のいい二人になれると思うんだ。だって、俺もお前といてすごくほっとするんだよ。だから、すぐに答えを出さずに、もう少しじっくり考えてみてくれないか」


 そしてこう続ける。


「少しずつ、焦らないで、お互い馴染んでいかないか」


 愕然とした。あんなに切望した愛情が目の前にある。どれだけ『愛されたい』と願ったことだろう。それがやっと叶う。なのに『この人じゃない』という心の声がするなんて。

 千津の表情から何かを察したのか、中川が眉を下げて微笑んだ。


「今日はもう帰るよ」


「えっ」


「また俺に会いたいと思えるか、ゆっくり考えて」


 中川は煙草をポケットにねじこみ、玄関へ向かう。千津は慌ててあとを追った。


「もう帰っちゃうの?」


「うん」


「え、でもどうやって帰るの? 車で来たんでしょ? ビール飲んじゃったじゃない」


「うん、だからタクシーで帰るよ。最初からそのつもりだったし」


「へっ?」


「浮気してお前を抱いた俺がいくら『お前だけだ』なんて言っても信用がないだろ? 勢いとか、体目当てとか、そういうんじゃなくて、本当に俺はお前が欲しい。そう信じて欲しい。だから、今日は何もしないで帰るって決めてたんだ」


「あの、DVDは?」


「観てていいよ。返却期限は一週間後だから、そのあたりにでも取りにくる」


「いや、私が返却しておくよ」


 靴を履き終えた中川が振り返り、かすかに苦笑した。


「またここに来るための口実を奪うなよ」


 かっと頬が赤く染まる。そんな千津を、中川は愛おしそうに見た。


「俺の車は明日の朝、取りにくる。本当はまたお前の寝顔見たいんだけど、我慢するよ」


 抱き寄せられた千津は、腕の中で中川のため息を聞いた。言葉にならないものを吐き出すような、そんなため息だった。


「なんでもっと早く気づかなかったのかな。お前のいない毎日って、すごくつまんないんだよ」


 ふっと体が離れ、触れるだけのキスが落とされた。


「またな」


 そう言い残し、中川がドアの向こうに消えた。千津は脱力し、その場にへたりこむ。その拍子に涙がこぼれた。


「……遅いのに。なんで、遅いのよ。なんでよ」


 その声は震え、しまいには嗚咽に変わった。

 ホテルで抱き合った夜に『千津』と名前を呼び返してくれたなら、正臣と出会っていても中川を選んだはずだ。

 一緒にいると心地いい相手など、そうはいない。それなのに、どうして肝心の歯車が合わないのだろう。何度もチャンスはあったはずなのに。

 中川の気持ちは嬉しい。それなのに、千津の心の声は、無視できないほど大きくあの男の名を呼んでいた。

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