揺らぐ心

 喫茶店を出ると、中川は千津を家まで送るといって言って譲らなかった。

 家まではほんの五分ほどのドライブだったが、何故か長く感じた。平屋の家が見えてきたとき、千津は無性に安堵していた。


「あの平屋の前で止めて」


「二軒並んでるぞ?」


「あ、左側のほう」


「へぇ。いい雰囲気の家だな」


 中川は家の前で車を停めると、憂鬱そうに言った。


「俺は会社に戻るよ。もっとゆっくりしたいけどな」


「あの、送ってくれてありがとう」


「当然だろ、呼び出したのはこっちだし」


 そう言うと、彼は目を細めて千津を見た。


「……安心した」


「へっ? 何が?」


「お前が思ったより元気そうでよかったよ。今度は引っ越し祝いしようぜ」


 中川の目つきは優しい。千津は無性に腹が立ってきた。恋人がいるくせにどうしてこんな風に優しくするのだろう。心の隙間につけいるように思えて、むっとした表情を隠さずに言った。


「あのさ、彼女がいるんだから誤解されるようなことはしないほうがいいと思うんだけど?」


 すると、彼は虚を突かれた顔になったが、すぐに笑みを浮かべた。


「別れた」


 ぎくりとし、彼を見つめた。


「……私のせい?」


「違うよ。そうじゃない。あいつは、あの夜のことは知らないよ。だけど、終わるものは終わるんだ」


 かける言葉がみつからずにいる千津に、彼は言った。


「俺が終わらせた。今夜、会いに来るよ」


 中川は笑顔だが、その声は真摯なものだった。かあっと顔が赤くなるのが自分でもわかり、千津は慌てて目を逸らした。


「……やめてよ」


「どうしても行く。確かめたいんだ」


「何を?」


「……わかるだろ?」


 彼は苦笑し、静かに言った。


「久しぶりだから、もう少し一緒にいたいんだよ。ピザでも買ってくるから一緒に食べよう」


 返事に窮していると、前方からシルバーの車が近づいてきた。その運転席に正臣の姿を見つけ、千津の心臓がぎくりとした。

 正臣も千津に気づいたようだったが、すぐに車はウインカーを照らして敷地内に入っていった。

 中川はふと視線をやり、「あれ、お隣さん?」と尋ねる。


「あ、うん。大家さんなの」


「ふぅん」


 嘘ではないのに、何故か心苦しかった。

 正臣は車からバイオリンケースとバッグを降ろすと、千津たちのほうを振り返ることなく家に入っていった。その姿が玄関の向こうに消えた途端、千津はほっと緊張の糸を緩める。

 そんな様子を中川が盗み見ているのにも気づかず、彼女は手早くシートベルトを外した。


「あの、ありがとう。それじゃ」


 逃げるように車から降りた。玄関へ足早に向かうが、エンジン音はしなかった。

 鍵を開けてドアノブに手をかけようとしたとき、思い切って振り返ると、中川が運転席から軽く手を上げてやっと走り去った。

 玄関に入り、千津は深いため息を漏らした。


「流されたわけじゃない」


 誰に言うでもなく、言い訳をした。断れなかったのは、中川の『確かめたい』という言葉のせいだ。千津も彼といることで、心の声が聞こえるかどうかを確かめたかったのだから。


 その日の夕方、いつものようにセルジュの散歩を終えると、時計の針は六時を過ぎたところだった。

 正臣の姿はないが、部屋から話し声がする。レッスンを終えた生徒がまだ残っているようだった。顔を見合わせなくて済みそうだと、千津は少しばかり胸をなでおろした。

 中川と一緒にいたからといって、何もやましいことはない。それなのに、たったそれだけで正臣の顔をまっすぐ見る勇気が持てそうになかった。


 そのとき正臣の部屋の扉が開き、「先生さようなら」と言いながら小学生くらいの男の子が出てきた。


「はい、さようなら。気をつけてね」


 部屋の中から正臣の声がした。男の子は千津に気づくと、ぺこりと会釈をして、玄関へ駆けていった。

 バタンと勢い良く彼が出ていった直後、正臣がいかにも一仕事終えた明るい顔つきで部屋から出てきた。


「あ、千津さん、お疲れ様です」


「お疲れ様です」


 ぎこちなく返した千津の前で、正臣がぐっと伸びをした。


「あの子で今日はおしまいなんです」


 そう言って笑う正臣から目をそらし、「そうなんですか」と生返事をした。

 どうしても正臣の顔がまっすぐ見れない。自分でもそこまで意識することはないと思いつつ、逃げるようにセルジュに餌をやりに向かった。

 しゃがみながら、セルジュが餌にありついているのを見つめ、思わずため息を漏らした。


 千津は怖かった。

 中川と一緒にいるところを見て、正臣はどう思っただろう。彼氏と別れてそんなに経っていないのに、もう男ができたと呆れられただろうか。正臣があのブックレットに挟まった写真の女性を一途に想っているようなタイプなら、さぞかし自分はふしだらに映っているのだろう。

 鳴らない携帯電話にそっと手をやり、千津はだんだん腹が立ってきた。そもそも中川と会わなければこんなやきもきすることはなかったのだ。はっきりといつ来るのか時間を言わなかったのにも呆れるし、それを尋ねなかった間抜けな自分にも腹がたつ。

 そのとき、正臣がふっと噴き出した。顔を上げると、彼は千津を笑いながら見ていた。


「先生?」


「あ、ごめんなさい。だって、千津さん、すごい百面相だから」


 かあっと顔を赤くし、千津が思わず俯いた。そんな彼女に、正臣は優しく言う。


「これからデートですか?」


「えっ?」


「ごめんなさい、車で一緒にいるのをちらっと見えたものだから。余計なこと訊いちゃったかな。今日の千津さん、そわそわしてるんで、ついからかいたくなって」


 そして彼は「ごめん、子どもみたいですね」と詫びた。


「いえ、あの、そういうんじゃないんです。デートじゃなくて、話をしただけで何もないです。本当に、なんにも」


 慌てて首を横にふってから、千津は顔がひきつっていくのが自分でもわかった。


「あ、そうなんですか? 遠目に見た感じだとすごくかっこいい人でしたね」


「違いますよ、本当に」


 笑みを繕ったが、心は凍てつくようだった。正臣はいつもと変わらない穏やかな顔が、千津の息を止めた。


「それじゃ、また明日」


 千津は足早に玄関を出ていく。自分の平屋に続く道を踏みしめ、きつく唇を噛んだ。

 自分が中川とデートすることを喜んでいる様子を思い出し、千津の胸の奥が苦しくなった。

 どう思われたか気にしていたのは自分だけで、正臣は自分が中川と会おうが会うまいが、気にもしていないのだ。ふしだらに思われるよりも、そのほうがずっと辛い。

 玄関のドアに伸ばした手を、ふと止めた。千津の目から涙が溢れていた。


「あ、あれ? 変なの」


 笑ってみるが、声が震える。

 何故か泣いたのかわからない。ただ、正臣が初めて、手の届かない遠い存在に思えたのだった。

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