千の言霊
深水千世
千津
始まりを間違えた女
退職
退職ってこんなに簡単なのか。そう思いながら、
退職届を出したのは今日のことだ。あっけなく受理され、明日からは有休消化の日々になる。前もって言わずに辞めるのは身勝手な気もしたが、一日もここにいたくない。そんな千津の想いは上司と利害が一致していたらしい。上司は千津にいられると面倒だという顔を隠そうともしなかった。
何社も面接を受けてやっと就職した会社だった。仕事内容は英文科の大学を卒業したスキルを一切無視された事務作業だったが、満足のいく給料をもらえていたし、ボーナスも出ていた。二十六になったばかりの彼女は、三十路前に結婚するまではここにいるんだろうと漫然と考えていたものだ。
だが、彼女を退職に追いやったのは、たった一枚の告発文だった。
千津が私物を詰め込んだ紙袋を手にして歩き出したとき、背後からこそこそと話し声が聞こえた。
「ねぇ、あの子よ。ほら、
吐き気がこみあげるのを必死にこらえ、足早に更衣室を出て行った。
どうして私がこんな目に。そうぼやきたいのを必死で堪える。廊下に出てからも、すれ違う人の好奇の視線が彼女を射すようだった。うつむきながら、逃げるように出口へと向かう。
自動ドアが開き、外の空気が千津の頬を撫でる。あぁ、これでもう嫌な想いをせずに済む。目頭がじんと熱くなったときだ。
「おい、永井!」
聞き覚えのある声に振り向くと、同期の
「中川君……どうしたの」
「どうしたのって、さっきお前が退職したって聞いてびっくりしてさ。なんでだよ。お前、悪くないだろ」
正義漢の中川が苦虫を噛みつぶしたような顔で、千津の紙袋を見下ろした。だが、彼女はじりじりと後ずさる。
「私と話していると、中川君まで変な噂がたつわよ。じゃあね。元気で」
そう言って歩き出す千津の手首を、中川がぐっと掴んだ。
「お前、電車通勤だよな。最後くらい、家まで送るよ」
彼の声には有無を言わさぬ響きがあった。理不尽なことが許せない性格だけに、やり場のない怒りを抱えているようだった。
「言いたい奴には言わせておけばいいさ」
中川は千津の手から紙袋を奪い、自分の車が停められている駐車場に向かって歩き出した。その背中を見つめながら、千津はまた一つ、大きなため息を漏らしたのだった。
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