第153話 「火の鳥」 鳳凰編




 今更ながら、手塚治虫の傑作「火の鳥」を、角川書店の文庫版で読み直している。

「火の鳥」を読んだのは小学生の時、9歳くらいの時で、私が入っていた読書クラブの主催者である先生のお宅に全巻揃っていた。

 そこには手塚治虫の漫画は殆ど全てと言っていいほどあって、大きな本棚にぎっしりと詰まった名作の数々を貪るように読んだのだけど、「火の鳥」は難解でよくわからなかったことを覚えている。


「火の鳥」は、かつては「望郷編」が一番好きだった。

 けれど、今読むと「鳳凰編」が熱い。

(確か昔、親が鳳凰編のアニメを借りてきて、皆で観たような気がするが、途中で怖くなって寝てしまったことを覚えている)


 昔は謙虚かつ誠実で、真摯に仏像、すなわち己の心の仏と向き合っていた大和の仏師・茜丸。

 彼は朝廷の権力争いに翻弄されるうちに、奢り高ぶり、慢心するようになってしまう。

 私は、実はこの茜丸がとても好きである。彼は努力の人である。

 見たことがない伝説の鳥・鳳凰を彫るために何年も日本各地を放浪し、生きるために必死に創作を続けてきた。

 仏像を彫り、鳳凰を彫り、政治に利用され、やがては大仏の製作すら任されるようになった。死に物狂いでのし上がってきた。


 しかし、彼はかつて自分の腕の腱を切った我王という真の天才にはどうしても勝てない。

 勝てないゆえに、嫉妬し、羨望し、憤怒し、かつての我王の罪を告発する。

 罰を与え、我王の残された片腕を切り落とすことで、天才のあくなき創造の息の根を止めようとする。

 その心理があまりにもわかって辛く、胸に灼けるような痛みを覚えた。

 これはきっと凡百の人間の誰もが抱える闇で、天才にはけしてわかりえない境地だろう。



 結局、茜丸は自ら身を滅ぼし、両腕を失っても我王の創作が止まることはなかった。

 そこに生涯「天才の側」にいた手塚治虫の、一種の矜持みたいなものを感じる。

 天才だろうが凡人だろうが、最後は内なる自分と戦いながら作品を生み出し続けた者だけが残る。

 勝ち負けではなく、残る。

 後世にも、人の心にも。そう言われている気がした。


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