Ⅱ 動き出す時代
2-0 Prologue
アディストリア大陸南部の王国――レアルノ王国、陥落。
魔王による虐殺劇を町の上へと映し出され、混乱と恐怖を齎し、魔族の脅威を人族へと改めて植え付ける事となった一件は、人族が支配する国々へと大きな波紋となって広まった。
しかし、アゼルが目論んだ通り、人族による国家間の争いは今なお続いており、特に旧レアルノ王国より離れた国では魔王の存在に対してそこまで重く受け止めてはいない、というのが実情であった。
旧レアルノ王国のある、アディストリア大陸。その南部を占めていたレアルノ王国からは最も離れた位置にある、アディストリア大陸内最大規模の王国である『リッツバード王国』もまた、魔王アゼルの登場に対してそこまで危機感を抱いてはいなかった。
――――リッツバード王国の王都リーンラットを走る、一台の馬車。
三頭の白馬に牽かれる箱型馬車は、一見して権力者が乗り込んでいるであろう事が窺える程度に豪奢な造りをしていた。御者を務める者もしっかりとした正装に身を包んでおり、周囲を走る馬に乗る護衛の者達は、青いラインが映える意匠の凝った甲冑に身を包んでおり、さながら騎士といった風貌であった。
「おい、あれって確か……」
「あぁ、光神教だ。それもかなりのお偉いさんじゃないか?」
行き交う民が噂した、光神教。
かつての魔王ジヴォーグを討伐した勇者と共に戦った聖女アスタネシアを輩出した宗教であり、現在では世界最大規模の誰もが知る宗教だ。
確かに彼らが口にした通り、大きな箱馬車には光神教の紋章が描かれている。王城へと向かって伸びる大通りを進む箱馬車を、民は物珍しそうに眺めていた。
一方、馬車の中には白を基調に金糸の刺繍が誂えられた法衣に身を包む、柔らかな白金色の波打つ長い髪を揺らしながら、静かに瞑目している十代後半の少女。そんな彼女の身の回りの世話をする、紺色の修道服に身を包んだ白髪の少女の二人がいた。
「平和なものですね」
言下に冷ややかなものを含みつつ白髪の少女が呟いた一言に、もう一人の少女が困ったように苦笑を浮かべた。
「ルミナってば。皮肉っぽく聞こえちゃうわよ?」
「いえ、正真正銘皮肉のつもりですから」
「もうっ」
ぷくりと頬を膨らませた白金色の少女が、窓を隠すカーテンに指をかけ、僅かに開けて外を覗くように見つめた。
「……でも、本当に平和そのものなのね。この国は今、隣国との戦争の真っ最中だって言うのに」
「国の端の方で起こっている戦に、実感が沸いていないのでしょう。とは言え、聖女様――エーティア様が来た以上、それも今日までの話となりますが」
「……そうだと、いいわね」
大通りを行き交う人々の笑顔を見て、白金色の少女は僅かに寂しげに笑みを湛えたまま、再びカーテンから手を離して瞑目し、それ以降は一言も二人の間に会話はなかった。
白亜の堅牢な王城へと馬車は進み、王城の中へと進む。
リッツバード王との謁見の時間まではまだ幾分かの余裕はあったが、しかし予定よりも早く呼び出される事となった二人は、謁見の間ではなく、王城の庭園に面したサロンへと案内された。
二人が案内を任された女性騎士に付き添ってその場所へと着くと、すでに壮年の男性が椅子に腰掛けており、エーティアの姿に気が付くなりゆっくりと腰をあげた。
「久しぶりだな、聖女殿」
「ご無沙汰しております、ヘンゲル陛下。この度は急な申し出にも関わらず快く引き受けてくださり、本当に――」
「堅苦しいのはよせ。そういった話は貴族共相手に十分過ぎる程こなしているのでな。とにかく座って楽にしてくれ」
深々と頭を下げるエーティアの言葉を遮った、リッツバード王国国王ヘンゲル・オム・リッツバードの顔は険しい。その理由が、エーティアとルミナの二人がやってきた理由を察しているからだろう事は二人にもまた即座に理解できた。
エーティアとヘンゲルが向かい合うように座り、互いに侍女を斜め後ろに待機させる形で、出された紅茶で喉を潤したエーティアが端を発した。
「理由は聞かずともお分かりのようですね」
「無論だ。光神教が――それもその聖女と名高い貴殿がこの場所に来ているのが何よりの証と言えるだろう。先のレアルノ王国の騒動、魔王についてだな」
「その通りですわ」
世界各地に潜んでいた魔の者によって空へと映し出されたと思しき殺戮劇は、リッツバード王国も、そしてエーティアの住まうアールスハイド神聖国にも映し出された。
民は新たな魔王の登場はともかく、今回のような大々的な宣戦布告を引き起こしてみせた魔王アゼルに対して、恐怖を抱いている者は――ヘンゲルの鼻で笑うような態度が、その事実を如実に示していた。
「くだらん。魔王とは言え、所詮は勇者の血脈に勝てぬであろう」
「ですが、教会側でも、あの投げ捨てられたアレンは勇者の一人として認識しています。魔王は勇者すら、あのようにあっさりと……」
「その話なら耳にしている。が、勇者にも実力の良し悪しはあろうよ。それにしても、魔王を名乗る輩に負け、恥を晒す形となった勇者をこれだけの騒動でも切り捨てるでもなく、勇者として認めていると耳にした時は驚かされたものだ。さすが、とでも言うべきだな」
「当然です。勇者は神の思し召しによって力を与えられた者。私達が神の意向を隠すような真似、するつもりはございません」
組織である事を考えた以上、ヘンゲルが言う通りに世界に負けを晒す形になったアレンが今後も勇者として活動する上で、どうしても格好がつかなくなる。
しかし、エーティアが所属する光神教は、そういった組織の都合による排除を是とするつもりはなかった。
勇者は国ではなく教会に所属しており、その後ろ盾は絶対だ。とは言え、今現在アレンは連絡がつかなくなっており、消息すら掴めていないというのが実情ではあるが、それはさて置き。
紅茶を一口啜ったエーティアが、すっとヘンゲルの双眸を真摯な眼差しで見つめた。
「陛下、単刀直入に申します。戦争を、お止めください」
「それはできぬ相談だな」
取り付く島もなく、あっさりとヘンゲルはエーティアの申し出を断った。
「周辺国との軋轢は、何もこの数年で始まったような溝の浅さではない。折り合いをつけようにも、どちらがどう賠償し妥協するというのだ?」
「魔王が登場した今、人族は力を団結すべきです」
「魔王など、それこそ貴殿ら教会の領分ではないかね?」
「これまでの魔王ならば、それでも良かったのでしょう。ですが、今回の魔王アゼルは、かつての災厄を撒き散らしたジヴォーグと同じく、本物の魔王です」
「――ッ! なん、だと……?」
この三〇〇年、魔王と名乗る者達は謂わば、「偽りの魔王」とでも云うべき存在であった。魔族として人族に仇なす首魁が魔王を僭称しているばかりだ。
「まさか、神が認めたと言うのか……?」
伝承によれば、かつてジヴォーグが世界に姿を現した際には、光神教には神託が下ったとされている。よもや、今回の魔王――アゼルもまた、そういった存在なのかと問いかけたヘンゲルへ、エーティアは沈黙の頷きによって肯定を示す。
その姿を見たヘンゲルは、先程までの余裕がある顔とは一変して、口元を隠すように手を当てた。
「……なるほど。確かに、戦争などしている場合ではない、か。貴殿がここにやって来たのも道理だな」
「分かっていただけて何よりです」
「だが先程も言った通り、本物の魔王を相手にしたからと言って、エルセラバルドが止まってくれるとは思えんが……」
リッツバード王国から隣に位置する、小国を呑み込んで強大な国と化したエルセラバルド帝国。この国こそリッツバードにとっての仇敵であり、この数十年に渡って争い合っている国である。
元々はエルセラバルド帝国がリッツバードへと侵攻しようとしてきた際に、リッツバード王国がそれを先んじて察知し、防衛に成功。その勢いのままに反撃まで打って出てしまい、泥沼化し始めたのがきっかけだ。
それ以来、大国リッツバードと帝国エルセラバルドの戦いは、数年おきに大きな戦いに発展する事がある。
この数年でお互いに兵力を蓄えるべく小競り合いばかり続けていたものの、今年の小競り合いはまさに前哨戦といった様相を呈しており、今すぐにでも大きな戦が始まりそうな気配が漂っている最中だ。
そんな中で、「魔王が危険なので手を組みましょう」とはいかないのが国であり、人の心情というものだ。
だが、ヘンゲルは知っている。
当時の生々しい記録などが残っている大国の王として、魔王ジヴォーグの脅威によって世界がどれ程の危機に瀕したのかを学んでいる。
人族でも力があり、野心がある者は次々にジヴォーグの力によって魔族に変えられ、魔物の群れを引き連れて押し寄せる。強大な力を持つ魔族は、そもそも身体の造りからして人族よりも余程強い。力を自由に使いたがる輩は、魔族にあっさりと魂を売り渡す者さえいたと云われている。
当時は、それでも勇者が神によって力を与えられ、戦えた。
――だが、今はどうだろうか。
もしもジヴォーグが今再び姿を現したのなら、確かに人族同士の戦争などという争いにかまけている場合ではないだろう、と思わずにはいられなかった。
「光神教が力を貸します――と、言っても難しいですか?」
「……なんだと? どういう風の吹き回しだ?」
ヘンゲルの言葉に棘があるように聞こえるのも無理はなかった。
光神教は『光の女神』アルシャに仕える者達であり、同時に勇者を擁する世界最大規模の教会である。勇者を擁している事などから民の信頼も篤く、国家の枠組みを超えて民が最も多く所属しているのが、この光神教なのだ。
しかしそれだけの組織ともなれば、当然ながらに欲が出る者もいそうなものではあるのだが、光神教に関して言えば、それはまずあり得ない。
例えば権力を欲する者もいるかもしれないが、そもそも手を汚すような真似をしようものならば、教会で与えられた〈戒め〉によって身体の自由を失うという『誓約』をその身に受けなくては、光神教の侍祭にすらなれないのだから。
そうした背景を知るヘンゲルの険しい視線を受けながら、エーティアは滔々と続けた。
「今代の魔王アゼルは、女神アルシャ様から「本物の魔王である」との神託を受けている存在です。確かに、本来ならば私達の領分ではない政治に関して触れることもありません。ですが、神の敵である魔王が現れた以上、私達も国に圧力をかけてでも人族を一致団結する必要がある、という事です」
「そういう事か……。なるほど、わざわざ聖女である貴殿が出向いてきたのは、その証でもあるという訳か」
「私如きがそう評価されるのは烏滸がましいですが……すでにエルセラバルドにも枢機卿の一人の方が出向き、同じ用向きをお伝えしている頃かと」
光神教の重鎮、アールスハイド神聖国の頂点である教皇を支える七名から構成された枢機卿団。その一人と聖女が動いているという事態も然ることながら、すでにエルセラバルドにも動いているという迅速さには、ヘンゲルもさすがに驚きを隠せなかった。
まず間違いなく、教皇の指示がなければこうしてアールスハイド神聖国が動く事はない。つまり、これはアールスハイド――延いては神の仇敵として魔王アゼルが君臨したという事実を認め、勝利する為ならば強硬手段さえ厭わないという意思の表れ。
もしも光神教の進言を無視して戦争を続けようものならば、光神教はその事実を公表し、他国からはもちろん自国の民からさえも信頼を失いかねない。下手をすれば、魔族に与するものと揶揄され、それを大義名分に他国から一斉攻撃を受けかねないという最悪の想定もヘンゲルの脳裏に過ぎっていた。
進言とはよく言ったもので、実際には恫喝にも近い提案であると今更ながらに気が付いたヘンゲルであったが、その心には特に苛立つ様子も見せようとはせず、ただ諦念を抱いたかのように嘆息した。
「……ならば、エルセラバルドが応じるというのなら、私も応じようではないか」
意地を張っても何も得られるメリットは存在していない。リッツバードとエルセラバルドはお互い、この数年は大規模な戦争からは離れているため、今ならばまだ国民感情もそう波を立たせずに済むだろう、と妥協したヘンゲル。
実際、ヘンゲルは納得してこそいるものの、それは本物の魔王の脅威をしっかりと学んできたからこそだ。
近年になって周辺諸国に武力侵攻を続けているエルセラバルドは、リッツバードとは異なり国としての歴史は浅く、またジヴォーグが世界に災厄を振り撒いた三〇〇年前はまだ小国群であった場所なだけに、魔王の脅威をしかと受け止めるか、それが問題となるだろうとヘンゲルは考えていた。
――――ヘンゲルの予感は、当たっていた。
所変わって、エルセラバルド帝国。
エルセラバルドは〈
どこもかしこも魔導機械や魔導具があちこちに用いられた、鋼の都市とでもいうべき造りをしているが、その最たるものが王城だ。高層ビルを思わせるような、しかし重厚感ある巨大な建物が佇んでいる。
その最上階では、エーティアらが言った通り、アールスハイド神聖国の枢機卿団が一人――オール・ライブラルという初老の男性が、女帝王であるイザベラ・エル・エルセラバルドと謁見している最中であった。
「――その提案、妾は乗らぬ」
「なんですと……?」
魔王アゼルが神によって魔王と認められ、リッツバード王国でエーティアがヘンゲルへと説明している、ほぼその同時刻。
真紅の長い赤髪を腰程まで伸ばし、勝ち気さを思わせるようなつり上がった、金色の瞳。男好きするであろう肢体を魅せつけるかのようにスリットの入ったドレスを身に纏ったイザベラは、退屈な提案だとでも言いたげに玉座の肘掛けに肘をついたまま、リッツバードと同様の説明を受けていたイザベラはアールスハイドより齎された提案を一蹴してみせた。
「此度の魔王は本物ですぞ……?」
「くどい。魔王如き、我がエルセラバルドのみでも十分に斃せるであろうよ。役立たずであった勇者を擁しているそちらと妾の国とでは、比べるのも烏滸がましいというものではないか?」
アレンの存在を容認し、その結果がこうなったのか――と、オールは胸の内に苦い想いを抱いてこそいたが、それは違っていた。
「貴様らが魔王と戦うというのなら、勝手に戦えば良い。だが、妾は妾が進むべき道の為に歩み続けるまで。貴様らの駒になってやるつもりなどないぞ」
イザベラにはイザベラの明確な目的があり、選ぶべき選択というものが存在しているのだ。そこに、アールスハイド神聖国の提案が入っていない、というだけの話であった。
そんな物言いに目を白黒させるオールの言葉を待たずして、イザベラは退屈そうに嘆息して、ついに視線を外した。
「つまらぬ。枢機卿などという存在がどんなものかと思っていたが、この程度とはな。話は終わりだ、さっさと帰れ」
「……その答え、民に公表しても構わぬと?」
「くだらぬ脅しよな。せいぜい喧伝してみることだ。もっとも、エルセラバルドの民は神に縋るような脆弱な者は必要としておらぬからな。妾の答えに不服だと帝国を捨てるのならば、そのような輩は喜んでそちらにくれてやろう」
その後もにべもなく、戦争を止める気はないと続けたイザベラ。
最終的には、オールが「覚悟することですな」と吐き捨てるように告げて出て行く形となったが、それまでイザベラは一度たりとも視線を戻すような素振りは見せなかった。
護衛の者達、宰相もまた帝王のそんな姿を見慣れているのか、今は何を言っても聞く耳など持たぬだろうと玉座の間を後にする中、たった一人で未だ微動だにしていなかったイザベラが、ようやく視線を動かした。
「――よろしかったのですか?」
イザベラの視線の先に姿を見せた、一人の侍女服に身を包んだ女。本来、侍女などという立場であれば、こうした言葉は不敬とされかねないが、イザベラはその女と目を合わせると、口角をあげた。
「よろしいも何も、妾の興味は魔王本人に向いている。どちらかに協力するのならば、魔王の方が余程妾の願いを叶えてくれるであろうよ」
「ならば、魔王に使者でも送ってみますか?」
「常套手段としては悪くない。が、あの魔王なる者の目――アレはそういった輩すら躊躇なく殺すであろうな。徒労に終わるだけであろう」
「ならば、どうなさるおつもりで?」
「くくくっ、妾はこう見えても女なのだよ、アイラ。殿方に声をかけるより、かけられる方を望んでおる」
突然、そんな事を口にしてみせたイザベラにアイラと呼ばれた黒髪の女性は目を丸くして、その後で納得したように小さく頷く。その姿に、我が意を得たりとでも言いたげにイザベラは続ける。
「声をかけてもらう為には、せいぜい混乱でも引き起こすとしようではないか。男の耳朶に触れるのは、良くも悪くも評判がなくては話になるまい」
アゼルがアンラ・マンユの完成に一段落し、魔大陸で動き始めていた、その頃。
さながら春を待つ地中の虫を思わせるように。あるいは、春を待つ種のように。
――――新たな混乱が、ゆっくりと芽を出そうとしていた。
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