陽だまりの午後
由文
陽だまりの午後
列車の窓から眺める景色は絶えず後ろに流れていく。
どこまでいっても変わることの無いのどかな田園風景が続いている。
窓から穏やかな陽射しが差し込み、平和な午後が過ぎていく。
僕は頬杖をつき、ただ外の景色を眺めていた。
僕は旅をしている。
傷心旅行というやつだろうか?
一ヶ月前に恋人、由莉(ゆり)を亡くした。交通事故だ。
スクーターに乗っていて、交差点でトラックに巻き込まれたらしい。
余りに突然起きたそれは、僕には理解できなかった。
気が付いたときには、葬式まで終わっていた。
一ヶ月たった今でも実感が湧かない。実際、由莉が死んだ時も悲しみを覚えることすらなかったように思える。
ただ、心にぽっかりと穴があいたような、そんな虚無感があるだけだった。
今まで当たり前のように過ごしてきた中で、由莉のいた部分だけが抜け落ちている。
何をしても心の穴が塞がらない。
旅をしたら何か変わるかもしれない…そう思って、旅を始めた。
仕事は辞めた、由莉がいなくなってから仕事には行かなくなっていたからちょうどいい機会だった。
けれど、こうやって旅を続けていても気が晴れない。
僕の旅は終わるのだろうか…?
「こちら、宜しいですか?」
近くで声がしたので目でそちらを見ると、そこには年の頃にしたら二十代半ば位の女性が立っていた。比較的ほっそりとした体に白いワンピースと、薄紅色のカーディガンを羽織っている。
「え…?」
僕は思わず聞き返してしまった。車内の席は空いていて、僕の前にわざわざ座らなくても、充分に席に余裕があったから。
「ここ、座りますね。」
今度は、確認ではなく座る意思だけを僕に伝えると、僕の向かいの席にさっさと腰を下ろしてしまった。彼女が座る時に、肩まである髪が揺れた。その座る姿が、由莉のそれと被った。
「ここ座るね。」
「ああ…。」
座って本を読んでいる所に由莉が座る。由莉は座る時に体をかなり前に傾ける、その拍子に肩まである髪が揺れる。僕はその瞬間を眺めているのが好きだった。
「何読んでるの?」
「小六法。」
「…またそんな事言う。」
適当に答えると、由莉は呆れた顔になる。
「紀(のり)っていつもそうだよねぇ、真面目に答えてくれない。」
―――真面目に答えてくれない―――
「旅、してるんですか?」
唐突に、自分の思考を中断させられた。目の前の女性が話し掛けてきたらしい。
「…何で?」
言ってから、返し方がまずかったかと後悔する。もう少し優しい言い方をすれば良かったか。
「あ、いや…。」
僕の思いのほか冷たい反応に、かなり戸惑っている様子だ。それでも頑張って僕の理不尽な切り返しの質問に答えようとしている。
「なんか、窓の外眺めて…。えーと、黄昏てたっていうか…そう、黄昏ていたから。」
無理も無いが、答えになっていない。
「そうだよ。」
「え?」
今度は、彼女が聞き返してくる。
「旅をしているんだ。黄昏ていたってのも…まあ、当たりかな?」
彼女の問いに答える。そう、僕は旅をしている。あての無い旅を。始まりはあったが、終わりの無い旅を。
「あ、そうなんですか…。」
彼女は少しほっとした様子になる。そして座りなおすと、微笑んだ。
「一人で窓の外眺めていたんで、もし宜しかったらお話の相手になれるかなって。」
笑いながら話し掛けてくる彼女の顔をじっと見つめていると、少し恥ずかしそうに言い直した。
「本当は話をする人が欲しかったんです、ごめんなさい。」
少し泣きが入っていたかもしれない、僕はそんなに恐い顔で見ていたのか?
「でも、そんなに怒らなくても…。」
既に泣き声になっている、酷いと言えば酷すぎる反応だ。
「怒ってないよ。」
「ただ、私も一人だったからお話ぐらいと思って…え?」
「怒ってない。これが素なんだ、今の。」
僕が言うと、彼女の顔はまた笑顔に戻る。
「そうなんですか…よかったぁ。」
「そんなに恐い顔してた?」
「はい、すっごく。今も恐いですけど…。」
僕が聞くと、彼女はほぼ即答してきた。しかも、かなり失礼なことをさりげなく言っている。
「大丈夫、怒っているわけじゃないよ。それに、話し相手なら僕も欲しかったんだ。」
僕は笑って見せた。彼女の反応から、笑って見えたかは謎だけど。
「それを聞いて安心、かな?」
そして、彼女は喋りだした。自分のこと、自分の友人のこと、自分の周りで起きたこと…本当に良く喋った。聞いている僕が飽きることは無かった。彼女の顔を見ているだけで飽きなかった。離している間中コロコロと変わる彼女の表情を、僕はずっと眺めていた。
「ねぇ、聞いてるの?」
由莉は話を聞いている僕に対して失礼な質問をする。
「聞いてるよ、失礼な…。」
「だって、こっち見てるだけでぼおっとしてるじゃない。」
そう、僕は由莉の顔を見ていた。話というよりも、そっちの方に集中していたかもしれない。由莉の表情は良く変わる、話をしている時は本当に良く変わる。悲しい表情をしたかと思うと、次の瞬間には笑っている。僕にはそんな由莉の顔を眺めているのが好きだった。
「お前の顔を眺めてたんだよ。」
「はぁ?」
「お前の顔を見てると、幸せだなって…。」
由莉はしばらくぽかんとしていたが、すぐに顔を赤くしてそっぽを向いた。
「な、何言ってんのよ!」
そんな時の由莉の表情は、照れながらも凄く嬉しそうだった。
「紀って、変なトコで素直なんだから…。」
「そうか?」
「そうよ!それに、時々一人で考え事してるじゃない。その時は今のようにぼうっとしちゃってさ、人の話なんか全然聞いてないんだから!」
頬を少し膨れて由莉は怒っている。けれど、すぐに心配そうな表情になって僕に話し掛けてくる。
「ねぇ紀、一人でふさぎこむ癖、良くないよ?私がいるのに、何で私にだけでも話してくれないの?」
―――何で私にだけでも話してくれないの?―――
「あのう…聞いてます?」
「ん?」
彼女の顔を眺めていたら、何時の間にか由莉とのことを思い出していたらしい。何故か、彼女を見ていると由莉とその影を重ねてしまう。
「なんかぼうっとしているみたいで…話聞いていました?」
ついさっきまで思い出していた由莉のそれと同じような仕草で、同じことを彼女は聞いてくる。そんな彼女に僕は釘付けになっていた。
「どうかしましたか?」
どうしてここまで彼女が由莉と被るのだろう?彼女を見ていると、何故由莉を思い出してしまうのだろう?
「大丈夫ですか?」
気が付くと、彼女の顔が目の前にあった。
「おわっ!!」
「キャアッ!!」
突然のことに驚いた僕に、さらに驚いて彼女まで大きな声を上げる。当然のように周りにいた人は、皆こちらを振り返る。
「あ…すいません、なんでもないです。」
「ごめんなさい!」
僕と彼女はひとしきり謝った。周りの人は、なんでもないと分かると、すぐに自分たちの席に落ち着いた。
「ふう、驚いた…。」
「驚いたのはこっちですよ!ぼうっとしてるかと思ったら、突然大きな声を出すんですもん!」
彼女は頬を少し膨らませて怒る。
「あ、それは君の顔が目の前に来てたから…。」
僕は少しでも間を持たせるため、言い訳をする。でないとまた由莉の影を重ねて物思いにふけってしまいそうだ。
「だって、ぼうっとしたまま動かないんですよ?心配になるでしょう、だから近づいて見てたんです!」
「…ああ、ゴメン。」
彼女を心配させてしまったらしい。そう言えば、由莉も一人で考え事をしている時には良く心配をしてくれた。
「君の顔にちょっと見とれてたんだ…。」
つい、由莉の時と同じように言ってしまう。言ってしまってから、後悔する。
「え!?」
案の定、彼女は顔を赤く染め俯いてしまう。
「な、何を言ってるんですか!?」
彼女は慌てふためいて、下を向いたまま言ってくる。
「あ、ごめん。そんなつもりは無かったんだ。」
僕はとりあえず、謝った。他に何かできるわけでも無かった。
「誰にでもそんなことを言ってるんですか?」
上目遣いに聞いてくる彼女の顔はまだ赤い。
「いや、君が…。その、知り合いに似ていたから。」
「知り合い、ですか?」
「うん、恋人…だった人に。」
「別れたんですか?」
彼女は身を乗り出してくる。やっぱり女性だ、そういう話には興味があるらしい。
「いや、交通事故でね。もう一月になる。」
「あ…、ごめんなさい。」
自分が興味を持ってしまったことに罪悪感を感じてか、彼女は謝ってくる。彼女の表情は一気に曇ってしまった。
「いや、気にしなくていいよ。普通そんなことを想像できる人なんていないんだから。」
僕は彼女を慰めると、自然に口を開いていた。
「ちょっと話…聞いてくれるかい?」
そう、僕は由莉が居なくなってから、由莉の居なくなった生活に戸惑っていた。今まで当たり前のように直ぐ傍に居た由莉。そんな彼女がある日突然居なくなってしまった、永遠に。そして僕の生活は、今までと同じものでは無くなった。何をするにも億劫になった、やる気が起きないのだ。会社の仕事も次第に手につかなくなり、仕事を辞めたといっても殆ど首同然のものだった。働かなくなってからさらに僕の生活は廃れた。だけど、そんな自堕落な生活を送っている中でも僕は必死に考えた。何故、由莉はいなくなってしまったのか?これは僕に対する罰なのだろうかと…。
由莉はいつも僕に対して言っていた。
「何でいつも真面目に答えてくれないの?」
「何で私にだけでも話してくれないの?」
耳にタコができるほど聞いた言葉、由莉の言葉。僕が答えるのが面倒で適当に言うと由莉は言った。
「何でいつも真面目に答えてくれないの?」
僕が独りで悩んでいる時、由莉は心配そうに言った。
「何で私にだけでも話してくれないの?」
由莉は僕のことを心配してくれていた。あまり周りに馴染めていない僕を、孤立してしまいそうな僕を、由莉は僕の世界の中でたった一人の味方だった。
ある日、由莉は言った。悲しそうな顔をして。
「私・・・私が居なくても、紀は同じなのかな…?」
それから数日後、あの事故がおきた、由莉が居なくなった。あの言葉は由莉の別れの言葉だったのだろうか?
―――ずっと考えていた―――
「僕は、ずっと自分の殻に閉じこもってたんだ…。」
僕が話している最中、彼女は真剣に話を聞いてくれていた。初対面で、見ず知らずの赤の他人の僕の話を真面目に聞いてくれている。
「その僕を、殻の外の世界に出そうとしてくれていたんだ、彼女は。」
こんなことを人に話すのなんて初めてだ。心の中を打ち明けるなんて、由莉にすらした事が無かった。そう、由莉にすら。
「それを僕は、邪魔に感じていたんだよ。たった一人の味方だったのに、それを迷惑に感じていた。」
それを何故か、目の前の彼女には話すことが出来た。由莉と影が重なる、彼女の前では話すことが出来た。
「僕は彼女をずっと裏切りつづけていたんだ、そして僕はその罰を受けた・・・彼女の死を持って。」
僕は、今ごろになって悲しみを覚えた。由莉を失った悲しみが、今ごろになって込み上げてきた。涙が溢れてくる、止めることが出来ない。涙が溢れ出す。
「僕は、それでも彼女を拒みつづけてきたんだ。彼女の死を受け入れてなかった。」
今更後悔しても遅いと思っても、後悔したくなる。時を戻すことができるのなら、戻したい。
「僕は、自分の本音さえ彼女に話したことが無かった。僕は・・・僕は、彼女にとても酷いことをし続けていたんだ。」
「…悲しいことですよね。」
不意に、彼女が呟く。何時の間にか下を向いていた顔を上げると、彼女ははかなげな微笑を浮かべてこちらを見ていた。
「自分の好きな人が、自分を信じてくれないって悲しいことですよね。」
その言葉が僕の心に響く。僕は信じていなかった、大切な人を信じられなかったんだ。そう思うと、胸が締め付けられた。一体、これから僕はどうすればいいんだろう?
「でも、気づくことが出来たじゃないですか。」
「え…?」
彼女は、僕をじっと見据えていた。
「信じることが出来たんですよ、今。その彼女を信じることが。」
「でも、彼女はもう居ない…。」
そう、今更信じることが出来たってもう遅い。
「それでも、あなたは今彼女の大切さを知った。そして、自分の世界から出てきたじゃないですか…。」
「…。」
「きっとあなたは、過去と未来に縛られているんですよ…いつも考えているんでしょ?昔のことと、これから先のことばかり。そして、今のことは考えていないんでしょう?でもそれって、悲しくないですか?今のことを考えることができないなんて…。過去は過ぎてしまったことですよ?未来はこれから起きることですよ?それは、”今”の時に考えるべきではないんでしょうか?過去と未来にばかり気を取られているから、今を見ることが出来ないんですよ、きっと。」
彼女はゆっくりと話す。僕はその言葉をゆっくりと咀嚼する。…そう、僕は過去を振り返ってばっかりだった、未来を考えてばかりだった。下らないことを考えて悩んでは、独りで鬱になっていた。昔のことを思い出しては、これから先のことばかりを考えていた。今、この時のことを考えたことなんてあっただろうか?いつも悩んでばかり、苦しんでばかりで…。
いや、あった。由莉と…由莉と一緒に居る時。由莉を眺めている時だけ、その時のことだけを感じていた、考えていた。
「そんなことは無い。」
僕は静かに口を開いた。
「そんなことはない、僕だって、今その時を感じていたこと、考えていたこと…ある。僕は、由莉と一緒に居る時…幸せだった。その時をずっと過ごしていたかった。」
「え…?」
彼女は少し驚いた顔をする、でも僕は話を続けた。
「確かに、それ以外のときは過去や未来に縛り付けられていたよ・・・周りのこと気にして、僕は独りで、今までもずっとそうで、これからもそうなのかってね・・・でも、それでも由莉と居る時は幸せだったんだ。心のどこかで由莉を必要としていたんだ、例え彼女を迷惑だと思っていても、彼女と一緒に居る時間はやっぱり幸せだった。」
僕は、胸の中に溜まっていたものを全て出し尽くした。人に隠していたこと、自分でも気づかなかったこと、全てを外に出していた。僕の中で、何かがその時に弾けていた。
「それだったらその人も、由莉さんも幸せだったでしょう?あなたはもっと正直になれるんですよ。」
「もっと…正直に?」
「ええ、由莉さんの大切さが分かっていたのなら、由利さんの過去ばかりを見ていては駄目だと思います。あなたは”今”を生きているんですよ?」
―――今を生きている―――
彼女の言葉で、僕の心の壁は全て崩れ去った。僕は自分が閉じこもっていた世界から開放されたような気がした。
僕は、今を生きている。過去でも、未来でもなく”今”を生きている。
「ああ…そうか。」
”今”には由莉は居ない、死んでしまったから。僕が生きている世界には由莉は居ない。それを、彼女は気づかせてくれた。
そして、ふと気づいたことがあった。
「そう言えば、名前…」
そう、僕たちは互いの名前も知らず、自己紹介もせずにずっと話し込んでいた。相手の名前すら知らなかったことに今更ながらに気付く。
「そう言えば、自己紹介…してませんね。」
彼女も、笑いながら言う。
「僕は、紀 。平 良紀っていうんだ。」
僕は彼女に対して遅い自己紹介をする。
「私は…ユリ。ミナト ユリです。紀さんの恋人さんと同じ名前ですね。」
彼女は…はにかみながらそう言った。
―――ありがとう―――
一瞬、由莉の声が聞こえたような気がした。だが、それは幻聴だ。僕が、最後に見た由莉の幻影。ユリさんの姿に被せた、由莉の姿。僕は、自分の過去を振り払った。
「…そうですね。で、ユリさんはこれからどこに?」
僕はごく普通の話題をふった。彼女は邪魔になった髪を掻き揚げる、その時に左手の薬指に光るものが見えた。
「私、これからお墓参りに行くんです。今日は亡くなった主人の命日なんです。」
そう、彼女は言った。列車は次第に速度を落とし、やがて止まった。
「私はここで降りますね。紀さん、すぐには立ち直れないでしょうけれど、大丈夫ですよ。頑張ってくださいね?では…。」
彼女は軽くお辞儀をすると、列車を降りていった。そして、再び列車は動き出す。
列車の窓から眺める景色は絶えず後ろに流れていく。
どこまでいっても変わることの無いのどかな田園風景が、相変わらず続いている。
窓から穏やかな陽射しが差し込み、平和な午後が過ぎていく。
僕は頬杖をつき、ただ外の景色を眺めていた。
「僕は、どこかで居ないはずの由莉を探していたのかな…。」
僕は、窓の外を眺めながら誰にでも無く呟く。
列車は、走りつづけている。
窓からは、相変わらず同じ風景が流れている。
僕は、次の駅で降りようと決心した。
僕の旅はこれで終わりだ。
陽だまりの午後 由文 @yoiyami
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