第34話 え…これを、俺に?…
「お兄ちゃん♪」
学校でも美鈴にべったりとされるようになってから一月が過ぎた頃。
休日となる土曜の午前。
平穏な雰囲気に満ち溢れた、高宮家。
朝食を終え、日頃の習慣としている家の掃除に取り組んでいる涼羽。
その涼羽に、妹、羽月がいつも通りの甘えた声をかける。
「?」
そんな妹の声に反応し、掃除をしていた手を止めて、視線を向ける。
首を傾げて、きょとんとした表情の涼羽。
そんな兄が可愛くてたまらない羽月。
思わず抱きついてしまいそうになるのをこらえ、涼羽と二人でいるときのにこにことした笑顔を浮かべている。
「なあに?羽月?」
いつも自分に向けてくるそのにこにこ笑顔が可愛らしいのか、優しい笑顔が浮かんでくる涼羽。
声も、口調も、自ずと優しげなものとなっている。
「お兄ちゃんに、お願いがあるの」
「お願い?」
「うん」
「なあに?そのお願いって」
「ちょっと待っててね、お兄ちゃん」
ほのぼのとした、母と幼子のようなやりとり。
お願いがあると切り出した羽月に、優しく問いかける涼羽。
しかし、羽月はそのお願いとやらを言う前に、とたとたと可愛らしい足音を鳴らしながら、今いたリビングを飛び出していく。
「?なんだろ?…」
てっきりいつものようにべったりと甘えてくると思っていた涼羽。
しかし、それならば声をかけるよりも先に抱きついてきているはず。
一体なんなんだろう。
そんな疑問を抱えながらも、涼羽は中断していたリビングの掃除を再開する。
しかし、掃除を再開してすぐに、とたとたとした足音が近づいてくる。
羽月が、また戻ってきたようだ。
リビングに再び姿を現した妹、羽月。
その手には、最初にリビングを出て行くときにはなかった、やや大きめの手さげ付きの紙袋を持っている。
「?それは?」
妹の手に握られた紙袋。
それがお願いと関係があるのだろうか。
思わず、そう考えてしまう。
そして、その考えが正しかったことが、羽月の言葉で証明される。
「お兄ちゃんに、これ着てほしいの」
着てほしい。
今、確かに聞こえたその言葉。
そして、これというのが、その紙袋の中身。
「?これを?」
自分では無自覚だが、容姿、服装といったものにとことん無頓着な涼羽。
学校の制服以外では、ほぼ年中同じような服装となっている。
暑い時期には、長袖だが、薄手のトレーナーに、少しゆったりとしたジーンズ。
寒い時期には、厚手のトレーナーかセーターに、少しゆったりとしたジーンズ。
暑いと寒いの中間となる時期には、春用のトレーナーに、少しゆったりとしたジーンズ。
…と、単に季節に合わせて同じ構成の服装を着まわしているだけ、という状態だ。
もともとが一人好きで、人の多いところを嫌う傾向になるため、外出すること自体が少ない涼羽。
さらには、自宅で家事全般をこなしていることもあり、外出する機会そのものが多くない。
せいぜい、食事や日用品のための買い物に出かけるくらいだ。
根が倹約家というのも手伝って、自分で服を買いに行く、ということがまずない。
ここ最近では、コンピュータという趣味が追加されたこともあって、なおさら、用のあるとき以外での外出に必要性を感じなくなってしまっている。
最近では美鈴がやたらべったりとしてくるようにはなったものの、それ以外では未だに依然として友達と言える存在がいない涼羽。
なので、友達と遊びに行く、という機会そのものがなく…
さらには、唯一学校で交流のある美鈴も、この高宮家で料理を学ぶことの方が多いため、どこかに遊びに行こう、ということを涼羽に言うこともない。
ただ、以前と比べて明らかに丸くなった感のある涼羽に、どうにかして交流を持とうと思うクラスメイトが、じょじょにではあるが増えてはきている。
だが、やはり以前の鋭い刃のようなイメージが先行してしまい、なかなかその思いを行動に移すことができないでいるクラスメイトばかりなのだが。
「(なんだろ?服は全然あるから、俺は別に必要ないんだけどな…)」
服装に無頓着な涼羽のこの思考。
年中同じようなものの着まわしで過ごしているにも関わらず、この発想。
こういう、どこか天然な部分が多いのも、涼羽の特徴と言える。
ただ、わざわざ妹が兄のために調達してきてくれたのなら、それはそれで嬉しいな、と思う涼羽でもあった。
「その服、俺に着てほしくて買ってきたの?」
「ううん、学校の先輩から、もらってきたの。でも、お兄ちゃんに着てほしいのは合ってるよ♪」
どうやらわざわざ知り合いからもらってきてくれたものらしい。
使えるものは使う、というエコ思考な涼羽からすれば、これは大きな評価点となる。
そういった出費をせずに調達してきてくれたことで、涼羽の嬉しさがさらに膨れ上がる。
だが、この時点で涼羽は羽月の性格について失念してしまっているところがある。
羽月は、思春期男子特有の異性に対する、まるで見定めるかのようなねっとりとした視線を嫌っているということ。
そのため、兄以外の異性に対して、交流を断絶してしまっていること。
だが、羽月は日頃から実の兄とはいえ、異性である涼羽にべったりとしている。
加えて、羽月が涼羽の学校での生活風景を、つい最近まで知らなかったのと同じように…
涼羽も、羽月の学校での生活風景を知らないのだ。
だからこそ、羽月のそういった男嫌いな部分を知る由もなく。
結果、その一番重要なことを失念することとなってしまっている。
「そうなんだ、ありがとう」
妹のそんな行いが嬉しくて、笑顔で感謝の言葉を紡ぐ涼羽。
「えへへ♪」
そんな兄の言葉に、気を良くする羽月。
「ほら、早く着てみて♪」
そして、半ばせかすかのように手に持っている紙袋を涼羽に差し出す。
心底、嬉しそうな表情で。
そんな妹の手から、そっと紙袋を受け取る涼羽。
そして、その中身を見ようと、覗き込むように視線を送る。
「さて、どんなのかな……」
見たところ、学校の制服っぽい服のようだ。
しかし、どこかで見たような感じの服の気がする。
一度紙袋を床に置き、一つずつ確認するかのように中身を出していく。
「?これって、ブレザー?」
まず最初に取り出したのは、暗めの緑に色づいたブレザー。
他人の古着にしては、皺もなく綺麗な状態だ。
しかし、見ているとどこか違和感がある。
「?」
いったんはその違和感を無視し…
手に取ったブレザーを床に丁寧に置き、さらに中身を取り出していく。
「?ブラウス?」
次に出てきたのは、長袖の白のブラウス。
これも、古着の割りに綺麗な状態のもの。
しかし、なんだろう…
このブラウスも、どこか違和感がある。
「??」
しかし、その違和感を気にしながらも…
そのブラウスも丁寧に床に置くと、さらに取り出していく。
そして、次に取り出したものを見て、涼羽の動きがピシリと固まってしまう。
「え?こ、これって…」
涼羽が次に取り出したもの…
それは、赤のチェック柄の、プリーツが入ったスカートだった。
そして、これを見た瞬間に、ブレザーとブラウスを見た時に感じた違和感の正体がはっきりとする。
「(!そういえば、あのブレザーとブラウス、合わせが右前だ!)」
そう、あのブレザーもブラウスも合わせが右前…
つまりは、女性物だったのだ。
そして、妙に見覚えのある服だと思っていた、その疑問も氷解する。
「(!そうだ…これ、羽月の学校の女子用の制服だ!)」
普段から羽月の制服も洗濯し、綺麗にたたんだりアイロンをかけたりしているはずの涼羽。
普段から、当たり前のようにそれに取り組んでいるはずなのだが…
そのおかげで見慣れてしまい、かえって気づきにくくなってしまっていたのかもしれない。
そして、スカートを掴んでいる手には、赤のリボンタイまである。
「え…羽月、これって…」
羽月は言っていた。
これを、着てほしいと。
――――他でもない、最愛の兄、涼羽に――――
そして、それをこっちに突きつけていた。
つまりは――――
「(俺に、女装しろってこと?)」
――――ということになる。
わざわざ、自分のために調達してくれたというのは、本当に嬉しかった。
嬉しかったのだが…
まさか、女性物とは思わなかった。
それも、羽月の学校の制服だなんて…
「お兄ちゃん♪」
混乱と動揺でうまく思考が働かない涼羽に、鈴の鳴るような声。
そして、満面の笑顔。
しかし、今の涼羽にとって、誰もが惹きつけられるその笑顔は、死神の宣告にしか見えなかった。
「え…羽月、俺…男なんだけど…」
「うん♪だって、お兄ちゃんなんだもん」
「…これって、女の子が着るものだよね?」
「うん♪そうだよ♪」
よし、羽月の認識は至極正しい。
なら、この間違いにも気づいてくれるはずだ。
そんな、この状況で抱くこと自体が無意味な希望を抱いてしまう涼羽。
そして――――
「…これって、俺が着るものじゃないよね?」
「ううん♪お兄ちゃんに着て貰いたくて、もらってきたの♪」
――――希望を打ち砕かれ、絶望を味わった。
確かに、よく見てみると羽月のサイズのものではない。
むしろ、自分にピッタリのサイズのようだ。
「一つ上の、卒業した仲良しの先輩がもういらないからって、くれたの」
「………」
「でね、その先輩が、お兄ちゃんとほとんど同じような体格だったから♪」
「………」
「だから、お兄ちゃんにピッタリ合うと思うの♪」
別に聞きたくもなかった経緯を話してくれてありがとう。
まさに、そんな心境の涼羽。
しかし、目の前の妹は、兄がこれを着てくれるという前提で来ている。
というよりも、確信を持っている。
女装というのは、自分が男だという意識の強い涼羽にとっては、罰ゲーム以外の何物でもない行為。
それを、目の前の妹は兄が絶対にやってくれるという絶大な信頼感のもと、それをお願いしてきている。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
全力で、お断りしたい。
全力で、ここから逃げ出したい。
最近、学校でも美鈴にべったりと甘えられて、周囲の見方が変わりつつある状況なのだ。
心なしか、自分を見つめる視線が増えてきている気がする。
そのことで、割と気疲れが多くなってきているのに。
さらに、こんな罰ゲームを強要されるなんて。
しかし、これを強要してきているのは、今自分が母親代わりとして全力で愛情を注いでいる、実の妹。
「ね?着てくれるよね?」
残酷なほどに無邪気で純粋な笑顔で、兄を見つめる妹。
「…う…」
…できない。
これを拒否すれば、目の前の妹の顔は間違いなく萎れてしまうだろう。
それを考えると、どうしてもできない。
最終的には、自分と妹とで天秤をかけ、絶対に妹を選んでしまう。
母としても。
兄としても。
「着てくれるよね?」
ああ、もうだめだ。
毎回このパターンでいろいろと困らされているのだが…
どうしても、抗えない。
結局、涼羽の答えは――――
「…う、うん…」
――――こうなってしまうのだ。
「!えへへ~♪ありがと~♪」
ぱあっと、花が咲き開かんかのようなまばゆい笑顔を見せる羽月。
そんな妹の顔を見て、仕方ないか、と。
これから自分に襲い掛かるであろう羞恥を思うと、憂鬱になりながらも。
結局は妹のために動いてしまう涼羽なのであった。
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