赤い糸

夏灯 千

第1話

 赤い糸は、確かに彼女の手首に巻きついていた。


 ◇


 幼いときから、僕には人と人との縁が〝糸〟として見えていた。触れようとしても触れることはできず、掴もうとした手は空を切るばかり。それが何かははじめ、わからなかった。

 しかし不思議な糸は当然のように僕からも伸びている。胸から伸びた太く、濃い朱色の糸は、何があろうとも危なげなく僕と両親を繋いでいた。

 知り合いが増えれば糸も増えた。幼い僕はそれを友人の証のようなものだと思っていた。橙、青、緑、黄……。色とりどりの糸が増えていくことが楽しかった。

 小学校に上がるときに糸のいくつかが消えた。消えた糸が結んでいた相手とは二度と出会うことはなく、この糸が意味するものを何となく理解した。

 喧嘩をすれば糸が絡まったり、色を変えたりするのを見た。友人と友人を結ぶ糸が茶色く変色し、切れそうになっているのを見て慌てて仲裁に入ると、糸はまた綺麗な色を取り戻した。

 糸は年を重ねるごとに増えていく。無数の糸の中での生活はやがて、僕の心を蝕み始めた。その頃……中学に入学する少し前だった。眼鏡をかけると糸が見えなくなることに気がついた。それでも目の端にちらつく糸が気になった。そこで期待を込めて装着してみたコンタクトレンズは、糸がちらりと見える隙間もなく僕の目を覆った。

 僕は心の平穏を手に入れた。


 体育の授業中に顔面にサッカーボールを受けた僕の左目から、ぽろりとコンタクトレンズが落ちた。

  痛みよりも気になったのは、一気に僕の目に映り始める色とりどりの糸だった。僕はクラスメイトと先生に大丈夫だと笑いながら言って、一人で保健室に直行した。

 高校の二年生になった僕は、一時人間関係に恐怖を感じて人と距離を取っていたとは誰にもわからないほど、上っ面だけの親しみを感じさせる笑みが得意な、つまらない男になっていた。

 左目を手で覆いながら保健室のドアをノックし、保健医の返事を待ってドアを開けた。

 顔も体型も丸い女性保健医は目を覆う僕に驚いて腰を上げた。

「あら、里中君どうしたの!?」

「サッカーしてたら顔面にボールが」

「目をぶつけたの!? 見せて」

「目は、ぶつけてません。衝撃でこっちのコンタクトだけ外れてしまったので、視力が左右違ってて見えにくくて」

「でも頭はぶつけたのよね? 少し休んでいきなさい」

 優しいこの人はそう言ってくれると思った。

 左目を覆っていた手を下ろすと、彼女の胸から伸びる朱色の二本の糸が見えた。子どもが二人いるのだろう。左の小指に巻きつく紅色の糸は、おそらく彼女のパートナーに繋がっている。僕へ続く糸は柔らかい橙色をした細い糸だったが、ごく薄く透明感があり、この人との縁が薄いものだと示していた。

「コンタクト、2weakの、まだ二日目なのに」

 そうぼやくと、彼女……秋川先生は少しだけ厳しい表情をする。

「そんなこと言って。大きな怪我にならなかったからいいものを。これがハードレンズだったりしたら大変だったわよ」

「そうですね。ハードレンズって高いですし」

「だから、そういうことじゃないでしょうに」

 呆れながらも、僕が冗談で言っていることはわかっているようで、クスっと笑った。

 それから20分ばかり休ませてもらって、僕は遅れて四限目の数学の授業のために教室に戻った。

 戻った瞬間、仮病でもなんでも使って早退すればよかったと後悔した。色彩豊かな糸が無数に張り巡らされていたからだ。

 この一時間を乗り切れば昼休み。左右の視力が違うと疲れるとか言って、保健室に眼帯でももらいに行こうと決め、教卓から三列目の中央の自分の席に座った。

「今ここの問題」

「ありがとう」

 隣の席の新井詩織が、先生が教科書のどの問題の解説をしているのかを教えてくれた。白く細い指が僕の教科書のページをめくるのを見て、少しドキッとする。

 それも仕方がない。新井詩織は誰もが認める美少女だった。艶やかな長いストレートの黒髪に、化粧などしていないのに透き通るような白い肌。はっきりとした二重の大きな目。いつでもぷるぷると瑞々しい唇。男が惹かれないわけがないのだ。しかも、今のようにごく自然に、人に親切にできる優しさも持っている。完璧だ。

 少しでも新井詩織と話せたことを思えば、今回の不測の事態もいいものだったのかもしれないと思えてくる。

 こっそりと、邪な目で新井詩織に視線を向けた僕は、彼女の左手首に、赤い糸が絡みついているのを見た。その糸は、前方に向かって伸びている。そして、教壇に立つ男の背中に吸い込まれていた。

 男が振り返り、かすかに、新井詩織に笑みを向けた。そして同じく、新井詩織も微笑んだ。


 ──白い頬を赤く染めながら。

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