言殺

@tyama

ホラー短編小説① 言殺

立川松子は最近自分の住んでいる地域で不可解な事件が多発していることに気を病んでいた。

たとえば、松子の最寄り駅で起きた電車への飛び込み事件。一ヶ月の内に二件もあった。

たとえば、近くのマンションでの飛び降り事件。自分が住んでいる街中のマンションで一ヶ月の内に三人もの人間が飛び降りた。

他にも近くの公園で首を吊っていたという事件がある。とにかく異様に自殺が多いのだ。気味が悪く思うのは当然だった。何かあるのではないかと思ってしまう。

 実際、都市伝説やオカルト話の情報が集まるネット掲示板では、この町の話題で持ち切りだった。


 あの地域は呪われている。

 あの場所は過去に飢饉があって多くの人間が死んでいる。

 何十年前に大量殺人があった。

 あの場所は方角的に大殺界だ。などなど。


 言いたい放題だ。

 松子はそういったいい加減な書き込みを目にする度に深いため息を吐いていた。こうやって噂に尾びれ背びれ、果てには尻尾や羽根まで生えて、事実とはまったくかけ離れたものになっていくのだろう。

 立川松子は生まれも育ちもこの街だった。大学の時は民俗学の課題の一環で、この街の歴史を調べたことがある。この街の歴史に飢饉も大量殺人もない。不審な失踪事件とかそういった類のものもない。何にもないなんてつまらない街だな、と嘆いたほどだ。

 だからこそ、ここ最近の多発する自殺に関心があった。いわくのない街で何故自殺が多発しているのか。

 別に松子はオカルトに傾倒しているわけではなかった。怖い話は好きではあったが、それはあくまで物語として好きなのであって幽霊だとか呪いだとかを信じているわけではない。

 ただ、ここ最近の多発する自殺がすべて偶然だとは思えなかった。

 何かあるのではないか。あるのなら原因探ってなんとかしたい。

 長年住んでいる街が変な形で有名になってしまうのはやはり嫌だった。


 土曜日。

 彼女は一ヶ月半ほど前に自殺のあった駅のホームにいた。40代くらいのサラリーマンが早朝、駅のホームから飛び降り、ちょうどやってきた特急列車に引かれて死んだのだそうだ。

 ぶつかった瞬間、血が霧のように飛び散り、その男はバラバラになったという。当然、辺りは騒然となり、悲鳴を上げる者、気を失う者、その場で吐き出す者が現れ、普段は特に人も多くなく静かなこの場所が一瞬で地獄絵図と化した。

 以上が、オカルト掲示板にあった自殺現場にいたとされる人物による書き込みだ。ネット掲示板の情報ほど信憑性のないものはないが、この書き込みと一緒に貼られた、現場写真だという画像がそれの信憑性を高めていた。その画像は男を轢いて何十メートルか移動した後に停止した電車の前面を写した画像とのことで、そこには死体らしきものは映っていなかったが、赤い液体がべったりと付着しているのが見てとれた。お世辞にも画質のいい画像ではなかったが、それが決してペンキのような日常にありふれたものではなく、

 異質であり、異端であり、異常である。

 そういった液体であることは充分判断できた。 

 松子はその現場に同じ時間に立っていた。

 辺りは閑静な住宅街ともあって、とても静かだ。聞こえるのは鳥のさえずりと風の音だけ。徐々に領地を広げる日の光が一日の始まりを告げようとしている。どこにでもある朝がそこにあった。幽霊だとか呪いだとか、そういった類のものが割り込む余地は一寸もあるようには思えない。

 その男はいったい何を思って自殺をしたのだろう。

 松子はそんなことを思いながら、辺りに何か異常なものがないか調べてみた。変なお札とか変なマークだとか、そういったものだ。

 しかし、いくら探してもそういったものは見当たらなかった。

 まあ当然といえば当然だった。そういった怪しげなものがあれば、駅員の方でとっくの昔に処分しているはずだ。

 早くも途方に暮れてしまった。

 やはり自殺の多発は偶然なのだろうか。いや、一箇所だけ見て判断するのは早い。せめてもう一箇所くらいは見てみなくては。

 松子はこのまま電車を待って隣駅に行くことにした。その隣駅からすぐのところに、つい3日ほど前に飛び散り自殺があったマンションがあるのだ。

 時刻表を見てみると、次の電車が来るにはまだ少し時間がかかるようだ。松子はスマホで本日の占いを調べ、今日もぱっとしない運勢であることを確認してから、駅の広告掲示板に目をやった。

 △△△で34・3度の猛暑日。

 ○○○と×××の熱愛発覚。

 様々なニュースがあったが、どれも松子の関心の引くものはなかった。昔はタレントの恋愛報道に一喜一憂していたものだが、もうそういうものに興味を持つ年齢はとっくに過ぎていた。

 というか、そろそろ私自身が結婚とか考えなくては。

 松子の頭は早くも日常的な考えに染まっていった。呪いだとか今時古いのだ。 

 電車が来ますのアナウンスの声。

 松子が広告から目を離そうとしたその時、

「ん?」

 視界の端に何か黒い点のようなものがあるのに気づいた。気になり、再び見てみると、見間違いではなかった。

 広告掲示板の鉄枠の右端に小さな黒い点のようなものがある。

普通ならただのゴミだろうと気にしない、というか、気付きもしないようなものだ。

 松子は何故かその黒点が気になり、目を近づけてみた。

 ただの黒点ではなかった。

 それは文字だった。

「進め」

 何かに弾かれるように松子は顔を離した。

 何? これ?

 恐る恐る再びその文字に目をやる。

「進め」

 おどろおどろしさはない。

 ただそう書いてあるだけ、といったカンジだ。

 恐らく普通の黒ペンで書かれたものだ。特別なものは感じない。

しかし、なんでこんなところにこんな言葉が書いてあるのだろうか。それもこんな小さな文字で。目を1センチほど近づけて、ようやくわかるくらいの文字だ。イタズラなら普通、誰もにわかるように書くはずだ。これでは誰も気付かない。 

 たとえこの場所にある広告掲示板を見るのを長年楽しみにしている者がいたとしても、視界には映ってもこの文字に気付くことはないだろう。

 進め

 どこに?

 駅のホームから線路に・・・だろうか?

 松子の頭に、サラリーマンが駅のホームから飛び降り電車に轢かれる映像が浮かんだ。

 サラリーマンは血みどろにバラバラになりながらも尚も進もうとしていた。  

 ただ前に。

 進め 進め 進め。

「ドアが閉まります。危ないので駆け込み乗車はご遠慮ください」

はっと我に返ると電車はとうについていて、発車寸前だった。

 松子は慌てて電車に飛び乗り、車掌の少し怒り気味の「駆け込み乗車は非常に危険ですのでおやめください」のアナウンスを聞きながら、しかし、彼女の頭の中であの言葉が響いていた。

 進め 進め 進め


 彼女が次に訪れたのは隣駅から歩いてすぐのところにあるマンションだった。ここには何度か来たことがあった。というのも、中学生時代、友達がここに住んでいて時々遊びに行っていたのだ。その頃は新築の最新鋭の造りだったそのマンションも、今や古株の威厳を醸し出している。

 最近の建築ブームで周りは新築の家ばかり。余計にそのマンションの古さを際立たせていた。

 松子はまるで自分を見るようで嫌だった。今の職場を連想してしまう。

 と、そんなことはどうでもいい。

 三日ほど前。ここで飛び降り自殺があった。

 死んだのはここに越してきたばかりの主婦。子供が最近生まれて、新しい環境に移ってきたのだという。

 しかし、どうやら彼女にとってこの場所は安息の地ではなかったようだ。

昼頃、彼女はマンションの屋上から飛び降り死亡した。屋上へと続く扉には南京錠の鍵がかかっていたが壊されていたという。

 死んだ主婦の手足を調べてみるとあちこちに打撲の跡があり、いくつかの指は骨折していた。どうやら飛び降りて出来た傷ではなく、南京錠を殴ったり蹴ったりして出来た傷らしい。壊れた南京錠には彼女の血がこびり付いていたというのだ。

 その南京錠はかなり古いもので壊れかけていたそうだが、それでも素手で壊すのは難しく、もし本当に素手で壊したのであれば気が触れていたに違いない、とのことだ。

 ちなみにこれらの情報はこのマンションの近所に住むおばさん連中から聞いた話で、確かな信憑性があるわけではないが、往々にして近所のおばさん連中というのは正確な情報を何故か知っているものだ。

 まさか警察に当時の状況を聞くわけにもいかない。松子はこの情報を真実として捉えるしかなかった。

 松子はそのマンションに入り、その屋上に向かうことにした。

 時刻は16時過ぎ。

 ここの住民は買い物か子供たちを迎えにでも行っているのか、人の気配はほとんどなかった。

 エレベーターに乗り、Rのボタンを押す。

 エレベーターは突然存在しないはずの地下何十階にまで下降し・・・ということは当然起こらず、ボタンが押された通りに屋上階についた。

 しかし、そこから現場である屋上に行くことは出来なかった。屋上への扉には新しい南京錠が掛けてあったからだ。それも三つ。さすがにこれはたとえ気が触れたとしても素手で壊すことは無理だろう。

 松子は屋上に行くのを諦め、周りを見渡してみた。

 お札やそういったものはない。それは調べることもなくわかっていたことだ。

 松子は駅の広告掲示板にあった謎の文字がここにもあるのでは、と思い、探してみた。

 しかし、目を皿にして探してみても見当たらない。

 まあ考えてみれば、屋上階に謎の文字があっても意味がないのか。

 松子は途中で気付いた。

 マンションの管理人でもなければ屋上階なんて行かないだろう。話の流れから考えると、ここに来た時点でおかしくなっていたと思われる。となると、謎の文字に人をおかしくする力があったとしても、ここにはないはずなのだ。あるとすれば主婦のいた部屋のどこかだが、まさか立ち入るわけにもいかない。そもそも何号室に住んでいたのか知らない。

 誰かに聞いてみようかとも考えたが、警察でもなんでもない人間がそこまでやるのは不味いだろう。

 辺りは段々暗くなってきていた。ここの住民も続々と帰ってくる頃だろう。変に注目されたくはない。

 それに足に痛みを感じる。

 それほど歩いたつもりはないが、私もいい歳だしな。

 松子は痛む足を手でとんとんと叩いた。

 今日はこの辺にしておこう。

 松子は一階に戻り、そのままマンションを後にすることにした。無数に並ぶ郵便受けを横目に出口へと向かう。

 と、一つの郵便受けに目がとまった。その郵便受けだけ沢山の広告や新聞が溜まりに溜まっていたのだ。

 まさか自殺した主婦の部屋の郵便受けだろうか。

 いや、ものぐさな住民のものかもしれないし。

 そう思いながらも気になり、松子は郵便受けから飛び出た広告に目をやった。  

 近くのスーパーのものと思われるチラシだ。

 チラシの端に黒い点がある。

 松子は地面が揺らぐような感覚に襲われた。

 目をそらしたい。

 そういった思いとは裏腹に、体はさらに前に動いてしまう。

 黒い点は小さな文字だった。

 こう書いてある。

「解放せよ」

 解放せよ 解放せよ 解放せよ

 頭の中で誰かが囁いてくる。

 松子の頭に、ひたすら解放せよとつぶやきながら、屋上の扉の南京錠を素手で狂ったように殴る主婦の様子が浮かんだ。

 解放せよ 解放せよ 解放せよ


 松子が自分のマンションに帰ったのは19時頃だった。

 一昨日からの食生活のありのままを残した台所を通り過ぎ、松子は外着のままベッドに身体を預けた。

 何だか今日は疲れた。

 肩が痛い。

 まあ、これは今日に限ったことではないのだが。この頃ずっと肩が痛いのだ。

 そういうのが来るという年齢ではあるが、それにしてもこんなに急に来るものだろうか 

 思い通りに動かなくなった自分の身体が恨めしい。

 ポンポンと肩を叩き、目をつぶって一息つく。

 進め 進め 進め

 解放せよ 解放せよ 解放せよ

 松子はガバッと飛び起きた。

 今日見たあの文字が頭から離れない。

 あれはいったいなんなんだろうか?

 偶然・・・ではないように思える。

 ならば、あの文字を見て、駅ではサラリーマンが、マンションでは主婦が自殺してしまったのだろうか。

 いわゆる呪いの文字というやつだ。

 しかし、だとしても疑問が残る。

 文字があまりに小さすぎるという点だ。あんなに小さくては注意深い人間でも気付かないだろう。たとえあの文字に人を操る力があったとしても気付かないのなら意味がないのではないか。

 そもそも文字で人を操るなど馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そう思いながらもそれでも気になるものは気になってしまう。

 あの文字はいったい?

 ピンポーン

 突然、チャイムが鳴った。

 ビクッと身体を震わせる松子。

 しかし、時計を見て、誰が来たのかわかった。そして、同時にしまったと後悔した。

 ピンポーン

 二度目のベルが鳴る。

 松子は慌てて玄関の扉を開けた。

 そこには若い女性が立っていたを

「先輩、また来ちゃいました」

 彼女は大川ひとみ。松子の会社の後輩だった。ほんのりと茶色に染めた髪が実に似合っていた。

「ひとみちゃん。また来てくれたんだ。歓迎するわ」

 その言葉とは裏腹に松子の表情は実に乾いたものだった。

「はい。また来ちゃいました! ええと今日はどんなカンジですか?」

 大川ひとみはそういうと靴を脱ぎ、ズカズカと部屋の奥へと上がっていった。  

 松子は慌てて進路を塞ぐような動作をしたが、間に合わなかった。

 ひとみはまっすぐ台所に向かい、48時間以上汁物を放置するとどうなるのかという実験の結果を目の当たりにした。

「今日はまたいつも以上にひどいですね? 先輩」

 ひとみはそう言いながら、手は早速片付けを始めていた。

「ご・・・ごめんね。ひとみちゃん。いつもは・・・こうじゃないんだけどね」 

 松子はこの台詞を過去に何度言ったか、もはや覚えていなかった。

 彼女がこうして松子の部屋にやってくるようになったのは一年ほど前からだった。

 会社の女子だけの鍋会をこの部屋で行った時に、初めて彼女はこの部屋に足を踏み入れた。そして松子のだらしない性格を目の当たりにしたひとみは、それ以来時々やってきては部屋の掃除をしてくれるのだ。

 やってくるのはだいたいこの時間で、この時間にチャイムがなるたびに松子は一年前からあいもかわらず掃除が出来ていないことに後悔の念を感じてしまうのだ。

「先輩、夕ご飯まだですか? まだなら何か作りますよ?」


 30分後、すっかり綺麗になった台所ではクリームスープが作られていた。こうなることを予想して近くのスーパーで材料を買っておいたという。どこまでも完璧な女性だ。

 彼女が入社した当初、松子はゆとり世代と思って若干舐めた態度を取っていたが、まったくとんでもない行為だったと、今では反省している。

 出来る人は何歳でも出来るのだ

「で、どうだったんですか? 調査の方は?」

 松子がスープを味わっていると思わぬ質問がきた。

 ひとみには多発する自殺の調査をすることを話していた。といっても、別に詳しく話したわけではない、だいぶ前にさらっと話しただけだ。出来る女というものは日常会話の一つ一つしっかり記憶しているものなのだろうか。

「うん。まあね。でも、特に何も見つからなかったの。やっぱりただの偶然みたい」

 松子はあの謎の文字のことは話さないでおいた。

 話したところで信じてくれはしないだろう。

「そうでしたか。ちょっとつまらないですね。何か呪いとかあればいいのに」 

 他人事と思って無責任なことをいう。

 しかし、別に嫌な気持ちにはならなかった。彼女のそういうストレートなところを松子は気に入っていた。彼女とこうして食事をしながら会話をする。それがここ最近の松子の唯一リラックスできる時間だった。


 翌日、松子は足の痛みを感じ、目を覚ました。

 足のももが痛い。

 筋肉痛だろうか。

 痛む場所をガンガンと叩いた。


 こんな歳食った身体なんて壊れてしまえばいいのだ。


 今日も休みで良かった。 今日一日しっかり休んで、明日に影響しないようにするのが正解だろう。

 しかし、どうしてもあの謎の文字が気になった。他の自殺現場にもあの文字があるのではないだろうか。

松子は足の回復を待って、多少無理をしても調査に行くことにした。幸い、しばらくすると痛みは和らぎ、午後には出掛けることが出来た。

しかし、調査の方はまったく進展がなかった。三点、自殺現場に足を運んだのだが、どこにもあの文字を発見することが出来なかった。

 


夕方、松子は最初にあの文字を見つけた駅のホームにいた。

 今日一日の仕上げとしてもう一度調査をしにきた・・・というわけではなく、ただ単に自分のマンションに帰るためにである。

やはりあの文字はただのイタズラだったのでは?

松子の頭はだいぶ現実に戻っていた。

明日からまた仕事か。キツイなぁ。

周りから聞こえる声も日常そのものだった。

「明日からまた会社だよー」

「勉強かったりー」

「あいつマジでバカだよなー」

「進め」

 え?

 思わず振り返った。

 振り返るべきではなかった。

 しかし、振り返ってしまってから気付いたところで遅かった。

 男がいた。二十代くらいの若い男性。

 走っていた。

 まるで競技場を全力疾走するかのように。

 駅のホームを走っていた。

 進め 進め 進め

 つぶやいていた。

 まるで呪文を唱えるかのように。

 人間は想像を超える出来事が起きると何の反応もできないらしい。それを松子は自ら体験し、知った。

 周りも同じようだった。

 突然走り出した男に誰もが気づき、しかし、誰も何も出来ずにその場で停止していた。

 恐怖だとか戸惑いだとかそういうものではない。そんな反応すら出来ていなかった。

 男は停止した時間の中を我が物顔で泳ぎ続けていた。

 やがて、それまでホームの中心をまっすぐ走っていた彼の動きが乱れ始める。あっちにフラフラ、そっちにフラフラ。まるで酔っ払い。

 違うのは真顔なところだった。笑いも怒りも哀しみもなかった。ただ真顔だった。まるでそこに貼り付けているかのように。

 徐々にフラフラの幅は大きくなる。

 そして、

「あっ」

 落ちた。

 ホームから。

 プワァーーーーン

 そこに電車がやってきた。

 パァァァァァァァァァン!

 衝撃が松子の全身を叩きつけた。

 まるですぐそばで原子力爆弾が爆発したようなーーもちろん原子力爆弾の爆発など見たことも聴いたこともないがーーそれくらいの衝撃だった。

 全身がビリビリと痺れる。

 どこからかキャーという叫び声が上がり、それを合図に一斉に周りの物が動き出した。

 それまで停止していたエネルギーが一斉に吹き出した。

 叫び

 怒鳴り

 泣き

 唖然とし

 呆然とし

 それぞれが混ざり合い、混沌をなしていた。

 そんな中、松子は未だに静止したままだった。

 男は確かにつぶやいていた。

 進め 進め 進め

 あの文字は本物だったのだ。松子は怖い気持ちを必死に抑えて、あの広告掲示板に向かった。

 これ以上被害を増やすわけにはいかない。なんとかしなくては。

 掲示板の前に立ち、黒点に目を近づける。

 そこには進めという文字はなく、代わりに他の文字があった。

「もうすぐあなたの番」

「ひっ!!」

 思わず声が出てしまった。

 心臓の鼓動が一気に高まり、汗が吹き出る。

 もうすぐあなたの番

 もうすぐあなたの番

 もうすぐあなたの番

 あなたというのは私のことだ。

 松子は瞬時に理解した。

 不特定多数に向けられた言葉じゃない。多発する自殺を調べていた私一人に向けられた言葉だ。

 気付かれていたのだ。

 犯人に。

 そして私が再びこれを見に来ることを見越して文字を。

 松子はぞっとした。早く逃げよう。

 振り返り、

 振り返った目の前に、

 見知らぬ老人がいた。

 お爺さんなのかお婆さんなのかわからなかった。

 じっと松子のことを見ている。

 そこには憎悪も嫌悪もなく無表情だった。さっきの男と同じく、まったくの無表情。

 松子の身体はまたも停止してしまった。

 異様に痩せこけていることを除けばどこにでもいる普通の老人に見えた。しかし、この混沌の中、ただ無表情でいることが異様以外の何物でもなかった。 

「あんたも無意識の内に言葉を埋め込まれたみたいだね。可哀想に。まあ、でも自業自得だね」

 やはり感情のこもっていない声だった。

「無意識?」

 松子は思わず聞き返した。

「そう。無意識。ほっとしている時、リラックスしている時、そんな警戒心のない時に本人の気付かない形で一つの言葉をインプットさせる。進めだったり、解放せよだったり、何でもいい。すぐには効果は出ない。だけど、何日も何週間もその文字を無意識の内に見せられると徐々にその言葉に支配される。本人が気付かないうちにね。そして段々とその言葉通りに行動してしまう。最初はわずかな瞬間だけ。少しずつ時間は伸びて、やがては四六時中その言葉の行動しか出来なくなる。まあ、大抵はその前に死んでしまうけどね」

 何を言っているのかよくわからなかった。

 無意識?

 インプット?

 よくわからない。

「いいかい。お嬢ちゃん。世の中には何もかもに恨みを持つ人間がいるんだよ。そういう人間が社会に一定数必ず存在している。それを忘れてぼんやり生きているのがいけないんだ。道を歩いているだけで刺される時代さ。どんな相手にも油断しちゃいけない。まあ、あんたはもう手遅れだけどね」

 わからない。

でも、私は正常だ。

 多分。




あれから一週間が過ぎた。会社はあれから行っていない。精神的に病んでしまったというのもあるが、それ以上に肩や足が痛くて仕方ないのだ。

 まだ30代なのに。自分が情けない。

 痛む肩や足を叩く。労りと怒りをない交ぜにして。


 トントン トントン

 タンタン ダンダン

 ガン! バキッ! ボキッ!


 ちょっと叩き過ぎたか。

 松子は肩の辺りを鏡で見てみた。


 肩はあり得ない方向に変形していた。

 右肩は陥没していて、血がしたたり、中から白いものが見えていた。

 左肩は異様に膨らんでいた。まるで風船のようだった。

 足も見てみた。

 太もも全体が黒く変色している。

 内出血とかそういうレベルではない。まるで黒ペンキで塗ったかのようだった。

 何故こんなことに。

 いや、わかっている。

 自分がやったのだ。自分で壊したのだ。

 私のような人間は壊れてしかるべきなのだ。

 そうだ。

 壊れてしかるべき。壊れてしかるべき。壊れてしかるべき。

 ガン !

 松子は頭を鏡に思い切り打ち付けた。

 衝撃が全身を巡り、遅れて激痛が襲う。激痛はやがて耐えきれないほどの温度の熱となり、その熱は下へと滴り落ちる。鏡の破片が松子が赤い何かになったのを教えてくれた。赤は少しずつ彼女の色を侵食していく。


 不味い。

 このままでは不味い。

 どうにかしなくては。

 まずは救急車だ。

 救急車を呼ばなくては。


 壊せ 


松子はスマホを手に取ったが、それは真っ二つに割れていて、上半分がなかった。

 昨日、上半分を食ってしまったことを思い出した。

 フラフラと寝室から出る。

 こうなったら歩いて病院へ行こう。寝室から台所に向かい、そして玄関に向かおう。

 しかし、台所前で転んでしまった。棚にぶつかり、お皿が落ちる。パリンパリンと何枚ものお皿が割れてしまった。幸い、落ちた中の一枚だけは割れずにすんでいた。

 そのお皿の端に黒い点があった。

 よく見るとそれは文字だった。

「壊せ」

 そういうことだったのか。

 ようやく松子は理解した。

 このお皿はひとみが料理を作る時に必ず使うお皿だ。確かに彼女と食事をしている時はリラックスしていた。そこを付け込まれたのだ。

 何故こんなことを。

 おそらくたいした理由はないのだろう。

 あの老人は言っていた。

 世の中には何もかもに恨みを持つ人間がいる。

 そういうことだ。

 こうも言っていた。

 道を歩いているだけで刺される時代だと。

 それが今回私だったというだけのことだ。

 仕方ない。仕方ない。仕方ない。

 仕方ないから壊しちゃおう

 右手を散乱したお皿の山の中に打ち付けた。

 バキッ

 鈍い音がした。

 右手が肉片とお皿の欠片との融合物となって、床に飛び散った。もはや痛みは感じなかった。

 嫌だ。

 誰か助けて。


 壊せ壊せ 


 左手が包丁を持っている。 

 心臓を抜き取って壊しちゃおう。

 嫌だ。やめて。死にたくない。

私は・・・


 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ助けて壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ止めて壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ嫌だ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ死にたくない壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ生きたい壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ私は壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊れたくない壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ生き壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊


ザクッ

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