浮舟

merongree

第1章 祝福します

彦星さん

織姫さん 末永くお幸せに!! 

幸せな家庭を築いてください☆☆☆


 銀色のマジックで続けて「HAPPY☆FAMILY」と書こうとしたところで

「いや今井さんそうじゃないから」

 と、大学生のバイトの武田さんに止められた。

「あのさ今井さん、これ大野さんの結婚の時と同じだと思ってるでしょう、そうじゃないから」

「何か違うんですか?」

「あのさ、そうじゃなくて、これ実在しないカップルだから。それで会えないっていう前提で話続いてるから。ねえ分かるでしょう、幼稚園の時とかにやったでしょう、七夕って」

「大野さんの旦那さんも私ジツブツ見たことないんで、あんま実感わかないですね」

「そういう理屈はいいから、何か、書いてよ、子供が後に続きそうなやつ」

 そう言い、彼は竹に吸わせるための水を汲みに、空のバケツを運んでいった。それはパートの福山さんに、私がやっておくように言われた仕事で、彼がそれをさらりとやるのは、力仕事を若い女の子にさせまいとする思いやりの表れにも見えた。

 そもそも彼が私に命じた、笹の短冊の中身を書けという不可解な仕事も、私から力仕事を取り上げる上で、彼がついた下手な嘘のように思われた。色とりどりの短冊の堆い山が、私には過ぎた量の優しさの堆積のように見えた。

幼稚園の時、と言われたけど確かにこういう物はあった。幼稚園児の喜びのために、明るく犠牲にされた馬鹿な七面鳥、そんな物があったような気がする。そしてその一羽から毟られた羽根に、幼児一人一人が何かしら乱暴な文字を書きつける。その内容が乱暴であるほど、元気がいいと言って大人が喜んだような気がする。

 私は幼い頃イベントに無気力に参加し、あらゆるお祝い事における光景の乱れた輪郭を見て、犬に吠えられたように驚いて怯える子供だった。だから自分の思い出として大切に、写真に撮るように残した記憶は何も残っていない。武田さんは、私に謎のように投げ与えた思いやりのことなど忘れたように、音のない足取りで既に店の裏に回っていた。……

 銀色のマジックの、キャップを外した先端は少しけば立っていた。スーパーのポップではこんな色使わないので、専らこういうイベントのために摩耗したものと思われた。この摩耗は、七面鳥を毟る喜びと同じく、子供たちの野蛮な喜びのために捧げられた少しの犠牲だったのだろう。

 しかし果たしてこんなギセイは、必要だったのかなあと私には思われた。本当はこんな摩耗などなくとも、この辺りに住む誰一人として不幸にはならなかったのじゃないか。

そうした私の、「未来に対して犠牲を払う必要なんかない」という考えは、私の行動を常に他人より多少消極的にした。職場でも学校でも家でも、「薫子ちゃんはあと少しね」「やれば他人より出来るのに」などと言われた。

 私を私のまま、押し留めていたのは彼らの想像したような、未来への漠然とした恐れなどではない。負けたくないからじゃない。なまじ器用だから目標が分からないからでもない。勝てない他人にぶつかるのが怖いからじゃない。姉と、比較されたくないからでもない。今時の携帯電話がやたらに便利で、しかも無気力な見た目であることと関連があるわけでもない。

 私は彼らの想像そのもののような、曖昧な無気力の膜に包まれて行動しなかったのではなく、「未来において私の犠牲なんか必要だろうか」という一個の考えを腰にぶら下げていただけだった。もし誰かから誤解を解くように、その錘を外すように「きみの犠牲が必要だ」と言われたら、私は自分の身をどこにでも簡単に投げただろう。

 でも、実際には私の説の方が正しいことを分かっている。小学校の書き初めで「世界平和」などと書かされたり中学校のスピーチコンテストで、「日本と世界の架け橋になりたい」などと言う子が優勝したりする方がおかしいのだ。

 未来には、私たちの誰かがいなくては成り立たないような、決定的な亀裂などありはしない。誰かが抜けても栓を抜かれた未来が洪水を起こして流れて来るなんてことは起こったりしない。

 私一人が足抜けをしたってこの店が回るのと同様、私が抜けても、未来において何かが不足することなんかありはしないだろう。私には、私自身、また誰もがそうであるのと同様、素晴らしい未来とやらのために己を犠牲にしたりする必要など皆無なのだ、と思う。

 私は願い事の代わりに、星に吠えかかる白い犬の絵を描いた。

「はい、今井さん、お手本」

 そう言い、武田さんは私の前に、水滴の痕跡のついた短冊の束を差し出した。

「何ですか、これ」

 そう言ったものの、私には彼の優しさの内容が既に分かっていた。犬に対しては命令しないと動作の仕方が分からないのと同様、不器用な私は自由にやれと言われたことは何一つまともに、少なくとも普通の子が普通にやる通りには出来ず、常にお手本を必要とした。

 そのことを、パートのおばさんたちは私の若さと結びつけて、無気力な若者の怠惰さの表れとして非難したけれど、武田さんは合理的で優しい大学生らしく、私のこの癖を見抜いて、犬に命令するように私に適切に対処した。

 彼は、七夕の短冊をうまく書けない私に、昨年の子供たちが書いた短冊をお手本にして示した。彼らの願いごとを、真似なさい。

「いまどきの子ってさあ、変わってるんだけれど、みんな似てるね。フォーマットがないと駄目なんだよね、何していいんだか分かんないって」

 自分こそ大学三年生で、二十一歳で十分若いというのに、彼は時々自分が年寄りであるかのように振る舞った。七夕の短冊ごときの物を「フォーマット」などと言うのが奇妙ではあったけれど、これは彼の合理的な考え方と、私の杓子定規なものの考え方とで、少し重なる部分があることを示すもので、やはり彼の思いやりの表れらしくも見えた。

 彼は年寄りではなかったが、私と同い歳の十六歳のバイトの女の子と恋愛結婚をしていた。ことさらに自分を老人のように語るのは、十代の妻と自分を比較する癖がついているせいだろうかと私は思った。

「実花ちゃんと私、でもちょっと違いますよー」

 と私は明るく、不平らしく聴こえないように、努めて冗談めかした口調で言った。

「実花が? ああでも、なんか今井さんと違うね、でも同い歳なんだよね、確か」

「うん実花ちゃん、私より数か月早いだけで。中学の時クラス一緒だったし」

「そうそう、あいつがね、『薫子ちゃん、なんで進学やめちゃったんだろう』って、たまに家で言うよ、なんか残念がってる。有名人だったのにって。『なんでおかむらのパートなんかになっちゃんだろう、絶対深山高校行けたのに』って」

「よく言いますね彼女、自分だってここの売り子やってるくせに」

 私は紙の上にキュキュッとマジックを擦りつけて、星を増やしつつ言った。

 私のこんな尖った態度は、私が進学しなかったことが絡んだ話になると、驚くほど容易く赦されるのだった。この時も私が、彼の妻に対して非難するような言葉を投げたにもかかわらず、武田さんの方が痛まし気に押し黙った。そうなることを想像してはいたものの、実際にその光景になると何だか口のなかが苦かった。

「先生とかが期待してくれても、なんか、私は私に期待することがなかったんで、別に」

 後悔とかはしてないです、ヨロコビみたいなもんもないけど、でもヨロコビを掴むより、大失敗しない方がいいじゃないですか、だから後悔とかは全然ないです。ここで働かせてもらえて有難いし、週五で働いてれば、正社員でなくても自分の小遣い稼ぎぐらいにはなるし、と私は私についての、もう百回ぐらい繰り返した説明を一通り行った。

 なぜ大人というものは、道を踏み外したように見える若者の傷口の度合いを見たがるのだろう。電車のなかで泣いている赤ん坊と、私は変わらないぐらい大人に注目され、表情を伺われ、さらに泣き叫ぶことか笑顔を見せることのどちらかを、執拗に期待される。ただ歩いて近所のスーパーに買い物に行くようにぶらぶらと生きているだけなのに、何かから逃亡しているかのように後をつけて様子を伺われる。

 武田さんぐらい優しくて近しい他人でさえ、こんなに滑らかに私に野蛮になる。

「寂しいねえ、いまどきの若者は。夢っていうものがないのかい」

「現実が悪夢にならなけりゃ、それが夢です、いまんとこ私は」

 自衛のために夢でも持つか、というような気にもなり、私は手持無沙汰に、武田さんのくれた短冊の束を引き寄せた。昨年の子供たちの筆跡による、大半は叶わなかったんだろう願い事の束は、色とりどりでありつつも一様に効力の切れた感じがして、ボードゲームで億万長者に配られる偽の紙幣のようにどこか味気なかった。

 私は一つ一つ、期待を懸けずにその願い事の顔を覗いた。私でも真似できるような願いなんてものがこの世にあるのだろうか。あらゆる願い事は、顔の知らない他人同士の結婚のように私にはどうでもよかった。


かけっこでいっとうしょうになれますように


ダンスがうまくなりたい


AKBに入りたい


ちかちゃんと同じクラスになれますように


ころんでほねをおりませんように


「私、幸せなのかもしれません」

 と、私は揃えた短冊の束をトントン、と机の上に揃えつつ言った。

「どうして?」

「だって、ここに出て来ること、大概もう叶ってるから」

 武田さんは私から紙の束を取り上げると、可笑しいぐらい真剣にそれを眺めた。

「運動会のかけっこで一等賞になりたい」

「私かけっこ早かったんで一等だったし」

「ポケモンゴールドがほしい」

「言えばゲームも買ってもらえたんで、姉ちゃんは目が悪くなるから禁止だったけど」

「えーけーびーに入りたい、今井さんアイドルだったの」

「体育祭の出し物でAKBはやったことあるからいいかなって」

「ダンスがうまくなりたい」

「ダンスのとき体育の成績5だったし、体育得意だったから」

 割となんでも出来るんじゃん、今井さん要領がいいんだねきっと、と言って彼は短冊の束を机の上に置いた。彼の妻はそうではないから、そのことともまた比較しているのだろうなと、私は彼の仕草を見た時に思った。

 私は口のなかに広がった苦みを味わいつつ

「でも、何にも残らなかったです」と言った。

「努力ってどういうことなのか、死ぬほど要領悪いのが上にいたんで、何だか分かってたつもりだったけど、努力して何かを勝ち取るとかが、私には無理だなって思えて。

 なんか割とまあまあ、何でもやれるっちゃやれたんだけど、全部手のなかぬるっとすり抜けちゃった感じで。テストも平均ぐらいの点数なら取れるけど、もっと出来る子がいるし。体育の短距離走で一等は取れても、ちゃんと部活やってる子には適わないから、体育大会のリレーの選手にはなれなかった。

 私、まるで目が悪いみたいに、遠くにある目標ってものを見つけられないんじゃないかな。生まれる前に私の視力もぜんぶ、あいつが持っていっちゃったんだと思います、多分。私はちゃんと練習して、勝つことまで習慣に入れたりしないから、何でも代表選手には選ばれなかったし。

 こんなに沢山叶ったけど、私、自分が今何でもないっていうのは、確かに言われる通りだなって今思います。ちゃんと願い事をやってたら私、もうちょっと自分を何かだと思えたのかな。アイドルになれたって思うみたいに、何かが叶った人だと、自分のこと見られてたんだろうか」

 半ば独り言のように呟きながらマジックを鳴らしていた私に、武田さんがふいに

「……今井さん、目が悪かったの?」

 と間の抜けた、しかし冷静な彼らしい質問をした。

「両目視力とも一・五です」

「すごいね、裸眼でそれなんだ」

 彼は小さく叫んだ。

 彼は恐らく、自分の短冊があれば「目がよくなりますように」とでも書いたのだろう。彼は仕事の時に黒縁の眼鏡を掛けていて、それが彼を定規で引いたような好青年の姿に見せていた。

 私は黙って、子供たちが叫ぶような字で書き散らした、私が共感出来ない切実な願い事を一つ一つ、新しい短冊に書き写していった。昨年とは数が違うのか、クリーム色の短冊が一枚余った。

 ここに書くことが欲しい、と私はマジックで書いた。

「出来ました――」

 と私は、一仕事を終えた人らしい快活な声を上げて、自分の犯罪を子供達の叫び声の束のなかに紛れさせた。


 翌日、それらは武田さんの手で紐で結びつけられ、スーパーおかむらの前に掲げられた笹の葉のなかで、風に煽られて等しく揺れていた。昨日、玩具の紙幣のように白々しく見えた白紙の短冊が、この毎年掲げられる植物の身体の一部になることで、見事に慣習らしい埃をかぶって見えることに、私は驚いた。こういう古いスーパーが買い物をする客に、期待未満の安心を与えるみたいに、慣習のなかに溶け込んだものは正義に満たなくても、正当性という薄い埃を纏っていてくれるように感じられる――。

 自分にないものを欲しがるという行為自体、何だか私には野蛮な行為のように思われたけれど、慣習のなかに溶け込んでしまうことで、好き勝手な願い事を書いた色とりどりの短冊も、植物の緑のように一様に優しく目に映るのだということは、私にとっては発見だった。

私は、願い事は自分には縁のないものだと主張したけれど、そのことは小さな嘘だった。私にとって願い事というものは、人間の急所をえぐる凶器だった。

 姉が幼稚園児の頃から、正確に言うと私が彼女の背を越えた時から、ずっとそうだった。


 私が働き出した当初、地元の老舗店であるスーパーおかむら(元・岡村乾物店)には、私の他に、パートが四人いて、アルバイトは大学生の武田さんと、彼の妻になった高校生の実花ちゃんだけだった。

 殆どパートだけで回している感じで、店長はパチンコに行っていることの方が多く、滅多に店には出てこなかったし、店の方でも別に彼を必要とする場面がなかった。時々彼は若い女の子をバイトとして連れて来るが、そういう子が続いたためしはなく、誰も定着しなかった。

 私はそういう店長の紹介ではなく、四月からバイトをしていた実花ちゃんに、手を引かれるようにして五月の連休後に入った。

本来なら高校生であるはずの私が、中学を卒業してから何もせずぶらついていて、いきなりパートで入ってきたということは、何か事情ありげだと当初おばさんたちの興味を引いた。

 しかし四月に入ったばかりでもう、すっかりおばさんたちに気に入られていた実花ちゃんが、私が頼みもせぬのに全面的に私を庇った。彼女は、私が髪を脱色しているけれど、あれはブリーチというもので、若い子の間で流行しているファッションだから、別段彼女は不良というわけではないということまで説明した。

 私が最も苦手なのは、「何になりたいのか」を上手く説明することだ。私は何も、金髪になりたかったわけではなく、ただ髪の色を薄くしたかっただけなのだが、安い薬品を重ねて使ったせいですっかり痛んで金髪になり、余りに痛んだ部分を面倒くさがって自分で切ったがために、やたらと挑発的な髪型の少女の姿になってしまっただけだった。

 大人の目に映るのはその実物でなく、彼らにとって歯触りのいい解釈の影だけだ。こんなにも金髪で、学校にも通っていない私に、これといった主張がないということを、大人の誰が信じてくれただろう?

 実花ちゃんは私の性格にある空白を分かっているようで、その空白をありもしない私の架空の良心で埋めたがっているようで、私は犯罪者でもないのに実によく彼女に庇われた。また、彼女は性格が良く気に入られていたのだが、どうにも要領が悪くて仕事の際に必ず何かをこぼした。後に入った私が、声も掛けずに後始末してあげることが度々あった。

 私が彼女につらく当たっている、とおばさんたちは噂し、そのことを実花ちゃんが気にしているようだったので、私は彼女らの見ている前で、実花ちゃんに

「ごめん」

 と謝った。彼女は

「私が薫子ちゃんに、上手く教えられなかったから」

 と曖昧なことを言った。

 何のことだろう、と私は思った。私は、自分こそろくでもない奴だと分かってはいたけれど、悪くもないのに他人に謝ったり、また悪いことをしていない他人を庇ったりする、彼女のようになりたいと願ったことは一度もなかった。ただ、そのことを彼女に突きつければ、彼女は一層私を許さなくなり、またそのことで私に一層期待を懸けるだろうとも思った。

 武田さんは、そういう私たちを遠巻きに、穏やかに眺めていた立場だった。それから六月になって、実花ちゃんとラインで話していたときに唐突に

「結婚するの」

「誰と」

「みんな知ってる人」

 という遣り取りがあり、それが武田さんなのだということを口頭で彼女に告げられた。

 私は何というか、何であろうとゆっくりと糸を手繰るような手つきで手に入れ、時に大幅に取りこぼしてきた彼女が、自分の好きな獲物を攫う時の素早さに呆気にとられた。

 実際、実花ちゃんのこの意外な鋭さは、それまでただのいい子だった彼女の評判を「ああいう子が案外ね、」と覆しかけた。

 パートのおばさんたちは大概、武田さんを気に入っていたので、彼女たちのお気に入りの娘が彼を手に入れたことを祝福しつつも

「まだ高校生でしょ」

「よく親が許したわねえ」

「あれじゃない、妊娠」

 という三点では譲らずに口さがないことを言った。

 彼女はしかし無辜だった。彼女は全くの恋愛で彼を好きになり、武田さんの方では初め、彼女を妹のようにしか見られなかったということだけれど、恋になるより先に、肉親を愛するように愛したようだった。

 若いとか学生同士なのにと言われてはいたけれど、私は実花ちゃんが私に打ち明けた時の恥ずかしそうな態度に、何か遅々とした生真面目さがあるように感じられた。私の眼には、彼らは互いに誠意を尽くすことを考えた上で、生真面目にもいきなり夫婦になったように見えたし、実際、この感想は実花ちゃんには気に入られた。

 そもそも出会って二か月で妊娠も何もないだろう、と私には思えたのだけれど、おばさんたちの噂には科学的根拠などというものは必要なく、私においては脱色した髪が過去の犯罪歴の証拠になりえるように、彼女らの眼には色彩鮮やかに映らない部分があるだけでもう、彼女らの許せないものがそこに存在していると信じ込めるらしかった。

 タイプは違えど、私たちはともに、彼女たちには良い娘ではないかと私には思われた。全面的に憎たらしいものがあってそれを憎むこと、また愛おしいものの中に一かけらの疵を見出すということ、どちらも甘い菓子をつまむような素晴らしい快楽であるということを、私は私たちを眺める大人の女を見て知っていた。また彼女らがおやつの時間に分け与えてくれる、許せないものの話を聞いて加わるうちに、敵意の味わい方を知ってもいた。……


 七夕の飾りが無事、スーパーの前で揺れていることを私は試食品のウインナーを焼きながら時折眺めた。それから、昼よりも少し前に新品の袋を破いた。かなり余らせてしまえば、昼の休憩の時に引き取って少し食べられる。

 あまりこういうことをしてはいけないのだが、陰口によって他のパートと親しくなれるのと同様、少しの掟破りをすることが、私にとってかろうじて可能な、人工的な愛嬌だった。そしてこの愛嬌は、他人と分かち合わなければすぐさま、私の場合ただの非行の名残として見つけられる。

 この数か月間で、私はまるで過去に本当に悪いことをやっていたかのように、自分の行動を分析し、まるで他人がするように冷酷な批評をする癖が身についていた。要するに私はここの一員として生活をしようと努力していた。

「味がついてますから、焼いて、そのままお弁当のおかずに入れられます――」

 私はす、のところを言い終わらないうちに、用意していた紙皿のなかに、さらりと焼けた肉を攫った。それからホットプレートの電源を切って、まだ残しているウィンナーの上にアルミホイルを被せた。その下にそっと指を入れて取り出そうとする子供に

「熱っついから触っちゃだめだよ」

 と、ちゃんと怒鳴りながら。


 休憩室に戻ると、パートの中では比較的に若い、三十代初めの伊東さんが先に戻っていて、携帯電話を触っていた。

「あー薫子だ、お疲れさま」

「お疲れさまです」

 私は、単に比較的若いからという理由で、大人の女の群れのなかでは割と彼女が好きだった。少なくとも携帯電話の操作の仕方は似ていて、そのことは考え方の近さに十分匹敵した。

「食べます? 伊東さん、お弁当に入れるウインナー」

 ありがと、と彼女はこちらを見ずに画面を見たまま言った。私は彼女のこういう態度に好感を持った。

「なんか唐辛子みたいなの入ってるけど、あんまり辛くないから食べられますよ」

 それから私たちは、紙皿の上に散らばった子供の指ほどの肉を串で刺して片づけた。

 伊東さんはふいに喋った。

「ねえ、武田くんてさ、さっき表の笹運んでるの見たけど、」

 私は頭のなかで、腕をまくって笹を持ち上げる武田さんの姿を思い出した。

「なんか、腕ふつうの人より長くない?」

「長いですか? あんまり思ったことなかった」

「え、なんかこう、持つじゃん、荷物。それで思ったんだけど、右腕だけ長いなこの人って」

 そう言い、彼女はくるりと私に背を向けた。エプロンをしている彼女の背中には、おんぶ紐のようにエプロンの紐がバッテンになっていて、彼女は私に示すようにしきりと縛られた肩を上下させた。

 どうも、右手だけが長くなっているということを示したいみたいだったが、それも私には、彼女らの仕方のない口さがないお喋りのように思われて、盛んにそういう格好をしてみせる彼女にふと嫌気がさした。身体的特徴のいびつさもまた、彼女らが好んでする噂話のよくある種だった。

「えー分かんないです、ああでも、」 

 と私は適当に、話を違う方角に引き摺ろうと努力して、

「あれかも、テニスやってたとか」

「テニス?」と彼女は少し上向きに目を見開いた。

「実花ちゃんに聞いたことあります、武田さんテニス部だったって、高校の時から。大学でもテニスやってるって、そうすると利き手ばっかり使うから、そっちの方が伸びちゃうらしいです、仕方のないことみたいで、部活やってた人は、だから腕見れば分かるって」

 そうなんだ、と伊東さんはわずかに閃かせた興味の眼をもう伏せて、肉をつつくことの方に没頭した。

「テニスねえ、私も小学校のときクラブ活動でやってたけど、別に腕伸びたりしなかったな」

「だから、長くやらないと駄目みたいですよ、それこそ骨の形変わるぐらいまで」

「ふうん、武田くん、根性あんだね」

 骨が変形するというのは仕方のないことなのか、それとも根性によるものなのか。努力という種目を全くやってこなかった私は、こういう精神論を持ち出す会話でいつも手詰まりになった。

 私の性格上、こういうことは区別して分かりたかったけれど、実体験として骨が変形するまで続けたことがないから、それがどちらによるのかは証言できなかったし、また想像するよすがもなかった。

「あとさ、サルテって分かる、薫子、手えこうしてみて」

 彼女は器用に串を口に咥えたまま、立って腕を伸ばすようにと私に促した。私は体育の授業のように、起立して彼女の前で飛び込みをする人のように両腕を伸ばした。

「それで小指同士くっつけるの、ねえそれでさあ、あんた肘から下ってどうなる?」

 私は離れている、と漠然と答えた。

「これが何か、意味とかあるんですか」

「ふうん、薫子もサルテじゃないんだ、でもあの人、腕曲がってるならサルテかもよ」

 彼女曰く、サルテの人の場合、手のひらを仰向けにして伸ばした時、小指同士をくっつけると、肘から下がぴたりとくっつく。しかし本来それはつかないはずの部分で、つくということは骨が変形している表れなのだそうだ。

「猿はそれ出来るから、サルテって言うんですか」

「知らない、出来んじゃないの多分、『猿の惑星』でしか猿の実物って見たことないけど」

「でもあれCGですよね、最新版のやつ」

「知らない、そうなの? じゃCGみたいな肘っていうことかあ」

 なんかDVD見たくなってきた、帰りに借りてこうかな、と彼女は言った。私は、私が珍しい肘でなかったことで彼女に見飽きられたのを悟って、そっと手を下ろした。

「ねえ薫子、ちょっと手えここんとこ何かついてるよ」

 以前にも彼女はそう言って私に悪戯を仕掛けたことがあったので、私は注意深く手を上げた。

「ちょっと、鏡のとこ行ってみて見な」

 休憩室の姿見の前で見ると、小指の付け根のところにマジックで銀色の線が三本入っていた。どうやら昨日のありもしない願い事を書いたせいで、こんなところにその痕跡が残っていたらしかった。ちゃんと洗剤で根こそぎ落としたと思ったのに。

「嫌だなあ、」

 そう呟いて私が手を下ろすと、伊東さんが何か笑いを含んだような顔で背後から近づいてきた。それから私を逮捕するみたいに片手を掴んで、私の手のひらを鏡に向かって示した。

「うわあ気持ち悪い、ねえこの水かきんとこ、あんた異常だよ、なんでこんなものついてんの」

 私は広げられた自分の手のひらを、鏡のなかでまじまじと見た。

「ほら、ほら」

 と言って伊東さんが嬉し気に広げた彼女の手のひらを並べると、確かに私の水かきの部分は異様に大きいと分かった。まるで涙をたっぷりと溜めた目のように、私の指と指の間にはたっぷりとした皮が、まるで半月のような形でついていた。

 この時私は、例えるなら水かきに嵌めるブラジャーのような物が咄嗟に欲しかった。私からこぼれ出た過剰さを私は、布と金具のようなもので締め上げて、大人しく封じ込めてしまいたかった。こんなものを身体から垂れ下げておくことは、何だか私にとって急所を曝している行為であるような気がした。

「気持ち悪い、確かに、そうですね……、何で私にこんなものがあるんだろう」

「あんた、水泳とかやってた?」

「……小さい時、ほんの少しだけ」

 それは姉が、耳に水が入ったといって泣き喚いたときに、私も来週から行かないと言って辞めたのだった。

「え、辞めちゃったんだ、もったいない。こんな水かきついてたら、水いっぱいかけたよ。

 私水泳もやってたんだ、辞めちゃったけどね。でも水かきついてたら、平泳ぎとかで有利だって、コーチが言ってた」

 私はしばしの間、奇妙な身体の人間として彼女の気に入り、鏡の前で人形のように彼女に腕を掴まれたり、また意味もなく鏡に向かって手を振らされたりした。

(水かきですら余ってるなら、あいつの身体に分けてやりたかった)

 私は自分とは似ても似つかない姉の顔を、鏡のなかにぼんやりと思い描き、危うく頭のなかの言葉を口に出しかけた。口に出さなくてよかったと思う。私の姉はまさに、伊東さんにとっては格好の好餌だった。唐辛子入りのウインナーよりも旨い、血の滴るような旨い肉の塊だったことだろう。

(でも、要らないか、いちばん要らない部分だな、これ、だって切ったのってちょうどここらへんの……)

 私は姉の事件に影響を受けて、自分の身体からその衝撃を抜くために髪を脱色したりしたにもかかわらず、自分がもう姉の身体の全体像をすっかりぼかして記憶していることに、この時少し驚いた。

 笹の葉に飾られた時点で、願い事はその獰猛さを脱色され、慣習の穏やかな緑色に溶け込むことが出来る。私が姉を苦しい一個の概念のように思い返し、頭のなかで宝石のように磨いてしまったことで、私は彼女の身体のどこから出血があったのかさえ忘れていたのだ。


 翌日、シフトの時間が終わって休憩室に行った時には、鈴村さんや福山さんがいた。彼女たちは夕方、夫が帰って来る時間帯には引き揚げる。ここの給料は銀行振り込みなどという発想はなく、金額を書かれた封筒で受け取るものだった。

 私たちは時計の針が動くのと、給料袋が来るのを待っていた。その時に表れる怠惰さは、たっぷり労働をした証として私たちがあけっぴろげに示していいと暗黙のうちに了解し合っているもので、とにかく夥しいものだった。

 休憩室には畳が敷いてあり、そこに靴を脱いで横たわることが出来た。私たちは怠惰さのツケを作り、それをこれから来る報酬が支払うとでもいうかのように、身体にある穴という穴を晒すように不作法に寝転んだ。そういう時の不作法さは、運動をする若い男の子の快活さのように奨励されさえした。私は日頃のしていない行儀の悪さを、ここで思うさま解放することで、他人の眼から見た正直さの代わりにした。

 私たちが動物のように群れをなして寝転んでいると、可憐な小鳥の羽ばたきのような足音を立てて、実花ちゃんが封筒を重ねて休憩室にやってきた。

「実花ちゃん、お疲れさま、あー痛たたた、ありがとう」

「早いとこちょうだい、私の放っていいからさ」

「計算間違えてないかって、店長に確かめてくれた? あの人もうボケが始まってんじゃないの」

「私も、何度も計算して確かめたから、間違ってないと思います」

 きっぱりした口調で彼女は言った。口さがないおばさんたちは、彼女を愛おしむ気持ちも込めつつ、その可憐な口調をくちぐちに真似て「思います、」と言った。

 実際は、パートの彼女たちは何も信じていなかった。自分たちの給料袋に書かれた数字も、計算したという少女の口上も、彼女たちには休憩室に漂う煙草の煙ほどに不確かなものに過ぎず、またそれで良かった。自分が憎みたいものが、確かに悪事を働いているということのほかに、彼女たちにとって確かであるべきものは何もなかった。

「毎月ねえ、計算してるのにちょっとずつ減らされてるのよ、全くタイムカードもないからねえここは」

「薫子ちゃん、ねえ薫子ちゃんほらあんたの分だって」

 呼ばれて、私は寝転んで携帯電話をいじっていた眼を上げて声の方を見た。私にあんた、と言った福山さんの背後で、実花ちゃんが私を半ば睨むみたいにして立っていた。最初に声を掛けてくれた時、私が咄嗟に彼女の方を見なかったので、もう彼女のなかで何かの疑いがもたげているらしかった。

 彼女の願い事だった、結婚の後で彼女はまるで何かを今から願うかのように、切実さの増した眼をするようになったことを、私は誰にも打ち明けられずに独りで確信していた。私が何かをしたわけではないと思うのだけれど、彼女は今や、おばさんたちがやる以上に私を大っぴらに憎みたがっているようでさえあった。

 私はありがと、と口早に言い、片手で彼女から封筒を受け取って自分の傍らに置いた。この時、私は給料袋どころではなかった。私は自分で携帯電話をいじって、ある調べ物に熱中しているところだった。

 お金よりも、それによって手に入れる物の方が大事なことに、説明などが要るだろうか。ただ私のこの態度は無辜な彼女に対する、また彼女たちと共にする労働に対するひどい侮辱と受け取られた。

 これは仕方がなかったと思う。他方、私は私で、自分の手のなかにそれが何故金銭よりも大切か、彼女たちに説明しようという気を起こさなかった。それを赤裸々に明かすよりは、ありもしないことのために罵声を浴びている方が気楽だった。

「ほんっとひどいね、この子の態度っていうもんは」

「実花ちゃん気にすることないよ、こんな子ほっときな」

「ほれ、そんなに要らないんならおばさん持ってっちゃうよ、え、どうなの」

 そこ置いといてください、と私は言った。

「要らないなんて言ってない、今ちょっと調べ物してるから、別に実花ちゃんをシカトしたとかじゃないです、分かんなかっただけ」

 それから私は、高圧的な眼差しを彼女の方へ向けて、平手打ちするみたいに

「ごめんね」

 と言った。実花ちゃんは怒りで赤くなった顔を俯け、小鳥のような可憐さでばたばたと立ち去った。おばさんたちは漠然と、実花ちゃんへの同情の言葉と私への悪罵を投げつけた。

 一方、私はどういうタイミングでやれば自分もあんな風に、目の前に現れた敵から上手く逃げ出せるのだろうと、そのことを考えた。

 私の手のなかでは、私の調べていた物が、一つの条件の下で入れ替り立ち替り表れていた。私はそれをもう一度タップしなければ、また温かい画面の底に表示された商品が沈んでしまうのを知っていて焦っていた。

 暗くなった画面に、私は烈しくドアを叩くみたいにしきりと指先を叩きつけた。私の指先の叫び声は、かろうじてその画面に届いたらしく、私の望んでいた商品は網に掛かったようにふんわりと浮上した。

 結構高いんだな、こんなに小さいのに、と私は「それ」の値段を見て思った。ヤマハのじゃなければもっと安い? 私の給料の何時間分に当たるのだろう? 今光熱費ってことで家に三万入れてるから、と私は自分の給料のうちどれぐらいを当てればこれが手に入るのか、と指を折って数えた。

「薫子ちゃん、」

 いなくなったと思っていた鈴村さんが声を掛けてきた。

 私は俯いて彼女のアイフォンをいじった。私は他人と深く関わり合いたくないと思うのと同様、他人からそれを預けられるのが好きではなかった。しかし誰にも関わりがなさそうなのと若いということのために、私はこういう個人情報に関する作業をよく頼まれた。そのために私は他人の秘密をよく知ってしまっているが、どこにも打ち明けようがない。秘密というのは打ち明けようがない他人に知らせてしまうのが一番安全という気もする。

「パソコンのメールなんて、使うんですか」

 と、私は彼女のメモ書きを見ながら、もう一度彼女に尋ねた。

「使うのよ、だって何たら言う添付ファイルとか、そういうのって携帯のメールじゃ見られないでしょう?」

 彼女の意図している、ワードとかエクセルファイルとか、ここの仕事で使うのは帳簿関係をやっている店長と伊東さん、あとはゆくゆくは伊東さんの次、と思われている実花ちゃんがせいぜいだ。鈴村さんがどうしてそれを今必要とするのだろうかと思ったけれど、知ったところで、それこそ私には不要な情報に思われた。

 そうこう考えているうちに、ラインのメッセージが画面に浮上した。

「……」

 何だ、コイツか、と思った。

 それにしても、携帯電話ほど口の軽い、しかし深く付き合っている友人もいないと思う。どれほど厳重に他人に口止めをしていたとしても、携帯電話に喋っていないということがあるだろうか。またそれはウイルスだとか、人間でないものの手に簡単に侵食され、意志もなく口止めしていたことを喋り散らしてしまうのだ。またその被害を受けても、誰も携帯電話を、友情を裏切ったとして責めたりはしないし、黙って毎度買い換えている。

 私も出来ることならば、こういう物でありたいと思いつつ、黙って緑色の会話を指で吹き消し、彼女の設定したがっているお菓子の名前の入ったメールアドレスがアイフォンでも見られるようにしてあげた。

 背景には、何だかピンぼけた感じのする、玩具の車で玄関から飛び出そうとしている三歳ぐらいの幼児の画像があった。緑色の襟のついた服で、可愛いけれど男だか女だか、パッと見、ちょっと分からない。

「お子さん、幼稚園とかですか、可愛い」

 と、私は本心から棒読みで言った。

「今ね、十六歳よ」

 と、彼女は言った。

 私は背筋が凍るかと思った。

「今は、十六歳なんですか」

 と、私は間が抜けた感じで言い返した。私の凍りついた表情を見て、私の考えていることを文字通りに読みとったらしい、彼女は糸くずのように細い身体を震わせて笑った。

「いやあね、今はもう大きいわよ。それはあの子が三つぐらいのときの写真。昔のだから、現像した写真しかなくて、それを携帯で撮って画面に設定してもらったの。このぐらい小さい時が一番可愛かったわ、今はやれおしゃれだ、小遣いだって、何だって生意気で、ほんとうに、ずっとこのぐらいでいてくれたら良かったのに」

 今は旭高校に通っているんだけれど、一年生だからあなたと同い歳? まあえらいわね、あなたは自分のお小遣いをこうやって働いて、稼いでるって言っちゃあ何だけれど、工面してるんですものね、えらいわ、本当にそう思う、と彼女は言った。

 私と彼女には、まだ時間があった。私はもう出発しても良かったのだけれど、バスの時間があるからとギリギリまでここにいるのが習慣だった。彼女は夫の迎えがないと帰れない。彼の連絡が遅れているのだろう、ということは彼女の携帯電話の見方から分かった。

 また、彼女が私に早く出て行ってほしいと思っていること、また、私を観察していて私の出ていく時刻にまだ満たないということを分かって、多少焦っていることなどが、彼女の仕草の震えから私に伝わった。

「ねぇえ、」

 と彼女が言った。ある程度の年齢以上の女性は、頼みごとをするときに「ねー」じゃなく「ねええ」と何だか伸ばして言う。これは、私が実花ちゃんに言って、彼女も「私もそう思ってたの」と言って笑ったことだ。

「これ、食べて貰えないかしら」

 と彼女が言った。

 どう見ても手作りのクッキーだった。私は、ありがとう、と口に出して、ございますと言いながら片手でクッキーを口に放り込んだ。彼女が私を許すような溜息を吐いた。


「無塩バターとかじゃないですか、」

 後日、私はこっそり私に話しかけて来るようになった鈴村さんに、エプロンの紐を締め直しながら言った。

 私は連日髪の毛をちゃんと三角巾の中に入れろと福山さんから指導を受けるので、休憩室のロッカーの前で髪の毛を梳かすのに時間を要した。そういう時、鏡越しにおずおずと鈴村さんが話しかけて来る。この時は、娘と同い歳だと分かった私に、娘が喜ぶようなプレゼントといったら何があるか、という月並みな質問だった。

 毎日一緒に暮らしている母親に分からないことが、なぜ赤の他人の私に分かるのだろうと思ったが、毎日顔を見ていると欲しくない物は分かっても、欲しい物の方が分からない気持ちはすごく分かるなと思い直し、私は髪を梳かしながら彼女を受け入れ、彼女に私の考え得る最もそれらしい答えを鏡越しに投げた。

「無塩バター?」

 彼女は、ちょっと眉をひそめて繰り返した。

「うん、無塩バター、こないだのクッキー美味しかったです」

 私は彼女のために言った。

「お嬢さん御菓子作るの好きなんでしょう。無塩バター、うちの親もそれじゃないと駄目だって言ってたから。よく無塩バター買ってきてって言われるって、言ってたじゃないですか。だから、それにリボンとか掛けてあげたらどうかな、間違いなく喜ぶと思う、少なくとも、使うし」

 鈴村さんは気分を害したらしく黙っていた。

「使うったって……、それじゃあんまりよ、あなたと歳が近いから若い子の欲しがる物、分かるかと思ったのに」

「私はこれといって欲しいもんとかないんです」

 強いて言うんなら、と私は彼女のために続けた。

「自給八百円のパートで、頑張って、お金貯めてこれ買おうーって思える物が欲しい、そういう物が空から降ってきたらいいなーって思うけど」

 これと言って今のところないんで、私じゃ参考になんないと思います、と私は本音を言った。でも分かってもいた。正直さはこの場合、必要とされていない。

 私は彼女の娘の方に話を戻した。

「お嬢さんの気持ちは想像して、分かります、歳が同じだから、何となく」

 親のいないところでクッキーを作るのに凝って、無塩バターを欲しがっている、また三歳のままであってくれたらいいと写真のなかで成長を押し留められている十代の娘の気持ちは、私には簡単な算数の問題を解くように分かる気がした。

「普通のバターより、値段張るじゃないですか、無塩のやつ。でも、普通のバターでやると、なんかぼろぼろってなって、崩れちゃうんです、鈴村さん、クッキーうちで焼いたことありますか」

 私は何気なく尋ねた気だったのだが、彼女は答えに窮していた。何だ、娘の持ち出した習慣は、親の模倣ではなかったのか。気づけよその辺から。

「なんか、これ混ぜたら良くなる、っていうような。今の暮らしのなかに。これさえ混ぜとけばちょっぴりよくなるのにっていうような、そういう成分が欲しいんだと思います、お嬢さん。

 それもバターぐらい身近にあってちょっと親にねだったら買ってもらえそうなもの。いつも買ってもらうものよりグレードが高くて。暮らしてるだけでは使わなくって。こんなの贅沢なんだって顔をしかめられるような、親が渋々買ってくれるようなものが欲しいんだと思います、きっと」

 私がお嬢さんならそうだな、と付け加えたけれど、これは思いやりで言ったのであって本心じゃなかった。

 別に同い歳でなくても、彼女の娘の願望を知るのなんか簡単なことだった。もし説明するとしたら一言で済む。「お前の携帯電話見たら、娘が何で口を利かなくなったか分かるよ」と。

 でもなぜ理解できるかを、鈴村さんに説明すれば、彼女は私が彼女から情報を泥棒したと思うに違いなかった。同じような方法で物事を理解できる相手にしか、自分の理解したことを説明してやる必要はない。理解してくれない他人に言えば、それは私の悪意による行為だとすぐに誤解されるから。

 鈴村さんの優しさは、私には理解し得るものだった。彼女は私に携帯電話の設定をしてほしくて、私に目をつけた辺りから私に優しかった。娘の焼いた菓子をくれるぐらいに。その契約が終わった以上、私も余剰の優しさを彼女に示す必要もないのではないかと思った。失望から青ざめている彼女が既に、私を理解することから撤退しようとしているみたいに。

 そんなに知りたきゃ言ってやろうか。何で娘に急に嫌われ出したか……無塩バターなんかよりずっと娘が欲しがっているものは……。

 ぴあす、と気づくと私は、自分が思っていたことと違う言葉を口に出していた。

「ピアス?」

 と、鈴村さんにその言葉を拾われたのを見た時、私はそれを口にしなかったことにするのを諦めた。私が狼狽しているのを見て、

「どうなの、どこにあるの」

 などと彼女は言った。私が自分の耳からピアスを落としたものと誤解したらしかった。

「違うんです、ピアスとかはどうかなって」

 と私は言った。私は内心自分の失敗を悔やんだ。どうしてその言葉を口にしてしまったのか。しかしもはや、彼女への最後の献身として、その言葉を消費してしまうしか、ピアスという言葉を消す手段はなさそうだと思い、思ってもいなかった助言を続けた。

「お嬢さん、旭高校ですよね、あそこ、校則キビシイって、友達が言ってました。だから、ピアスとか、いいんじゃないかな。年頃でしょう、おしゃれとかしたいだろうし。

 それにピアスって、よく注意されるじゃないですか、私はしてないけど。でも、ちょっとグレてもいいんだってことを、親が言ってくれたら、子供はきっとグレないですよ。なんか、逃げていいんだなって思えるから」

 鈴村さんは、ちょっと私の言うことに耳を傾けているみたいだった。

「……でも私なら、親に買ってもらったピアスなんてつけてくの、嫌だなあ」

 そう呟いて、私はさっさと休憩室から出た。

 自分の手のなかで、携帯電話が震えていた。仕事中はマナーモードにしているけれど、時折こうして掛かってくることがある。そして、出ない方がいいのだ、それはうっかり出てしまった時の経験から分かっていることで、かといって電源を切っておくことは、私には怖くて出来ない。

 ピアスしていたらどうかな、と言い出したのは姉からだった。そう言われた当時、私は何となく「誰の入れ知恵だろう」と思ったし、実際に

「誰に言われたの、杏奈」

 と言った。

「違うよ、自分で考えたの」

 と彼女は主張した。

「教室のお姉さんがしてるの見ていいなって。ちゃんと大人がするようなおしゃれをして、そしたら杏奈が大人だって、分かってもらえるんじゃないかなって」

「でも舞台から見ても、客席からは見えないでしょ」

「いいの、もしそうでも」

 と彼女は言った。

「自分がちゃんと大人なんだ、と思って舞台に出るのとそうでないまま、手伝ってもらって舞台に出るのと、気持ちの上で違うもん」

「まだ大人じゃないじゃん」

 と、遮るように私は言った。

「まだ中学生なんだから、どっちみち全然、杏奈は大人じゃないよ、だから、別に無理しなくってもいいと思う」

 へいき、と彼女は言った。それから布団を跳ねのけて、下に隠していたホチキスのような道具を私の手に握らせた。

 痛い、とも彼女は言わなかった。取扱説明書に記載されているより、出血量は少ないようだったが、それでもシーツに少し飛沫が飛んだ。

 えらい、薫子、と、自分自身が傷を負った割に、彼女は私が命令に従ったことを褒めた。

「よく杏奈が痛そうなの我慢したね」

 そう言って、彼女は手を伸ばして私の頭を撫でようとした。私はよく慣れた大型の家畜のように、微かに頭を傾けて、彼女の小さな手を頭に乗せてやった。

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