隠蔽

下賀茂 太一

1話完結

「やっちまった。ハハ…ハハハハハハ。」


俺の乾いた笑いがオフィスに響きわたる。 目の前には先程まで、俺に説教を垂れていいた課長の身体が物言わずに倒れている。頭からは血が流れている。流れている。尋常じゃない程に流れている。オフィスの灰色の絨毯がどす黒く染まっていく。課長の頭からは脳味噌と思われる内容物が流れ出てきている。なんだろう、気持ち悪い。


「オエッ。」


俺は口に手を当てておう吐していた。俺の口から出てきたものまで、気持ち悪い。何もかもが気持ち悪い。人間を殺したことよりも何よりも気持ち悪い。


「あ~、シャワーを浴びたいな。」


だけれど、立ち上がれない。身体中は震えて、腰は抜けてしまっていた。右手には課長を殴って殴り捲って血の色に染まったガラスの灰皿を握っていたことに気がついた。とっさに手を離して自分の傍からどけた。手を絨毯で拭った。小一時間じっとしていただろうか。身体に動きが戻ってきて、頭も冷静さを取り戻してきた。俺は立ち上がり時計を見た。丑三つ時を過ぎた頃だった。


「社員が通勤してくるまで、6時間弱かぁ。さてと、どうするか。」


自首?逃げる?…俺は自問自答していた。だけれど答えは既に出ていた。俺はまだ25歳だ。こんなところで人生が終わってしまうのは嫌だった。卑怯だと思う自分がいる反面、これからの行いを肯定する自分もいる。


「さてと、何から始めるか。」


隠ぺい工作がこれからの課題だろう。まず、給湯室で汚れた灰皿と返り血を洗うことにした。まだまだ血が乾く前で良かった。幸い備え付けの洗剤で簡単に洗い流すことができた。下着姿で課長のもとに戻る。動いた気配はない。そこで、ふと、肝心なことに気が付いた。課長が本当に死んでいるかどうか…だ。

サスペンスではよくある話だ。死体と思っていた人間が実は気絶しているだけで、後で目を覚ますことなんて。しかし、頭の内容物らしきものは明らかに出てきている。でも、いや、だからこそ、一様、俺は脈を確かめてみることにした。…脈は無い。死んでいる。肩を撫で下ろす。もし、脈があったら俺はどうしていたのだろうか。今となってはどうでもいい問答だが、考えていた。でも、結局現状は変わらなかったのかもしれない。これから隠ぺい工作をして逃げようと考えている俺だ。変に良心に魔がさすことはないだろう。恐らく、止めを刺していたに違いない。


「さてと、次は何をすべきだろうか。」


声に出してみたがやることは決まっていた。俺が殺したという条件の排除である。差しあたっては指紋の除去といったところであろうか。そのために給湯室からビニール手袋とタオルを用意してきていた。凶器である灰皿はきれいに洗ったから指紋は大丈夫だろう。喫煙所とは名ばかりのパーティションで区切られただけの場所に灰皿を戻して置く。後は、現場の指紋だけだ。確か、課長の胸ぐらを掴んで殴ったな。胸ぐらと課長の机と椅子と…おっと血だまりにタオルの跡があったら変だからな、避ける。2時間ぐらいはかかったのではないだろうか。気が付くと時計は5時前を指していた。後3時間もないことに俺は少し焦りを覚えていた。今日いや昨日、残業していたのは俺と課長だけだ。これは、最後に帰った同期の田中が証言してしまうだろう。これでは真っ先に俺が疑われてしまう。しかも、動機も周知の事実になっている。

 あれは俺が入社一年目の時だった。当時の俺なりに一生懸命に書いた報告書を見世物とばかりに社員の目の前で課長に破り裂かれた。しかも、特に中身を見ることなく…だ。それ以来、課長は何かと社員の見せしめとして俺を使った。他の誰かがミスしても、なぜか俺が怒られた。理不尽さを感じられずにはいられなかった。だから、部長に相談したこともあった。だけれども、「課長は君のことを買っているから、そういう態度をとるのだよ。」とちゃんと相手にしてもらえなかった。それに耐えること3年間、この事件は起こるべきして起きたのだ。俺は俺をそう納得させている。しかし、誰もが知っているこのことは今では仇となっている。どうしたものか。俺には2つの解決策が思い浮かんでいる。1つはこのまま逃げる道だ。これはどうしてもいばら道になるだろう。追われ続ける人生が始まる。だが、これは本望ではない。何のために自首の道を捨てたのかわからなくなる。それに、ここ数時間が無意味に帰す。逃げるなら、すぐにすべきだった。だから必然的に2つ目の考えになる。それは、架空の第三者を創り上げることだ。これは賭けである。だけれども、下準備が完璧ならバレないで済むかもしれない。なぜなら俺も被害者になるのだから。これを実行するためには、俺も灰皿で頭を殴られて気絶するしかない。しかし、ここにも問題がある。課長とのダメージの違いをどう説明するかである。俺が気絶程度で、課長は頭がい骨破壊されてまでの死、比べようがない差がある。だからと言って俺がここで死ぬわけにはいかない。こんな課長と共に心中なんてごめんだ。だから、課長は第三者の犯人に対して必要なまでの抵抗をしたことにする。そして、犯人はカッとなって殺したという筋書きにすればいい。そして、逃げる途中で俺と犯人が出会って俺があっさり気絶してしまう。こういう筋書きでいこう。ここでの問題点を整理すると、課長を殴った灰皿を洗ってしまったのは大きなミスだ。また、課長の死から俺の気絶までの時間のラグが大きいことだろうか。課長の血は既に固まってしまっているし。だからこその賭けなのだが。とりあえず、オフィス全体の机を荒らす。そして、金目の物を集める。探してみたものの対して良いものなど見つからなかった。それもそうだろう。俺だったら大切なものは家に保管する。でも、これはオフィスを荒らした方が犯人が外部犯にしたてあげる可能性が高いだろうとの考えだ。だから荒らす。机の物はほとんど落として、引き出しという引き出しは開けつくす。そして、課長の机の周りは必要以上に荒らしておく。これは犯人と課長が争った様子を想像して荒らす。一通り荒らし終えたら、確認する。まだ濡れていて気持ち悪いがスーツを着る。そして、俺と課長のものを含めた金目の物は全て鞄にまとめて階段に置いておく。犯人が置き忘れたでも、なんでも適当に警察が理由づけをしてくれるだろう。そして、おれは再び課長の頭を灰皿で殴りつけた。これで、課長の血が付いた凶器の出来上がりだ。そして、廊下に出てトイレを出たあたりで灰皿を自分の頭に目がけて殴りつけた。


「うぐ。いてぇ。」


頭には確かに血が流れている。けれども、気絶までには至らない。殴る。殴る。殴る。自分には力加減が弱くなってしまうのだろうか。気絶できない。でも、ここで気絶しないと賭け事態が成立しない。だから、殴る。殴る。殴る…。課長を殴った時よりも殴ったかもしれない。血もすごく流れてきた。もういいやこれで、俺は目を閉じた。


 気が付くとそこは病院だった。左側頭部に痛みがある。手を当てると包帯の感触がする。そうか、思い出した。課長が殺されて俺も灰皿で殴られて気絶したんだった。というシナリオだった。これから警察の事情聴取が待っているのか。覚悟を決めるか。病院の窓から見える景色は遺憾ともしがたくて決意がにぶる。頭の痛みのせいかなんか涙が出てきた。


「はぁー。なんであんなことしてしまったのだろうか。」


警察が怖いのだろか。今更、課長を殺した罪悪感に苛まれているのだろうか。正直、この気持ちはわからない。でも、不思議と身体中が震えてきた。静めなきゃ、静めなきゃ。誰かに見られたら不味い。布団を被って俺は世界からシャットダウンした。そして、そのまま眠りに着いた。

 次に眼が覚めた時には、隣には看護士がいた。そそくさと医者を呼びに行った。医者が来て軽く問診した後に医者の入れ代わりに警察と思しき二人組が入ってきた。見るからに凸凹な二人組だった。一人はひょろりと背が高くてなんか頼りなさ気で、対照的にもう一人の方は背こそ低いが貫禄があり顔も堀の深く印象的であった。そして、ひょろの凸の方が警察証を見せながら話しかけてきた。


「安居さん。私たちこういうものです。お話聞かせてもらってもよろしいでしょうか。」


俺は身構えた。恐らく、凸が牽制し凹がこちらの応答を観察しているのであろう。ここは、慎重に必要以上の事はしゃべらない。しかも頭を強打しているのだ。だから、記憶なんて曖昧でいい。たまによく覚えてない等の言葉を混ぜれば何とか切り抜けられるのであろうか。さあ、どこからでもかかってこい。


「安居さん。二日前の晩のことを覚えていますか。」


凸の攻撃が始まった。この聞き方はなにか可笑しい。明らかに疑っている証拠だ。普通なら病院にいる被害者に対しては最低限の状況説明をするのではないか。急にアリバイの何たらを聞かれてすぐ応えられる被害者は少ないのではないか。しかも俺は頭を強打しているのだから。それにしても二日間も経っていたのか。いい具合に気絶出来たみたいだな。


「二日前の晩?」


「ああ、すみません。これはうっかりしていました。安居さん。貴方は二日前の深夜にお勤め先のオフィスで何者かに頭を殴られて倒れていたのですよ。」


凸が答えた。凹の視線が痛い。


「ああ、二日前かどうかはわかりませんが、殴られた記憶はあります。」


あくまでも慎重に。


「覚えている限りで結構です。その時の状況を教えてください。」


凸は少し前のめりに尋ねてきた。この背丈で前のめりに声をかけられると流石にいくら細見のひょろでも威圧感が出てくる。


「えっと、課長と残業をしていたと思います。そして、私がトイレに立って用を足している時に声がしたのを覚えています。確か、課長の声で安居、逃げろ、だったと思います。そして、トイレから出てきた時に目出し帽をかぶった人と対峙しました。そして、何かで頭を叩かれたと思います。そして、気づいたら病室でした。そうだ。課長は?課長はどうしたのですか?」


凹の表情が少し動いた。しゃべりすぎたか?それとも演技が過剰だったか?いや、大丈夫なはずだ。何もボロを出してはいないはず。


「課長さんは残念ですが…亡くなられています。」


凸と凹は軽く目くばせをした。


「安居さん。ありがとうございます。話は以上です。また何かありましたらお尋ねすることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします。では、お大事に。」


凸凹コンビは早々と去っていった。これは良かったのか?上手くいったのか?がらんとした病室で俺は一人考えていた。


しかし、結果は次の日にすぐに出た。


俺は逮捕状を見せられた。


何をしくった?いや、今考えれば全てがミスの連続の様に思ってしまう。課長を殺したことから全て…。でも、一様弁解をしなければ、何かの間違いの可能性ももしくはハッタリかもしれない。


「え、どういうことですか?」


昨日現れた刑事の凸凹コンビの凹の方が今日は応対してきた。


「だから、率直に申し上げまして、安居さん、あなたに牧野さんの殺害容疑で逮捕状が出ています。申し訳ないですが、3日後の退院まで監視・保護させて頂きまして、署までご同行頂きたいっとこういう訳ですわ。」


完全に犯人にされている。逮捕状が出たってことはもうほぼ確定じゃないか…。くそ、最後のあがきだ。


「ぼ、僕は被害者ですよ。目出し帽を被った犯人に頭を殴られているんですよ。」


ギラっとした目で僕の事を見る凹刑事。


「皆まで、説明せなあきまへんか?もう証拠もばっちりあがっているんでっせ。正直、逮捕状が出た時点で今更あんさんが何を言おうと豚箱行きは変わらんのでっせ。まあ、でも説明が欲しいならしてあげまひょ。それで、あんさんがこの3日間大人しくしてくれるなら。」


「き、聞かせてください。納得できません。」


凹刑事は凸に目を向けた。そしたら、凸が話し始めた。


「まず、昨日聞いた安居さんの話と牧野さんの死の状況の矛盾点から話しょうか。昨日。安居さんは牧野さんの叫び声を聞いたって仰いましたが、おかしのですよね。明らかに死亡推定時刻からの格差があるのですよね。凶器は同じ灰皿でしたが、牧野さんの血は中途半端に凝固していたのですよ。これは、既に死んでいる牧野さんを数時間後にまた殴って灰皿に牧野さんの血を付けてその後に安居さんを殴ったってことになります。なぜでしょうね。このことより、安居さんが昨日話していただいた証言は嘘ってことになりますね。後は、安居さんの倒れ方ですね。トイレを足元にして倒れていられましたが、もし本当に犯人に左側頭部を灰皿で強打されたのなら、倒れるにしても左側頭部をかばうように倒れるか、一発で気絶したとしても殴られた反動で壁に激突しても良いのかと思われます。ま、ここまでは安居さんが一番疑わしい理由ではありますが決定打にはなる証拠にはなっていません。次に話すのが安居さん、貴方が犯人である証拠です。それは貴方が着ていたワイシャツです。貴方は、恐らく牧野さんを殺した際に返り血を浴びてそれを洗い流しましたね。ルミノールってご存知ですか?これは特殊な液で血に吹きかけると反応する液体です。ばっちり反応がでていましたよ。安居さんのワイシャツから牧野さんの血がたっぷりと。これが一番の証拠でしょうか。何か、間違いがあれば聞きますが?」


見事だ。素人の浅知恵で作ったアリバイ工作を完璧に解答に導いてくれた。悔しいと思う反面、なんだかうれしい気持ちもあった。これは俺がイカレているからだろうか。


「アハハハハ…見事です。僕から優を上げたいくらいです。」


拍手をしながら俺は答えた。


「ここまで完璧なんです。動機とかも調べはついているんでしょう?」


今度は凹が答えた。


「ああ、調べさせてもらったよ。あんたの事情には同情の余地があるが、殺しちゃならんやろう。」


「フハハハハハ、それも正解。ブラボーです。

受けましょう。甘んじて、罰ゲームを。」


俺は少し落ち着いて刑事に聞く。

「僕の刑はどうなるんですか?」


凹が答える。

「それを決めるのは裁判官だ。これからしばらく自分のしたことに後悔しながら刑を待つんだな。」


「そうですか…。」


それが僕の最後の言葉となった。後悔ならもう嫌というほどしてきたつもりだ。もう、人生に希望は持てない。そして、俺は病院の窓から飛び降りたのだった。

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