涙をたたえよ

潮原 汐

涙をたたえよ

 故人を偲び流した涙には、力が宿る。

 ただし一滴、二滴では駄目だ。奇跡を起こすにはもっと沢山の、水瓶を湛えるほどの量が要る。生前、徳に篤く人に慕われたものであれば集められるが、薄情な嫌われ者には到底不可能な量だ。

 もし集められたなら遺体の枕元にその水瓶を置き、亡くなってから初めての満月を涙の水面に映す。

 すると奇跡が起きる。

 故人が蘇るという奇跡が。



 一人の男が死んだ。

 彼は嫌われ者だった。

 ろくに働きもせず、妻が内職で得た僅かな金を酒と博打と女に溶かした。癇癪持ちで外では度々事件を起こし、家では妻に手を上げた。どうしようもないロクデナシだった。

 無論、彼が亡くなって泣く者は無かった。むしろ清々したと、鼻で笑われていた。

 ただ一人、彼の妻を除いて。

 彼と彼女は夫婦となる前、幼なじみだった。

 幼い頃の彼女は体も気も小さく、友達がいなかった。近所の子どもたちにからかわれ、泣いて過ごすことが多かった。そんな彼女を救ったのが、彼だった。

 彼はその頃から気に入らない者には食って掛かる性質で、小さい子を虐めて笑う奴らに腹が立つと、彼女を囲む子どもたちを殴って追い払ったのだ。

 それから時が経ち、彼の性質は悪い形へ歪んでしまったが、彼女の心にはかつての正義漢たる彼との美しい思い出が、褪せることなく残っていた。

 思い出が、彼への愛を守っていた。

「今こそ、かつて受けた恩に報いる時」

 誰もが彼を嫌い笑っても、私だけは彼を愛し、彼の死を嘆こう。

 彼女は泣いた。

 一人、水瓶を抱いて涙を流した。

 何時間も、何日も。

 目が腫れ上がり、頬が擦り切れても、彼女は泣き続けた。

 水瓶の底に跳ね返り響く泣き声。そこに含まれた深い悲しみに、聞いた人々は胸が張り裂けそうになった。

 そして満月の日。彼女はやり遂げた。たった一人で、水瓶に涙を満たしたのだ。

 水面に満月が映り、黄金色に輝いた。

「うっ……、俺は、蘇ったのか?」

 彼女の耳に、待ち望んでいた声が届いた。

 腕が引かれ、彼女の体は温もりに包まれた。彼の匂いがした。

「こんな俺なんかのために、涙を流してくれてありがとう。魂となって、ずっとお前を見ていたよ。俺はお前の献身に報いよう。もうけして手を上げたりなんてしない。仕事もする。お前をきっと幸せにするよ」

 彼女は彼の背に腕を回して、精一杯、抱き締め返した。彼が生きてそこにいることを感じるため。



 翌朝、彼は疲れて眠る彼女を残し、早速仕事を探しに出掛けた。街で会う誰もが、彼の顔を見てぎょっとした。彼が蘇るなど、まるで想像していなかったからだ。そして噂をした。

 あの男はきっと死ぬ前に、自分が死んだらお前が蘇らせろと、きつく妻を脅しつけたに違いない。もしできなければ、お前を呪い殺してやるからな、と。そうでもなければ、一人で人を蘇らせるくらい涙を流すなんて、できるはずがない。

 奴の妻は、なんてかわいそうな女だろう。

 人々の間に、とある感情が生まれた。

 憐れみだ。

 不可能を覆すほどに男を恐れる彼女を、どうにか救ってやることはできないものか。

 彼らが行き着いた結論は、もう一度男を殺し、二度と蘇らないよう遺体を川に流すことだった。

 人助けという大義は、人殺しへの免罪符となった。

 腕に自信のある者たちが男を取り囲み、問答無用で打ち据えた。

「や、やめてくれ! 俺は前とは違うんだ! 妻に誓った! 幸せにするって! だって彼女は、俺のために視力を――




「視力を無くしちまったのかい、あんた……」

 男の妻を保護しに来た者たちは、彼女の様子を見て絶句した。彼女は部屋の真ん中に敷かれた布団の上で体を起こし、何かを探し求めるように虚空をかいていたのだ。

 皆が涙を流した。

 彼女を憐れみ。

 男を憎しみ。

 一人が宙を彷徨う手を握り、話しかけた。

「安心しな。これからは私達がちゃあんと面倒見てあげるからね。もう、あんな奴に怯えることはないんだ。今頃あいつは、川の底さ」

 男の末路を聞いて、彼女は息を飲み、嗚咽を上げた。

 悲痛な声だった。

 しかし彼女の涙は枯れ果てていて、水瓶を満たすことはおろか、一滴の雫さえ零れなかった。

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