1.5. 本土

   ※   ※   ※


 わたしの名前はミント・ゲーツ。

髪の色は若草色。

黄色みたいな緑色。

カラーリングをして染めたわけではありません。

生まれてこの方、この色なのです。

お母様とお父様ゆずりのこの髪が、わたしは大好きです。



   ※   ※   ※



『へんないろ……』

『うわーほんとだ……』

編入したての頃は、上級生たちのヒソヒソ話が気になっていただけでした。

『レタスみっけ!』

『ぶっぶーぅ! あれはキャベツでーす』

1年が経ち、小学4年生になった頃、それはいよいよ同級生たちによってエスカレートしていきました。

『キャーベーツ! ゲーツ! キャーベーツ! ゲーツ!』

『こら! やめなさい!』

しばらくして、やっと気づいた先生が声を大にして彼らを叱りつけました。

『みんな、今日はだな――』

そして、"差別"や"いじめ"を議題にした学級会が繰り返し行われるようになりました。

『いいか、何度言ったら――』

その学級会は、授業の時間だけでは終わりませんでした。

他のクラスは外で遊んでいる時間なのに、わたしのクラスだけお説教の時間。

そういう日々が続きました。

そして――

『めんどくさい』

『ふこうへいだ』

日に日にクラスメイトの不満は高まっていきました。

もちろん学級会の効果はありました。

それまでみたいに、身体に潜んでいる太い針がトスンと心臓の中めがけて沈んでくるような――

そんな悪口は言われなくなりましたから。

『おはようー』

『……』

ただ、それと引き換えに教室全体の空気が重く重くのしかかる、息苦しさとの戦いが始まりました。



   ※   ※   ※



『ゲーツさんはどう思いますか?』

学級会は、こりずに続けられました。

『…………』

わたしはクラスメイトのことを考えて、学級会での発言を控えることにしました。

プライベートで保健の先生や、数少ない友達に相談したりするように心がけたのです。

そうすれば、みんなの嫌いな学級会の時間が少なくなるはずでしたから。

『帰りの会はこれで終わりですが、今日もみんなにお話があります』

しかし、それは逆効果でした。

かえって学級会の頻度と回数は増えていきました。

『みんなは、他人の気持ちを考えたことがありますか?』

『人から無視されると、みんなはどう思いますか?』

なぜなら信頼している一部の人にだけ相談したはずの秘密の話が、すべて担任の先生に筒抜けだったからです。

『そうだよね。みんなだって嫌だよね』

嫌なもんですか。

わたしはこの髪が好き。

大好きなんだから――



   ※   ※   ※



『ゆーびきりげんまん、うそついたらハリセンボンのーます!』

なーんて。うすっぺらな約束をしたわたしがバカでした。

よくよく考えてみれば、針千本なんて一本の痛みすら知らない人たちが誓えるはずないのです。

『…………』

友達ってなんでしょう。親友ってなんでしょう。

わたしは、もう誰を信じればいいのか分からなくなっていました。

だからといって忙しいお母様に助けを求めて、島の経営をジャマすることは出来ません。



   ※   ※   ※



プルルル――

『クマ太郎ー元気?』

『クマ~!』

そんなこともあって、わたしを支えてくれたのは他でもないクマ太郎ただひとりでした。

『あのね、わたしね――』

『クマー』

電話をしてもクマ太郎は"クマ"としか喋ることができません。

人の言葉は理解していますが、うまく人の言葉を使って話すことができないのです。

お母様が言うにはそういうことらしいです。

『……っていうことになってるの』

『クマ……』

つまり、わたしが言っていることをちゃんと分かってくれてはいるのです。

けれど、返答を上手く人間の言葉にできないのがクマ太郎でした。

『クマクマ……』

受話器の向こうで悲しそうに声のトーンを落とすクマ太郎。

"しゃべれなくてごめんね。"そう言っているようでした。

長年の付き合いのおかげでしょうか。ほとんどの言葉は、たとえ電話越しでも簡単に分かるようになっていました。

『うんん。いいの。じゃあまたね』

『クマッ』

ちゃんと話を聞いてくれる。

もしかしたら正確な言葉の意味は分かっていないかもしれないけれど、クマッと優しくしてくれる。

それだけで十分。

わたしのなかでクマ太郎の存在は、島にいたときよりも大きくなっていきました。



   ※   ※   ※



やがて嫌がらせは、ほぼほぼなくなりました。

教室の空気も、先生が気づかない程度に澄んだものになりました。

『いっしょにかえろー』

『ごめん。ちょっと急いでるから』

その代わり、今まで友達だと思っていた人たちも極端にわたしを避けるようになりました。

『え……?』

『ごめん。行かないとだから。本当にごめんね』

やっぱり思っていたとおり、彼らとわたしの関係はこの程度のものだったのです。

『仕方ないよね……』

彼らにとってそれがいいことであるなら、わたしはそれでいい。

そう思うことにしました。

『……』

それからわたしは、学級会以外の時間でも出来るだけ無口でいることにしました。

       

  

   ※   ※   ※

 


『どうしてだろうね、クマ太郎』

『クマクマ……』

『ねえ、どうして?』

『クマッ……』

『わたしは、どうしてって聞いてるの!』

『クマクマッ……』

『それじゃなんにもわかんないよ!』

『クマ……』

『もういい!』

唯一わたしを支えてくれていた大切な相手との連絡を、自ら断ってしまったことの重大さに気づいたのは、次の日の朝、目を覚まして顔を洗っていた時でした。

『……っ』

鏡に映し出されている、やつれた顔。

ひどい表情でした。

それでも、泣くわけにはいきません。

島のオーナーになるためには、ここでへこたれるわけにはいかないのです。

わたしは短かく整えていた髪を、無造作に伸ばし始めました。



   ※   ※   ※



6年生になったある日、近所のドラックストアで髪染めを買い、ありったけ使いました。

けれど、どんなにたくさん使ってもわたしの髪は黒くならず、緑がくすんで汚い深緑になっただけでした。

『わかめ女だ』

髪が伸びていたこともあり、ここぞとばかりにあだ名が変わりました。

はっきり言って、そんなものはもう慣れっこでした。

ちょっと言い方が変わっただけ。

気にすることなんてない――

そう自分に言い聞かせました。

『………………』

その日の学校でわたしは、人と会話をしないどころか、たとえ授業で先生に指名されても一言も言葉を発しませんでした。

『どうしたゲーツ。ちょっと頭を冷やしてきなさい』

『……』

明日は学校をサボろう。

誰もいない廊下に立たされ、震える膝を抑えながら、わたしはそう心に決めました。



   ※   ※   ※



帰宅して真っ先に向かったのは、お風呂場でした。

全身が映る大きな鏡の前に立って、ぼうっとそれを見つめました。

長くて、グニャグニャで、暗い色の髪。

写っているのは、たしかにわたしのはずでした。

けれど、それはわたしではない何かでした。

『わかめ女……』

そう口にすると、わたしの中で、かろうじて支え棒になっていたものがポキッと折れてバラバラとくずれていきました。

排水口に吸い込まれていく水の音。

きっとそこにまみれるように泣きじゃくれば、楽になれたのかもしれません。

けれど、わたしの心はもうすっからかんの空っぽで、何ひとつ溢れてはきませんでした。

わたしがわたしであることすら曖昧になっていたのですから、仕方なかったのかもしれません。

とにかく、ただただ意識が遠のいていく、それだけでした。



    ※   ※   ※



ピンポーン――

真っ白な世界に一つ。

その音が――

『行かなくちゃ……』

自分でもどこから湧いてきたのか分からない、不思議な気力を呼び覚ましました。

フラフラと立ち上がり、びしょびしょのまま、さぐりさぐりで廊下に出ると、玄関の扉の郵便受けに、白い封筒が一枚挟まっているのが目に入りました。

はいつくばってフローリングのふちまで進み、手を伸ばして抜き取ります。

『……っ』

ビリビリと無心で封を破っていきます。

切り口を下に傾けると、小さな厚紙が一枚コトリと床に落ちました。

『……?』

封筒の中を見ても、入っているのはたったそれだけでした。

わたしは、床に落ちた紙を裏返しました。

『……あ』

それは、写真でした。

まん丸な月。

一面に広がる漆黒の海。

彼方に浮かぶ、デコボコでいびつな三角形の黒い影。

間違いありません。

海から撮ったマスコッ島の夜景でした。

『クマ太郎……』

郵便物をくまなく確認しても宛名は書かれておらず、誰がどうやって届けたのか一切不明でした。

それでもわたしはすぐに、それはクマ太郎がくれたものだとわかりました。

なぜでしょうか。

わかりません。

けれど、なぜだかそうとしか思えなかったのです。

『……ごめんね。頑張るよ、わたし』

それからタオルで体を拭いて、ハサミでざっくりとあの頃の長さに髪を切って、もう一度シャワーを浴びて――

ドライヤーで丹念に髪を乾かして、櫛で整えて。

ダイヤルを押して――


クマ太郎に電話を掛けました。


プルルルル――

『クマクマー!』

"いいんだよ!"

わたしがあんなに怒鳴り散らしたというのに、クマ太郎は、明るい声でそう言いました。

『わたし、頑張るよ』

わたしはその時、心の底から安心しました。

思っていた通り、写真の送り主はクマ太郎だったのです。



   ※   ※   ※



それから、学校をサボることはしませんでした。

小学校は皆勤賞をもらって卒業しました。

ランドを臨時休園日にまでして、卒業式にわざわざ駆けつけてくれたお母様には、弱音を一言も吐きませんでした。

もちろん中学校に進学してからも辛いことはたくさんありました。

それでも、わたしは決してくじけず、やりぬきました。

勉強は大の苦手でしたが、そのかいもあって成績はまあまあ優秀でした。

このまま頑張れば、志望校である"東京観光大学付属高等学校"に合格するのも夢ではない。

いよいよ長年の目標が手の届くところまでやってきたのです。



   ※   ※   ※



「ない……」

けれど、志望高校の合格者一覧にわたしの番号はありませんでした。

どんなに頑張っても、報われない人は報われない。

それが"この世界"の現実でした。


次の日。

電話でお母様にその結果を伝えると、予想外の言葉が返ってきました。

『本土で学ぶべきことは、もう学べたのではないかしら。そろそろ帰ってきたら?』

その一言に、わたしは救われました。

頬からは、今まで出てこなかったはずの涙が一筋こぼれ落ちていました。

『うん。島に帰るよ』

逃げ帰るのではありません。

ここでの経験を力に変えて、いよいよ夢の場所で夢を叶えにいくのです。

こうして、わたしは旅立ちました。

言葉を話せないクマ太郎が、わたしにくれた励ましの言葉である、あの写真を胸に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る