第弐拾三話:向かいの患者
霧生ヶ谷史編纂室の資料保管庫には病院にまつわる話もある。
怪談とジャンル分けするには難しいそんな話。
中国の五経の一つ『書経』に「有夏昏徳にして民塗炭に墜つ」という言葉がある。
泥にまみれ火に焼かれるほどの苦しみという意味だ。
さて、ライターのSさんは仕事中、まさしく塗炭の苦しみで倒れてしまった。
耐えがたい激痛が下腹部を襲ったのだ。七転八倒どころの騒ぎではない。
太陽のフレアーを圧縮したカプセル剤が爆発した、そんな灼熱感。
この悪魔的一撃には覚えがあり、這う這うの体で119番。霧生ヶ谷総合病院の泌尿器科に担ぎ込まれた。
尿路結石であった。
レントゲン検査で9ミリの結石が見つかり、即日手術をおこなうことに。
尿管に本手術前の内視鏡を通すステントを留置する措置手術。
この時には意識が混濁して、Sさんは御囃子宮の社殿に描かれた天井絵巻「東方浄瑠璃世界補陀落山御縁起」に這入りこんで、散策していたという。
死ぬほど痛かったのは間違いありませんけど。ええと、死ぬ思いをしたのは実はこの後で。
何はともあれ、脊椎くも膜下麻酔を打たれて手術は一時間ほどで終わった。
病室までベッドごと運ばれてから手持ち無沙汰に過ごしていた。
入院の準備はどうしよう……。
上半身は動くのだけれど、へそから下、つま先に至るまで自由が利かない。
ふにふにと指で太股をさすってみてもまるで感覚がない。こんにゃくでも触っているかのごとくだ。そうこうするうち寝間着が乱れた。おむつがあてがわれているのが何とも面映ゆい。
膀胱留置カテーテルによる持続導尿が行われるとは知っていたが、覇気のないペニスの先からカテーテルが伸び、ベッド横の蓄尿バッグに接続されているのを情けない気持ちで眺めやると、取材で飲んだ、女帝マリア・テレジアの愛したトカイワインを想起させ……、
……いや、それより東欧の
排泄器官を縫合して口にチューブホルダーをはめ込んだら、臓器がパンパンに張るまで葡萄果汁を注ぎ込み食道にコルク栓をしワイヤーで顎間固定してしまうという。熟成樽の膨れようから
祝祭時には首を切り落とし、その頭蓋を盃にして呷れば夜の百戦殆うからず……。
まぁ、あの時分は性生活を云々できるような状態ではとてもとても、Sさんは苦笑する。
それにしたって真っ赤な小便袋は外的な内臓の露出であり、羞恥プレイにも程がありますね。
ひとしきり悶えたいところなのだが、
両脚はブーツのようなもので拘束され、ブーツ自体はシュコーシュコーと圧迫と弛緩を間欠的に繰り返している。強制的に血流を生み出し血栓ができるのを予防するものだろう。
下半身がまるで動かない不安。
肘をつき、掌でベッドを押すが身体を起こそうにも起きられない。
窓際のベッドなのでしばらく梅雨明けの空を眺めていた。昼なのだか夜なのだか、霧生ヶ谷は七月に入ってもからりとせず濃霧に沈んでいる。Sさんはやがて気配を察した。
病室内はカーテンで間仕切りされているが、どうやら向かいのベッドに先客がいるようなのだ。
干からびた咳払い。
電波の悪いラジオでも聴いているのか、くぐもったぼそぼそした声がぷつぷつ聞こえてくる。
同室のよしみ挨拶でもひとつ、と思ったが、いかんせん身体の自由が利かない。
じれったい。
どんな人だろう。沙汰がないものだから、意識をカーテンの向こうにやる。
ちらりとあいた隙間から覗き見えたのは黒い
「あついあつい」
年齢はいくつばかりか。
肥満した童子の出す裏返ったようなかすれた声であついあついと繰り返す。
ぱたぱたと病室内を歩き回っては洗面所の蛇口をひねって水を流すジャーッという音、ゴッゴッと勢いよく飲み込む音が聞こえる。
ぱたぱたぱた。あついあつい。ゴッゴッ。
ぱたぱたぱた。あついあつい。ゴッゴッ。
何度も部屋を往来する。
その都度、カーテンがめくれあがる。
黒い背中が赤く照り映え、白いもやがたなびいている。
さながら、不動明王の
!!
カーテンがめくれあがるたびに異様な熱波がSさんに吹きつけてくる。
空調の故障でうっかり暖房されていましたとかいうレベルじゃない。
煌々と燃える
指先がしっとりと濡れていた。
汗ではない。蒸気が指先で結露したのだ。
カーテンの隙間から水蒸気が這入上がってくる。乳白色の
妖霧の中、巨大生物の心臓を思わせる塊が脈動するかに赤く照り映えている。
まさか火事っ!?
燃え盛る火焔にスプリンクラーの水が掛かれば蒸気が発生するかもしれない。
乳白色の霧は頭上からではなくベッドの足元から昇って全身を濡らしていた。
枕のあたりにナースコールのボタンがあるはずだと探るが、ただ爪先にシーツの繊維が絡みついてささくれを剥ぐだけ。
沈黙している火災報知機。
あついあついと云うなら逃げだせばいいじゃないか。部屋の中を行ったり来たりする必要がどこにある?
病院で火災が発生し、厄介なことに自分は下半身麻酔で動けない。
しかも誰も気づいていない。
熱い!
熱い熱い!!
あ゛づい゛あ゛づい゛あ゛づい゛っ゛!!!
「誰゛か゛あ゛、炎゛が゛! 逃゛げら゛れ゛な゛い゛、炎゛が!」
自力ではとても逃げられない。絶叫していた。
叫び声一つあげるたび、容赦のない黒い火焔が肺を灼く。
煙に燻されて涙に滲んだ双眸に黒い男の姿だけがはっきりと視えた。
着衣はなかった。それどころか皮膚すらない。
黒く見えたのは人身というにはあまりにも獣じみた骨格。暴力的な剥き出しの筋繊維がうねっては形容しがたい瘤を形作り、赤く爆ぜる。油分のある膿が滴りまたそれが燃え上がる。天井まで膨張した黒塊。
幾つもの炎の塊が宙を舞っていた。餓え歪んだ山犬の頭部。
意思を持った炎がちぐはぐな偽足を伸ばし、伸びきると千切れて床に落ちた。
古来より、死の臭いを嗅ぎ分けて軒先に点るとされる。
狗頭火。
うじゃじゃけた
千切れた偽足が床から伸びあがり山犬の頭部となり唸り声をあげる。
またその頭部から偽足が派生しては熱波で空気を舐める。
下半身はてんで動かない。
いつのまにか血管を思わせる強靭な紐が幾重にもSさんを縛っていた。
紐に触れた皮膚が赤熱して煙を噴き上げ、
ぺり、ぺりと山犬から剥離した蛭状の赤熱が所かまわす降り積もる。
焙られて引き攣ったSさんの皮膚がべろりと剥がれた。熟熟と滲出液が漏れ焼爛れる肉の臭い。山犬の獣臭、逃れられない死の気配。禍々しい妖火焔。
赤い舌がSさんを嬲る頃には部屋中が狗頭火で犇めいており、絶叫は蒸発して呪詛にもならなかった。
「お目覚めかしら、Sさん」
看護師さんに呼びかけられてSさんは目覚めた。
寝間着が汗を吸いもったりと重い。乳白色の霧は散っていた。
うとうとしていたらしい。
「下半身の麻酔は大丈夫そうかな」
指でへそから下を撫でさすりながら感覚分かる?
とチェック。ペニスの先に巻かれたガーゼを手際よく交換していく。
「先ほどお手洗いまで歩いてらしたものね」
なんのことかとっさに分からなかった。
なにせ、ようやく膝までの触覚が戻ってはきたものの、ふくらはぎから先は未だに神経が通じていないのだ。
ハッと両腕を見やる。
無数の擦過傷らしき跡。爪先に血の滲んだ皮膚が付着している。が、火ぶくれはどこにもない。
「あら? 無意識に掻きむしっちゃったのね。消毒します。待ってて」
火災が発生していたとは思えない。視界を塞いでいた乳白色の霧も晴れている。
とんでもない夢を見たもんだ……。
「……ないです」
「んん?」
歩きようがないですよ、と看護師さんに苦笑した。安堵の声がちゃんと出る。
口内がじゃりじゃりといがらっぽい。人差し指を喉元に突っ込んでえずく。黒い飛沫がシーツに斑点となった。炭化したなにか。
「もしかしたら向かいの患者さんと勘違いされているのかも」
えずきつつそう問えば、この部屋にはあなたしかいないよと返ってくる。
「黒いシャツの姿を見かけました。挨拶しようかと思ったんですが」
夢を論じても仕方あるまい。Sさんは言葉を濁す。
それも変ねと看護師さんが首を傾げた。
「ここは術後観察室で、あなたのように麻酔から覚醒してバイタルが落ち着くまでサチュレーションモニタや心電図モニタ、抗生剤点滴や導尿カテーテルに繋がれてて……」
ハッとして歩けるわけない、わよね、とつぶやいた。
病棟の一番奥にある部屋だから往来があればスタッフステーションで気付くし、だから私もあなたが歩いているものとばっかり。む? やーね、いつのまにこんな足跡がついたのかしら。わんちゃん?
看護師さんが間仕切りのカーテンを引く。
向かいのベッド、
丁寧に折り畳まれたシーツと枕だけが次の利用者を待っていた。
「タオルで清拭したら着替えをお手伝いします。それにしたって大きな足跡……」
Sさんは吸気に獣臭を嗅ぎ取り、確信した。
看護師さんの後ろをひたひたと従う真っ赤な山犬の正体はいまだに掴めていない。
以来、Sさんは
……………………
……………………
当時、七月初旬の気象観測データによると、「南の一つ星」とも呼ばれるフォーマルハウトが放射点であるみなみのうお座流星群が極大を迎えていた。
時間あたりの
フォーマルハウトはアラビア語のファム・アル・フートに由来し、これは「大魚の口」という意味である。国際天文学連合は2015年に公募から「Dagon」と命名。名前の由来となった「ダゴン」は古代パレスチナのペリシテ人が信仰していた半人半魚の神名である。
狗頭火は死者が出る家の軒先に立つといわれ、忌まれている。迎え犬としばしば混同されるが同定はなされていない。炎の君クトゥグアについても同様である。
補足:名取新人
注釈:牛玉宝印
寺院や神社から発行される牛頭天王の護符。
木の枝に挟む、病人に用いるなどして、厄除け、降魔を目的とする。
熊野三山で配られる熊野牛王符が特に有名。
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