第五話:俺じゃないっ!!!

 Fさんは職業訓練事業を請け負う会社に勤めている。

 徹夜が続いたにも関わらず、朝早くから出勤していた。

 適性検査受験の準備を忘れていた、と社長から未明に連絡を受けたからだ。

 その社長はといえば、唯一、事務局を預かる奥さんと二人で休暇を取ってしまった。

 Fさんがやり遂げるしかない。

 整数倍に敷き詰められたタイルカーペットを剥がす。

 樹脂製のボンドが指先にまとわりつく不快さに辟易としながら、OAフロアとなっている床のアルミパネルの角にドライバーを突き刺し持ち上げる。

 受験用ノートパソコンを置く長机の配置には、センチ単位の規則があり、その通りに並べるため、パネル下を縦横無尽に這うLANケーブルの出し口を調整せねばならない。

 その日は貸教室もなく、資格試験の予定もない。

 受験生や監督官、講師や生徒も誰一人、いない。

 フロアで灯りが点いているのは設営中のB教室だけで、その他は真っ暗闇だ。


 ごちゅっ、のちゅっ。


 もくもくと作業していたら、空調の節約で閉じた扉の向こうからあしおとがする。

 タイルカーペットに、濡れた踵から踏み込んで、爪先を乱暴に下ろす。

 そんな感じの水っぽい、重量が滲みこむ、破裂感のある音だったそうだ。


 ごちゅっ、のちゅっ、ごちゅっ、のちゅっ。


 最初は気にも留めなかった。

 だが、その跫は教室の前を往ったり来たりするのを一向に已めない。

 磨りガラスの微細な凹凸の向こうに、黄色い人影が見えた。

 身体に比べて兜でもかぶっているのか、頭頂部が異様に、

 ばかでかい。

 それがひょこひょこと上下している。

 鬼魅が悪いとか不審者だとかは思わなかった。

 確かにぼおっとはしてましたから。Fさんが苦笑する。

 よくよく考えてみれば、防災センターの鍵管理ボックスからカートリッジを抜き出したのは他ならぬ自分であって、他人が入ってこられるわけがない。


 そういえば社長がマスターキーを持っていたっけ。

 切羽詰まった案件だったし、気を揉んで、設営を手伝いに来たのかもなぁ。

 扉が開く気配はなく、Fさんはおつかれさまです、と一声かけて作業に没頭。

 手でも洗いに行こう、スマートフォンを見やると午後を過ぎている。

 折しもその時コール音が鳴った。

 社長からである。

 作業進行の確認、こまごまとした指示、そんな業務電話だった。

 ぶわわぁぁんと、甲虫の群れと思しき不愉快な羽音が通話をさえぎる。

 いったい暢気にどこをうろついているのやら……。

 F君にも休暇をやらんといかんなぁ、と間延びした声にいらついたFさんが会話を終えようとした直前、


 「俺じゃないっ!!!」


 と、耳元で胴間声がした。

 電話口からと、奇妙なことに扉向こうの廊下からも声がつんざいていた。

 不審に思い、掛け直してみたが、それきり電話は繋がらない。

 廊下の異様な人影も消えている。

 ハイキングが趣味であるFさんは、山の中で嗅いだ記憶のある、ファイトアレキシン、俗に云うフィトンチッドと饐えた樹液が綯交ぜになった腐葉土の如き匂いの残滓に気がついた。

 

 ずっとああなんです。

 仕事魔だった人が……社長の皮をかぶった別もの、Fさんは吐き捨てた。

 溜まりに溜まりきった仕事に倦んで、転職を考えているそうだ。

 取材時に目撃した社長さんは、リクライニングチェアに深く身体を埋め、顔面を覆うほどの大きなヘッドセットで何かを熱心に聴き入っていた。

 モスキート音が漏れ聞こえており、耳障りだったのが印象深い。

 いまのところ音源は未確認である。

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