8 憧憬


 「チカさん元気?」


 「え? あ──」


 唐突に訊かれ“私”はオニギリを取り落してしまう。

 かじりかけのオニギリは、たいして丸くもないのにコロコロとよく転がってイーゼルの向こう側で止まった。

 かがんでオニギリを拾うと“私”はそれをコンビニ袋に戻す。

 あとでゴミ箱に捨てよう。

 ごめん、とキシが謝って、ううん、と“私”は首を振った。


 「俺の喰う?」


 キシは自分のコンビニ袋をガサガサとあさった。

 “私”はもう一度、首を振る。


 「大丈夫。もともとお腹空いてなかったし」


 そうか、と頷いてキシは自分のオニギリの残りを頬張ほおばった。

 両手が空くと彼は木枠に麻布あさぬのを貼る作業に戻る。

 大学のアトリエでキャンバスを自作しながらの昼食。

 キシも“私”もあまり食に執着しゅうちゃくがないので、食事はいつも適当だった。


 「チカさん。元気じゃないかな?」


 骨折で左腕が使えない“私”の代わりに、キシが貼ってくれたキャンバスにジェッソ塗装とそうをしながら“私”は言った。

 元気も何も一緒にケーキを食べたのはつい三日前のこと。

 「あれからわたしもチカさんに会ってないよ」と言い足すと、「そうか」とキシはまた頷いた。

 彼の注意はキャンバスの自作作業に戻っている。

 少なくとも戻ろうと努力はしている。

 けれど彼の意識は散漫さんまんだった。

 心拍の上昇。

 瞳孔どうこうの拡大。

 発汗。

 “混線”によって感じるキシの変化に“私”は戸惑う。


 「元気?」と問いかけるずいぶん前から、キシの思考は『チカさん』でいっぱいだった。

 こんな時、無意識に他人と“混線”してしまう自分を、“私”は申し訳なく思う。

 きっとキシはこの感情を誰にも知られたくはないだろう。


 “混線”にも色々ある。

 特に意識しなければ、心拍や体温の上がり下がりといった、ごく表層的な変化とそれにともなう断片的な思考――感情しか“私”には感知できない。

 よりはっきりした意識や思考、時系列を飛び越えた記憶への“混線”は、偶発的なフラッシュバックか、“トレース”を用いるしかなかった。

 “私”はそれらの“技能”をつかって、キシの極めてプライベートな領域に踏み込むつもりはない。

 むしろ命の危機でもない限り、できるだけ避けている。

 キシがチカへ寄せる思慕しぼに関して、この一年というもの“私”は知らないふりを突き通してきた。

 でも時々は思う。


 何故チカなのだろう?


 まるで水と油のような二人なのだ。

 日頃の言動から価値観や美意識はもちろん、思考プロセスまでもが全く異なるこの二人に相互理解は可能なのだろうか。

 少なくともキシは理解を示そうと努力している。

 キシがチカに見せる謙虚けんきょさは、もともとの彼の性格でもあると同時に、理解に努めようという彼の姿勢の表れでもあった。

 

 キシのそれは恋というには少し足りない。

 憧憬と言ったほうが正しいのだろう。


 キシは一目見た瞬間からチカのとりこになっていた。

 恋よりももっと直線的で肉感をともなった欲求。

 それはなにもキシだけに限ったことではない。

 男性の多くがこの直線的な欲求を強く持っている。

 女性が思う以上に、性差に対しての認識が強いのだ。

 よく「ムッツリ」なんて言って笑うけれど、大抵の男性がその「ムッツリ」であることを、“私”は“混線”を通してうんざりするほど知らされてきた。


 長い睫毛に縁どられた瞳。

 もぎたての桃のように瑞々しい唇。

 たわわに実った熟れた果実のような胸。

 柔らかな腰の曲線から足に続く滑らかなライン。


 女性性を象徴する視覚的刺激を前に、多くの男性はそれらを我物にする妄想と、けっして触れてはならないという現実の間で、葛藤しなくてはならない。

 ぼんやりと黒板を眺めるふりをしながら、クライスメイトである女子たちの制服を、妄想の中ではぎ取っていくのは、健全な男子ならごく普通のことだった。


 その劇的な心情の変化に対して、エピソード性の希薄きはくさが──余計なお世話だと分かってはいても──いくぶん“私”をがっかりさせた。

 欲求の始まりには何のエピソードも入る余地はない。

 ただ一目見た。

 それだけだ。


 鼻緒はなおが切れた。

 土砂降どしゃぶりの中で傘をさしだされた。

 食パンをかじりながら角を曲がったらぶつかった。


 古典と言われようと、ベタと言われようと、なんでもいいから思慕の始まりにエピソード性を期待してしまうのは、少女漫画の読み過ぎだろうか。

 美人というセクシャルな視覚的刺激は、その後の行動様式を激変させるほどのインパクトを持つ──らしい。


 人見知りで出不精でぶしょうなキシが、たびたび“私”のアパートを訪れる理由の何割かには、チカの存在があった。

 キシは高嶺たかねの花だと卑下ひげしながらも、チカとの偶発的な邂逅かいこうを切望し、“私”から漏れ聞く彼女の噂に、全身を耳にして聞き入った。

 反面、彼の自尊心からの警鐘けいしょうがそうさせるのか、けっしてそれ以上踏み込むまいと心に固く誓ってもいる。

 完全に一方通行の欲求だ。


 もしキシがチカの危機を知ったら?


 きっと彼はチカを救おうと尽力するだろう。

 “私”はキシにチカの危機を話すつもりはない。

 “混線”や“トレース”について、“私”は何度かキシに説明を試みたけれど、結果ははかばかしくなかった。

 キシはトンデモ科学には極めて懐疑的かいぎてきだったし、“私”も彼の疑念を払拭ふっしょくするに足る根拠に持ち合わせがなかった。

 “私”自身が半信半疑なのだ。

 誰かに理解を求めるなど無理がある。

 “私”は説明を諦めたし、キシも追及はしなかった。

 そうした経緯から“私”はチカの危機について話ようがないのだ。


 チカの危機──彼女が死ぬ。


 この三日間ですっかり脳に刻まれたその言葉が、“私”を滅入めいらせる。

 “トレース”を続けてはいたけれど、かんばしい結果は得られず、焦りと憔悴しょうすいばかりをつのらせて今日にいたる。

 「時間ならたっぷりあります」と豪語するイルマは、「どれくらい?」という具体的な質問には答えない。

 改めてタマサカさんに情報の真偽を確かめもしたけれど、電話口から返ってきた第一声は「知らん」の一言だった。

 「それを調べろと言っているつもりだったが?」という手厳しい小言までもらって、“私”はあえなく撃沈された。


 やはり地道に“トレース”を続けるほかないのだ。

 道程は険しい。


 “私”は深々と溜息をついた。

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