夢でつながりましょう

風親

第1話 同じ夢を見ている

「なあ、例のアプリの話、知ってるか?」

「新しいゲーム? 何の話?」

 何となく今朝からクラスが男子中心に、声をころしつつも騒がしい感じがしていた。

 どちらかと言えば、いわゆる陽キャというか脳筋な運動部の連中で盛り上がっているようなので僕のところまでは話がこないかなと思っていた。

 卓球部の僕が、脳筋ネットワークにカウントされるのかは難しいところかなと思う。今年度になりほぼ部員がいなくなって休部状態ならなおさらだ。どちらにしても新しいクラスになって、友だちが減ってしまった僕のところにまで話は降りてこないかなとちょっと気になりつつも、きっと関係のない話だと諦めて寝ているふりをしようとしていた。

「このアプリなんだけどさ」

 だから、野球部でお調子者な草太君が話しかけてきてくれた時は、興味のなさそうな素振りとは全く違って、本当はその坊主頭をぐりぐりしてあげたいくらいに僕は本心では喜んでいた。

「まだストアにはないから、ここから落とすんだ」

「大丈夫なのか? それって」

 草太君は、何やらメッセージを送信したあと、とまどったふりをしている僕からスマホをとりあげた。

「こらこら」

 文句を言いながらも、覗きこんだ画面はすでにアプリがインストール中だった。

「何なのこれ?」

「お望みの人との夢を見ることができるんだってよ。えっちな夢とかえっちな夢とか」

「……なんだ。そんなのか」

 主に男子が、こそこそと盛り上がっている時点でエロい方面だろうとは思っていたけれど、あまりたいしたことがなくてがっかりしてしまった。枕の下に見たい夢の写真を置いておくとかそんなおまじないレベルだという感想だった。

「いやいや、これはすごいんだぜ。もう百発百中でご満足な夢を見ることができるらしいぜ」

 草太君は、セールスマンか何かなのというくらいに、熱心にお薦めをしてきた。

「まあ、教えてやるから、試しに一晩やってみなって。誰がいい? やっぱ、女王様?」

「いや、女王様はちょっと……」

 学年の女王様こと九条さんは、美人でものすごくスタイルが良くて実際モデルみたいなこともしているらしいという噂も聞こえてきたけど、僕からすればちょっと怖そうで夢でもあまり会いたくない人だった。

「だめか。まあ、きつそうだしなー。じゃあ、藤堂は、誰派よ誰派。とりあえずこの新しいクラスの中だと」

 『そんなことを言われてもな』と困っていたけれど、もう頭を抱えられながら耳元でこの男のひそひそ話を聞きながらクラスをあまり頭を動かさないように見回してみた。

 最初に視界に止まったのは、揺れるポニーテールが目立つ夏目さんだった。

 三年生になり、新しいクラスになっても、すぐに可愛らしい笑い声でいつも友だちと話している。ものすごい美人というわけじゃないけれど、とても可愛らしい愛嬌のある人だった。誰にでもフレンドリーに話しかけてくれる人で、僕なんかにも二年生の時に体育祭で肩を叩いて声をかけて応援してくれたのを覚えている。

(まあ、誰にでも気さくに話しかけてくれるだけで、向こうはもう忘れているだろうけれど……)

「ほう。夏目さんですか。ああいう元気なのがいいんだ。ちょっと意外だな」

「いや、別に……そんなことは……」

 まるで中学生が好きな人を告白させらているような感じだったので、照れながら否定してしまう。ただ草太君もそんなのは照れ隠しだと分かっているので気にすることなく話を進めようとする。

「まあ、やっぱな。見るからにおっぱい大きいもんな」

「お、おい」

 近くにいた女子に聞こえてしまったのか、ちょっと睨まれてしまったので、僕は草太君の口をふさごうとした。

「冬派かと思ってたけれど、夏派か。やっぱ夢とはいえ触るならでかいバストだよな」

 草太君は、ちょっと声を抑えめに表現も露骨じゃなくしてくれはしたけれど、もう時すでに遅いって感じでまわりの女子は頬をひきつらせていた。

(冬派って、冬月さんのことか……)

 僕はちらりと横目で冬月さんの方を見た。

 今日も窓ぎわの席でカーテンとシンクロするように、整えられた前髪が風に揺られながら文庫本を読んでいる。図書委員の中の図書委員と言われていて、落ち着いた感じの美人だった。と言っても漫画でよくありそうな長い黒髪でフレームの太い眼鏡をいつもかけていたりはしない。ボブカットの黒髪で授業中にだけ眼鏡をかける姿もまたなんとも言えず透明感のある美少女という感じだった。

「お、やっぱり冬月さんが気になる?」

 目線だけを動かしていたつもりだったけれど、ばればれだったようだ。

「いや、別に……まあ」

「いいじゃん、いいじゃん。足とか綺麗だよな」

 すごい背が高いわけではないけれど、冬月さんのすらり長い足は、他の女子と比べて太ももがまぶしく見えて、健全な男の子はいつもちらちらと横目で見ていた。

「おーけ。分かった。冬月さんも登録しておくな」

「え」

 僕のとまどいなどお構いなしに、勝手に入力していく草太君だった。まあ、まわりの女子に見られていることを気兼ねして何となく嫌がっているふりをしているけれど、実際のところは大して嫌でもないしちょっとだけ興味もあった。


(しょせん夢だけどね)

 そんな馬鹿にしたようなことを言ったけれど、寝る前に草太君に言われたことをベッドの上でしっかりと再確認する僕がいた。アプリを起動しながら、枕もとにおいて寝るだけで人には聞こえないような音で、お話を語りかけてくれるらしい。

(聞こえないんなら意味ないんじゃないのかな)

『そこはそれ。深層心理に働きかけるとかってやつだよ。きっと』

 昼間の草太君の説明を思い出しながら、やっぱり枕の下に好きな人の写真を入れておくくらいの効果だよねと思う。そうは思いながらもその夜の僕はいつもより早く寝間着に着替えると、ちゃんとアプリを起動させて丁寧に枕もとに置いてから、布団の中に潜り込んだ。


「どうだったよ」

 次の日の教室で、草太君はにやにやしながら話しかけてきた。僕はまず草太君の手を両手でしっかりと握りしめた。

「素晴らしかった」

「お、おう」

 僕が感激しすぎて、草太君はちょっと引いていた。もちろん、お互いにちょっとふざけた演技なのだけれど。

「いや、本当に書いてくれたとおりの夢になってたよ」

 改まって素直に感心する僕だった。

 夢の中の僕は冬月さんの太ももで膝枕をしてもらい、夏目さんの胸の中に顔をうずめていた。感触がとてもリアルだったような気がしている。

「そうだろう。そうだろう」

 なぜか自慢気にうなずく草太君だった。別に、お前が開発したとか言うわけでもないだろうと突っ込みたかったけれど、面白いのでそのまま機嫌を損ねないようにしておいた。

「草太君は、何日くらいあのアプリを使っているの?」

「先週からだから、もう七日くらい使っているかな」

「へえ」

 あまり新しいもの好きには見えない草太君が、クラスだと一番に試しているらしい。

「毎日、望み通りの夢見てる?」

「おう、もう七日連続だぜ。だからこそみんなにも薦めているのさ」

 ちゃんと自分で試してみていいと思ったから人に薦める草太君だった。いいやつだなと坊主頭に向かってお礼を言った。まあ、単純でエロい夢だと見やすいとかあるかもしれないなと思ったのは秘密にしておいて。

「もっと凝ったエロいシチュエーションでも大丈夫だぜ」

「いや、別にそんなのは……」

「なんだよ。女なんて強引に押し倒しちゃいえば落とせるといつも言っていた藤堂が」

 草太君はまた周囲の女子に聞こえたら、軽蔑された目で見られそうな冗談を言っていた。

「そ、そんなこと誰が言うか」

「えっ?」

 僕の反論に草太君はわりと本気で驚いていた。

「えー。藤堂。そんなキャラだったっけ。一緒にいけないあんなことやあんなことをしたじゃんかよ」

「ちょ、ちょっと。変なこというなよ」

 草太君は、周囲の女の子に対する僕の評判を落とそうとしているのだと思って口をふさいだ。

「もがもが。まあ、お好みのエロいシチュエーションを楽しんでくれよね」

 草太君は、知らなければさわやかに見える態度で、最低な台詞を言い残して去っていった。すっかりこのアプリのセールスマンのようになっている彼は、今度は文化部のクラスメイトにこのアプリを広げようとしているようだった。

「今日はどちらかにしておこうかな」

 情けないことに夢であっても、二人も女の子がいると緊張してしまってそれ以上踏み込める気がしなかった。

(冬月さんかな)

 夏目さんの姿が見えなかったこともあって、冬月さんに僕の視線は釘付けだった。

 斜め後ろから見る窓ぎわの席の彼女はやっぱり綺麗だなと見とれてしまった。姿勢のいい座り方は白いうなじをいっそう目立たせている。そよ風が入りこむたびに椅子に座っているけれどスカートも少し揺らめいていた。

 昨晩見た夢の中でのまぶしい太ももがオーバーラップして、思わず僕は恥ずかしくなってしまった。

(でも、今日は本を読んでいるわけじゃないんだな……) 

 さっきまでは友だち二人と仲良く話していた冬月さんだった。クラスメイトなんだからここにいるのはみんな同じ年なんだけれど、彼女は毎朝クラスメイトの友だちに訪問されているという雰囲気だった。

『お姉様にご挨拶して、ごきげんをうかがいにまいりましょう』

 傍から見ているとそんなことを言っているように見える冬月さん席の朝の光景だった。

 いつもならそのあとは、静かに文庫本を読んでいるのだけれど、今朝の彼女はスマホをいじっていた。

 『何となく似合わないなあ。せめてガラケーにして欲しい』と斜め後ろの席から勝手なことを思っていた。

 SNSとかやるのかな。それも似合わないな。いっそ彼女には文通でもして欲しい。

 そもそも、男友だちとかいるのかな。同級生の男子なんて子供に見えるんだろうか、すごい年上の彼氏とか似合いそう。

(あー。やだやだ)

 それからも、自分で勝手に妄想しておいて、ダメージを受けてうなだれていた。僕の手のひらの上にはスマホがあって、例のアプリに冬月さんの名前がまだ残っている。その画面を見ているふりをしながら、冬月さんの姿を見つめて今日の夢に出てきて欲しいとしっかりと目に焼き付けていた。

(でも、夢じゃなくて実際に話してみたいな……)

 ものすごく知的な会話とかされてしまって、僕はとまどってしまったりするのだろうか。今晩も夢で刺激的な格好とか見ることができたら嬉しいなとは思いながらも、ろくに会話にならなかったとしても現実でちょっとでも話ができたらもっと嬉しいだろうと思った。

 そんなことを考えていた瞬間、冬月さんは急に振り返った。背後に気配を感じたかのようにちょっと怯えた眼差しは僕の方を向いて停止した。僕と目が合うと気まずそうに視線を下げて、すぐに前の方に向きなおった。

(何だろう。今のは……)

 『目があったぜ。きっと彼女は僕に気があるに違いない』という勘違いは中学生の時に何度もしてきたのでさすがに、もうしない……しないと思う。

 それにそんな目つきじゃなかったのは、さすがに分かった。僕と目があった瞬間に、びっくりするような怯えたような目だった。でも、何もしたことがないよなと首をひねる。挨拶以上の会話をしたこともない。ただいつも見て、憧れているだけの存在だったのだから。

(もしかして、そんなにいやらしい目で見ていたりしたのだろうか……)

 それが一番、考えられることな気がして、落ち込む僕だった。



 その晩は、すぐに『これは夢だ』と思いながら、夢を見続けていた。

(誰もいない……)

 少し薄暗くなった学校の中を僕は一人で歩いていた。昨晩の夢はどこかの部屋で始まって、もういきなり冬月さんの膝枕で、夏目さんが胸を目の前にあって、もうそのあとはひたすらいちゃいちゃしていたものだから場所のことなんて気にすることもなかった。

 今日は……そう、僕らの学校だ。柱や壁の細かい傷も今日見たままの風景だった。

 夕日が差し込んで、赤くなってきた校舎の中には誰もいなかった。いつもの放課後ならサッカー部を中心に聞こえてくる部活の掛け声も何一つ聞こえてこなかった。不思議と帰ろうという考えは浮かんでこないまま校舎をさまよっているとやっと他の生徒らしき人影を見つけることができて僕は喜んだ。

 男女二人組らしいその生徒の姿を追いかけていってたどりついたのは音楽室だった。

 そっと中を覗いて見たけれど、二人の姿は見当たらなかった。仕方なく僕は音楽室へと足を踏み入れた。ピアノに隠れた奥に二人の姿があった女子生徒は壁を背にして、二人はかなり密着している。

(ただのカップルかな。お邪魔しちゃったかな)

 そうは思いながらも、誰もいない校舎になかなか帰る気にはなれなかった。

(ん?)

 少し暗い音楽室に目が慣れたのか、女生徒の姿がはっきり見えるようになって、僕の鼓動は一気に早くなってしまう。

(冬月さん?)

 男に壁に押し付けられるようにして、恥ずかしそうにうつむいている姿はなんとも言えない色っぽさと言うか艶めかしさがあった。その女生徒は僕が毎日、斜め後ろの席から眺めている冬月さんだった。ただいつもの冬月さんの落ち着いた表情からわずかに見せる微笑みの印象とは全然違っていて、僕は衝撃を受けてしまう。

(彼氏とかいるのか……)

 ほとんど話したこともない女子なのに、意外にショックを受けている自分に気がついた。ちょっと冷静ではいられずに、ふらついた足でさすがにここに残るよりは誰もいない校舎に戻ろうと体の向きを変えようと思った。

(あれ? でも……冬月さん……嫌がってない……か?)

 大声を出したり暴れたりはしていないけれど、抱きしめようとしている男子生徒の胸に手をあてているのだけれど、それは男の顔がこれ以上近づくのを拒んでいるように見える。

 恥ずかしくてうつむいているのだけれど、それは男と目をあわせたくないから。そう感じればそうにしか見えなくなっていた。僕はただのお邪魔虫かもしれないという可能性は忘れてふらふらっと二人の生徒に近づいていった。

 男は背中しか見えないのでまだ誰なのか分からなかった。少し回り込みつつ二人の様子をうかがうように歩く。冬月さんの方からは僕のことが見えていると思うのだけれど、何も反応がなかった。気がついているんだけれどそれどころじゃないのか。それどころじゃないから気がつかないのか。どちらにしても、やっぱりピンチな状態なんじゃないだろうかと不安になってつばを飲む。ずいぶんと口の中が渇いていると自分でも分かってしまった。

 じり。

 音楽室の床は絨毯であまり足音がしない、それでも自分が一歩一歩踏みならす音が気になって仕方がなかった。

 でも、二人は僕に気がついたような様子はない。密着して話す二人の声も聞こえる距離なのにどこか不自然だった。

「だめ。やめて」

 冬月さんが、抵抗している小さな声が耳に聞こえてきて、やっぱりそうかと僕は怒りを覚えながら一歩足を進めた。

 よく見るとずっと冬月さんの腰にそえられていた手は、下に降りてスカートの中にまで侵入していた。

 スカートが少しめくれて、男の手が入っている場所から見える太ももとヒップのラインとわずかに見える下着が、こんなことを考えている場合じゃないのに、僕のいやらしい気持ちをかきたてて仕方がなかった。

「大人しくしな」

 男子生徒は冬月さんのあごを捕まえて、自分の方を向かせた。冬月さんもそれに対してはあまり強く抵抗する感じには見えなかった。

「言うこと聞かないと、この写真。クラスメイトのみんなに送信しちゃおうかな」

 男はスマホの画面を冬月さんに見せようとしているようだった。悔しそうにしながら、冬月さんは視線だけを逸らした。

「実はちょっと動画もあるんだよね」

 男の声は悪いことをしているかのようには聞こえない。こんなこと慣れているかのように、スマホを握っている手でそのまま画面をタッチして動画を再生した。冬月さんの目がびっくりして見開かれる。音楽室の中にちょっと荒い息のような音が響いていた。冬月さんの声なのか、何の動画なのかも僕の位置からはさっぱり分からなかった。

「第二図書準備室は、自分しかいないと思って、ついあんないやらしいことをしちゃった?」

 ただ、もう冬月さんはほとんど抵抗を諦めたかのように手にも力が入っていないようだった。

「お願い許して……」

 冬月さんは声もか細く、男の顔が首すじを舐めるのをただ黙って受け入れている。男はスマホをしまうと再び手を太ももへと伸ばして、スカートをまくりあげて侵入しようとしていた。ぐいっと肩口から冬月さんの体を押してさらに壁に押し付けると、もう片方の手は冬月さんの胸へと伸びていった。

「最初から、こうして欲しかったんだろ。知っているよ」

 男は余裕たっぷりにささやいて、好き勝手に冬月さんの体を触り始めても、冬月さんは力なく首を横に振るだけだった。

 僕はこれ以上はないほど、頭に血が上っていた。この余裕たっぷりにいやらしい男は何者だ。許せない。

 僕は何をしている!? 今、勇気を出さなくてどうする? 僕が冬月さんを助けるんだ。

(そうだ。もし冬月さんを助けたら、感謝してもらえて、このあと、つ、付き合ったりとかあるかもしれない)

 その邪念は、僕は今いったん首を大きく振ってどこかに飛ばしておいた。

 今は、ピンチな冬月さんを助けるんだ。

 震えて動かない足に、気合いを入れる。

 今だ。行くんだ!

「お、おい。やめろおお」

 僕は叫んで、その男に飛びかかった。

 次の瞬間、その男はわずかに首だけを動かしてこっちを向いた。

(あれ? こいつ。誰?)

 一瞬、分からなかったけれど、実はそれはとても見慣れている顔だった。そう毎朝、洗面所で見る顔。

 ……つまり僕の顔だった。


 視界はしばらくの間、真っ暗になった。

 ぶつかった衝撃も何もなく僕は立っていた。

(あれ? 何これ? 僕に似た顔の男はどこに行った?)

 見回しても男の姿は見えなくなっていた。そして、この音楽室にいるのは僕と冬月さんだけ……。いや、さっきから誰かが見ているような視線を感じているんだけれど。

 いや、今はそんな視線どころではなかった。僕の両手にとても柔らかい感触があった。

 僕の左の手が触っているのは、冬月さんの胸だった。制服の上からとはいえ、そのふくらんだ感触は十分に伝わってくる。そして、右の手は太ももを触っていた。さっきから見ていた男が太ももを触っていた場所とはさらに違って、内太ももをなでていた。スカートの中に侵入して、あとちょっと上に行けば……というところで太ももに挟まれて止まっていた。

 漫画だったら、僕はきっと鼻血を噴出して倒れていたんじゃないかと思う。

 でも、僕は何もできずに固まったままだった。

(ここは、勇気を出して、もっと触ってみる!)

 そんなことを一瞬でも考えてしまった自分が、恥ずかしくて死にたくなった。

 落ち着いて考えてみる。どうやら僕はさっきまで、冬月さんをまさぐっていた『僕』と入れ替わってしまったらしい。『僕』が逃げたのか、入れ替わったのかそれは分からない。

 ただ、分かっているのは目の前には冬月さんがいる。僕はいろいろとやばいところを触っている。触りまくっている。

 冬月さんは、僕が入れ替わったことにすら気がついていないようだった。相変わらずうつむいて、体を小さくしている。でも、少しずつ僕が固まっていることには気がついて、おそるおそる顔をあげてきた。

 どう言い訳をしても、だめな気がしていた。本当のことを話しても、信じてはくれないだろう。信じてもらったらそれはそれで、二重人格の危ない人と思われてこの先もずっと微妙に避けられて終わりなんじゃないだろうか。

(それなら、このままいっそ……。さっきの男の続きを……)

 馬鹿なことを考え始めた。僕に、冬月さんは普通に立って首をひねりながら聞いてきた。とても可愛らしい、甘えたような笑顔で僕の目を覗きこみながら。

「……あれ? どうしてやめちゃうの?」



「うわー」

 朝のベッドの上で僕は恥ずかしくって布団をかぶって声を出しながら身悶えていた。

「分かっている。分かっている。最初から夢だって分かっていたはずだろう」

 夢の中で僕はもう、理性を失って冬月さんに襲いかかろうとしていたところだった。

 いや、もちろん夢だけれど、夢じゃ現実ではしない行動をすることもいっぱいあるけれど……。

 でも、そんな選択をしようとした罪悪感からは逃れられなかった。

「だって、あの顔、可愛すぎるだろう。誘いすぎだろう」

 布団をかぶって、転がりながら叫んでいたけれど、母親には心配されてドアを威勢よく叩かれてしまってなおさら恥ずかしくなってしまった。



 さすがに学校に着いた時には、だいぶ冷静になっていた。

「べ、別に、それほど大した夢でもないし」

 同級生のちょっと憧れている女の子がいて、夢でちょっとエッチなことをされかかっていてよく見たらそれは僕でしたってだけの話だ。あまり他の男子のエッチな夢の詳細を聞いたことはないけれど、こんなものなんじゃないのかな。

「でも、何か、妙にリアルだったんだよね」

 あれとかあれとかの感触までも思い出してしまい、教室の中だというのにやばいことになりそうだった。

 机にうつ伏して、しばらく何も考えないようにして授業が始まるのを待った。でも、古典の授業は、教科書を抑揚のない声で読み上げるだけの授業で、まるで妄想してくださいと言われている時間な気がしていた。

 ちらりと授業を真面目に受けている冬月さんの姿を見てみる。眠気と戦うことすら諦めてしまった生徒が多い中で、いつもと変わらず授業中だけにつける眼鏡をかけて真面目な表情で、黒板を見つめて書き写していた。

 いつもの真面目な冬月さんだった。僕の熱視線を受けて、振り向いてくれたりということは今日はなかった。

 夢は夢だ。

 夢の中とはいえ、あんな冬月さんを創作して、見てしまって申し訳ない気持ちにすらなってしまう。


「んー。でも何か」

 放課後が近づくにつれて、ちょっと違和感があった。

 昨日のように目があってしまってちょっと驚くようなことはない。しかし、その可能性すら今日はなさそうなのは少し変な気がした。

 つまりなんだろう……。僕と目が合う方角にすら向かないようにしている……。

 普段からこんなものだっただろうかと考えていること自体、ちょっと虚しいものがあった。

(まあ、いいか……)

 どっちにしても、僕が今日、冬月さんと話すことはない。夢の話なんてできるはずもない。問題はこれから先もずっと親しくなるチャンスなんてなさそうなことだった。

「藤堂。ちょっといいか?」

 ため息をつきながら帰ろうとした僕を担任の岩槻先生が呼び止める。余計なことを頼まれるのは分かっていたけれど、すでに名指しで捕まってしまっている以上、どうしようもなかった。

「すまないが、これ、図書室に返しておいてくれないか」

 前の地理の授業で使った少し変わった世界地図の資料らしかった。僕は日本史選択なので見たこともないものだった。

「はーい」

 自分で使ってもいないものを片付けさせられるのは、ちょっと納得がいかなかったけれど、逃げ出したり反抗したりする勇気もない僕は流されるままに素直に応じていた。

「ぐっ」

 百科事典くらいのサイズのその資料は三冊もあるとかなり重かった。

「あ、藤堂君、一冊持ってあげるよ」

 そう声をかけて、横から僕の腕の中の資料をひょいと一冊をとっていってくれた女子生徒がいた。僕なんかでもちょっと聞き慣れたその声の主は、夏目さんだった。

「あー。いいのに」

 僕が読んでいる漫画とかだと、山積みの資料とか荷物とかを運ばされている女子生徒を階段で男子が無言で持っていってあげて女子生徒は惚れるものだった。それなのに現実では重い荷物でふらついている僕が女子に助けてもらうのはちょっと情けない気持ちだった。

「まあまあ、気にしない。藤堂君、日本史だもんね。運ばせちゃって、申し訳ないし」

「あー、うん」

 まぶしい笑顔で言われると、僕はもう何も言い返せない。そして僕が日本史選択だって知ってくれていることの方が驚きだった。

(クラス全員の選択とか覚えているのかな……)

 どんなクラスメイトともコミュニケーションで失敗しそうもない夏目さんは、そんな努力をしてるのかもしれないと想像してしまった。

 僕に気があるから、積極的に手伝ってくれるんだとそんな妄想すらする勇気が今の僕にはなかった。

「あー。最近ねー」

 階段を上りながら、夏目さんが話しかけてくれる。ただ、さっきまでのどうでもいい天気の挨拶みたいな会話とはちょっと声のトーンが違っている気がした。

「うん」

「藤堂君が、夢に出てきたんだよね」

「あー。勝手に登場させちゃ困るねー。使用料をもらわないと」

 ちょっとだけ何か面白い返しをしようと考えた言葉の寒さに、我ながら凍りついてしまった。

「で、でも僕の夢にも夏目さんが出てきたよ」

 慌てて取り繕うように僕は『事実』を言ってしまった。

「へー。昨日?」

 階段を登りきった僕は夏目さんの方を振り返る。普通に見下ろすだけでもやばいのに、資料を抱きかかえている夏目さんはといつもより胸が上に押されているようでつい視線がそこに釘付けになってしまった。

 夢の中でこの胸に顔をうずめたことを思い出してしまう。

「ううん。えーと正確には一昨日の夜」

「じゃあ、私と一緒だね」

 夏目さんも階段を登りきって、僕の隣でにこりと笑ってくれる。

「私に、えっちなことした?」

 いきなりの刺激的な一言を僕の耳元でささやかれた。いつも僕が見ている漫画だったら、何かを口に含んでいて思いっきり吹き出しているところだった。でも、現実は面白いリアクションもとれない僕がうろたえるだけだった。

「な、ないよ。そんなこと」

「でも、今、私の胸をかなり見てたよね」

 胸をちらりと見る視線は、その女子にはばればれだという話を聞いたことがある。ちらりどころか釘付けだったのが事実なだけに何も反論できなかった。真面目じゃないのに真面目なふりの男子は、我ながらなんとも言えずに情けなかった。

「ご、ごめんなさい」

「あはは、素直でよろしい」

 さばさばと笑ったあとで、それ以上何も言うこともなく夏目さんは図書室に入っていった。


「お疲れさま。お茶でも飲む?」

 初老の女性司書教諭は、僕らが返却した資料を受け取って労ってくれた。ただ、そのお誘いは特に話すこともないので、断ろうとしたのだけれど……。

「お茶うけに、和菓子もあるわよ」

「はい。いただきます」

 夏目さんは即答して司書教諭は満面の笑顔になっていた。まあ、僕も甘いものは好きだし、夏目さんが一緒なら会話がとぎれて気まずい雰囲気になるようなことはないかなと思って準備室の方にお邪魔することにした。

(それに夏目さんとも話せるわけだし……)

 誰にでもフレンドリーに話してくれる夏目さんだけれど、夏目さんの話をじっくり聞く機会は今までなかった。お茶と和菓子が来るまでの間も三人の会話を盛り上げてくれていた。

 とりあえず分かったことは、夏目さんは毎朝遅刻しそうで、校門に駆け込んでくること、猫が好きなこと、意外にと言ったら失礼だけれど司書教諭もちょっと感心するくらいに本を読むことだった。

「図書準備室って、私は初めて入りました」

 夏目さんは、部屋を見回しながらお茶を飲み干していた。

「まあ、図書委員じゃなければ用はないものね」

 柔らかい物腰で、先生は応じてくれていた。

 僕にとってもこの穏やかな先生がいつもお茶を飲んでいる場所というイメージしかなかった。そういえば、ちょっと引っかかっていることを尋ねてみようと思った。思ったのだけれど言葉にしてしまった瞬間に、そういえばあれは夢の中の話だったと気がついて悔やむのだった。

「第二図書準備室ってあるんですか?」

「第二? そんなもの、この狭い学校にあるわけないじゃない」

 今度はちょっと豪快におばちゃんらしく先生は笑った。まあ、そうだよね。そんな場所、聞いたことがないって僕も昨晩から思っていた。

「あー。でも、そこの部屋のことをそう呼んでいたわね」

 ふと思い出したように、まさに図書準備室から入れる隣の部屋へのドアを指さした。

「へ」

「『誰が』、呼んでいたんですか?」

 夏目さんが興味を持って食いついてしまい、余計なことを話してしまったと僕は後悔してしまった。それにしても妙に『誰が』をはっきりと強調していた。

「え? 読書クラブの子たちよ」

「読書クラブ……?」

 僕と夏目さんは、聞き覚えのない言葉を聞いて同じように首をかしげていた。

「本を読む部活というか集まりみたいなものだったのだけれど、メンバーがいなくなっちゃったから、去年から活動していないのよ」

 寂しそうに司書教諭の先生は言った。きっとそれなりにお世話をしていたのだろう。

「ああ、そこが部室だったんですね」

「そうね。でも、去年には正式な部活動じゃなくなってしまったから、あの子たちはちょっと自虐的に第二図書準備室って呼んでいたわ」

「冬月さんが最後の一人ってことですね」

 夏目さんが言い切った言葉に、僕はちょっと驚いていた。

(あれ? じゃあ、昨日の夢は……)

「そうよ……ああ、そうか二人は冬月さんのクラスメイトなのね。それでそんな呼び方を知っていたのね」

「はい。そうなんです」

 ずっと考えこんでいる僕に変わって、夏目さんが明るく返事をした。『いや、夏目さんはさっきまで知らなかったでしょ』と言いたかったけれど、それもはっきりした根拠があるわけでもないので夏目さんの様子を横目で見ながら黙ったままだった。

「帰る前に、その部屋お邪魔してもいいですか?」

「うん。別にいいわよ。そっちの部屋からも廊下には出られるし。ご自由に」

 その言葉を聞いて夏目さんは、鞄を抱えて立ち上がった。

「藤堂君も行きましょ」

「あ、うん」

 学生服の袖をつかんで引っ張られる。ちょっと強引な夏目さんに僕は何も言えずに従うしかなかった。

 第二図書準備室は、どうということのない資料置き場だった。奥にある二列の本棚が大きいすぎるのがちょっと目立つくらいだった。そこには、僕らが今日運んだ資料のような本がいくつか並べてある。

 変わったことと言えば、真ん中に置かれたちょっと長細い机といくつかの椅子くらいで、机につけられた可愛らしいシールが、ここで何らかの活動をしていたわずかな証拠みたいに感じられた。

「ここはちょっと死角だから、エッチなことできちゃうかもね」

「え? 今なんて?」

 二列の本棚の間に夏目さんは入っていった。確かにそこは廊下からも図書準備室からもすぐには見えない場所だった。そこから、夏目さんは僕の質問には答えてくれずに手招きしていた。

 僕がふらふらと近づくと夏目さんは、僕の腕を捕まえてぐっと顔を近づけてきた。

(当たってる。当たってるよ夏目さん)

 腕に押し付けられている何かの感触に僕はただとまどっていた。ただ、夏目さんの目は鋭い。これはどうやら色っぽい展開なわけではなさそうだった。

「単刀直入に聞くけれど……藤堂君はあのアプリを使ってる?」

 柔らかい感触といい匂いこそ嬉しいけれど、何となくもう胸ぐらをつかまれて問いただされている気分だった。

「草太君の?」

「そう。草太君がお薦めしていた」

「うん。一昨日昨日と使ったけれど、何で知っているの?」

「あれは、女子の方に先に秘密で広まっていたの。草太君は、それをどこからか聞いて自分も混ざってみたいと思って無理やり聞き出したみたいね」

 草太君は、『俺がこのクラスで初めて見つけたアプリだ』みたいなことを言っていたけれど、実際にはそうだったのかと僕は心の中で笑っていた。

「なるほど、それを誤魔化すためにみんなに広めていたのか」

「たぶん、そんなところかな~。まあ、それはいいんだけれど……」

 そこまで言って夏目さんは、ちょっとその先を言うのをためらっていた。

「一昨日、本当に私とえっちなことをする夢を見た?」

「はい、見ました。すいません」

「こう。胸でこんな感じでいっぱい挟んだりしてた?」

 さっきまでの、ちょっと鋭い声からうってかわって、いつもの可愛らしい声わざわざ自分の胸に手をあてて再現しようとしてくれる夏目さんだった。自分で再現しておいて、僕のいやらしい視線に気がついて真っ赤になって恥ずかしがる姿に、僕はもうのぼせて倒れこんでしまいそうになる。

「うん。顔をうずめてもらったりしていました」

「そっか。やっぱり夢で繫がるって話は本当なのかもね」

 さらりとすごいことを言う夏目さんだった。

「ああ、うん。そんなアプリの機能があるわけじゃないのよ。都市伝説よ、おまじないよ」

「そ、そうなの」

 笑いながらも、僕は昨日の夢のことを考えていた。

(実は冬月さんと繫がっていたりとか……)

 馬鹿みたいな妄想だけれど、でもさっきの部室の話でちょっとだけありえる話になった気がしていた。

「まあ、それは前置きで、本題なんだけれどね」

「前置き? これだけで結構不思議なすごい話だと思うんだけど」

「最近の都市伝説では、二人登録しているとよくないかも……みたいな話があるんだけれど」

「え?」

 なぜか夏目さんは目を逸らして、申し訳なさそうにしていた。

「だ、大丈夫? 藤堂君は特に問題ない? 変なことは起こっていない?」

「うん。問題はないよ。全然元気だし」

 むしろ、夏目さんとこんなに密着して話ができるなんて高校生活の中でも一番嬉しい出来事なんじゃないかという気さえしている。

 そんな僕の顔を夏目さんはしばらくじっと見ていた。

(な、なんだろう)

 勘違いしても仕方がないと思うくらいに近くでじっと見つめられすぎて、ついに耐えきれなくなってちょっとうつむいた。

 僕が視線を下げたのを見計らったように、夏目さんは自分のシャツの襟を掴むとぱたぱた揺らしながら広げた。

「わ。な、何してるの」

 この密着した状態で、そんなことをされたら胸元からブラジャーが見えてしまう。思わず僕は飛び退いたけれど、白いブラジャーの鮮やかさと見事な谷間がすでに頭に焼き付いてしまって振り払えなかった。

「見た?」

「み、見ちゃった。すいません」

「……純情だなあ。藤堂君、そんなキャラだったかなあ」

「そんなキャラです」

 クラスでも影が薄い僕のことをからかったのだと分かる悪い笑顔で、夏目さんは僕の方を見つめていた。

「あはは。まあ、そっか。そっか。藤堂君を巻き込んじゃってごめんね」

 夏目さんは、僕から離れてくるりと一回転すると片手だけ顔の前に立てて謝っているような仕草をしていた。

「何で夏目さんが申し訳なさそうにするの?」

「え? そ、それは私が見たい夢として、二人を登録しちゃったから……」

 しばらく首をひねって考えてみる。僕のアプリのことはいったん忘れるとつまり『二人』とは……。

「僕と……」

「冬月さん」

 恥ずかしそうに、夏目さんは告白した。言ったあとで慌てて両手を振りながら取り繕っていた。

「べ、別に同性愛者とかじゃないから。ただ、夢だとしても仲良くしてみたいな~って」

「ああ、うん。綺麗だからね。分かるよ」

「そうだよね。そうだよね。藤堂君も一昨日は、冬月さんの夢も一緒に見られてラッキーだったよね」

 すっかり仲間になったように、僕の手を握って跳びはねる夏目さんだった。まあ、照れ隠しっていうのもあるのだろうけれど、かなり親しくなったような気がして僕も笑顔になっていた。

「ところで昨日は何の夢を見ていたの?」

「え?」

 急に僕は冷や汗が首すじを流れるのを感じていた。なぜか浮気を問い詰められているような、もしくは恋人を寝取りに行った間男のような気がしてきてしまった。

「え? べ、別に何の夢も……」

「ふーん」

 あれ、夏目さんの視線が冷たい。もしかして何か知っていたりするの? 冷や汗はシャツの中にまで流れ込んでいった。

 その時、廊下側の扉が開いて誰かが中に入ってきて、驚く僕と夏目さん。

 予想はできる。この部屋に用がある生徒は今はこの学校に一人だけなんだ。

 本棚の隙間から覗いてみて見えたその姿は……やはり冬月さんだった。

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