いつか世界の終りまで

竜飛岬

第1話 正義不在

(……、……) 


 薄暗い闇の中を、風が流れていく。

 ただの風ではない。すすり泣く乙女の声とも、暗闇の中できちきち鳴く蟲とも、あるいは姿無き怪物の呻きとも取れる不気味な風。アルデバランに吹く魔風。

 瘴気を孕むその吐息が、さして広くもない空間を満たし駆け抜ける。風の通り抜けられる隙間もないのに。唯一の出入り口であろう扉も開いていないのに。

 風という名の霊異は広間に集う十数人の人影と、空間の中心に据えられた一人の少女を取り囲み吹き乱れる。


(……びゅうびゅう? それとも、びょうびょう? ……あ、きりきり?)


 形容しがたいその風の声を、少女は心中でそう表現する。

 未だ十代も半ばであろうその少女――後継・御名あとつぐ・みなは、この表現しがたい空間の中で人形のように広間の中央に安置されていた。

 ミナの肢体は指先一本まで動かず、学校指定の制服は剥ぎ取られ未成熟な肉体を薄暗い空間に晒されている。

 ある種の背徳感を覚えさせるその光景を、しかしその周りに集う人影は特に手を出すわけでもなく、ただただ彼女に、あるいはそのすぐ傍にまで来ている何者かに膝を付き頭を平伏している。


「Ia……、Ia……」

「……Vugtlagn……、Vulgtmm……」

「Ai……Ai……」


 唯一自由となる視覚は、その輝きを半ば喪失し、ただぼんやりと室内の壁を映すだけ。もとより光源も少ない空間だ。他に頼りになるのは聴覚だけ。

 そうして耳を澄ませば、聞こえてくるのは風の音だけではない。

 ぶつぶつと発声すら定かではない言語で何かを呟く人影や、視界の外で何かが何かを咀嚼するような音。

 まるで大事な宝物のように。あるいは、彼らが敬い畏れる何かへの捧げもののように。

 異様な光景、異常な状態。

 常人には理解できないであろう光景。


(おうち、いつかえれるんだろう……)


 ミナはただの女学生だ。

 神秘・霊異が跳梁跋扈する現代においても、特別な能力を持つわけでも無ければ、優れた頭脳・成績を持つわけでもない。

 だがこの世界は理不尽で満ちている。

 ほんの数時間前まで学友たちと学び、遊び、生を謳歌していた彼女は、しかしこの人影たちによって拉致され監禁された。

 彼女に何か非があったのかと問われれば、特に何もない。

 運が、間が悪かっただけだ。たまたま良質な贄を探し求める彼ら狂信者に、たまたま目を付けられただけ。ただ、それだけ。



(…………、……?)

「ジュンビはトトノッタ」 


 ふと気がつけば、すぐ傍に影が近寄っていた。

 他の人影同様に襤褸切れのようなローブを纏った長身。その声色は男のものだろうが、とても低い。日本語ではあるだろうが非常に聞きとりづらいものだ。


「ミミはキコエテイルダロウ? コウエイにオモウとイイ。キミはワレワレのカミへのササゲモノ。ハナヨメとシテ、カカゲラレルのダ」


 言葉に抑揚はなく、しかし静かな興奮を内に秘めて男は言う。


「そのチとニクはカゼにヒキサカレ、バラマカレ……タマシイは、イダイなるカミのミモトへと、イク。

 オソレルコトは、ナイ。

 タダ、シズカにココロせよ。アキラメ、ゼツボウし、シカシてヨロコベ」


(…………ああ)


 ミナにはその男の言っている言葉の意味がよく分かった。

 嫌でも理解できる。

 今日、ここで自分は死ぬんだなと。


(いやだ……いやだよ。だれか……)

「タスケなど、コンゾ。ココはワタシがツクッタいかいダ。オモテガワへのインペイも、ウチガワのケイビもカンペキだからナあ。

 ジュウジツカンがあってイイダロウ?

 ワタシがオマエのタチバなら、ヨロコビにナキフセッテいるトコロだ」


 なら変われよ、という言葉は形にならない。

 仮に声に出来たとしても状況が変化したとは限らないが。


「ワがカミはオンナ、トクにセイチョウトジョウのがコノミなのでナ。ワタシやタのモノタチでは、カミのヨウキュウにコタエラレない。

 クク、ジツにウラヤマしい」

(…………い、いやだあ)


 彼らが神と呼ぶ存在へのロリコン疑惑や、本気でこの状態を羨ましがっている様が狂気と冒涜を醸し出す。

 狂っている。誰も彼もが。



 助けなど来ない。

 正義などどこにも無い。

 ミナは自分の心が深く、深く汚泥のように濁っていくのを静かに感じた。 

 彼女の祈りを聞き届けるような神はおらず、彼女の身体を舐めまわす風の主が今か今かと待ちわびている。


 腐敗臭すら感じ始めた風の動きは、いよいよ激しさを増す。

 此処に道徳は消え去り、理不尽のみが存在している。 


「デハ、ハジメヨウ」

(いや、だ……いやだ! たすけて……!!)


 おぞましい、口に出すのも憚れる不浄の言語が、男の喉から絞り出される。

 朗々と、淡々と、邪悪な熱量を感じさせる狂気の祈り。魔風への嘆願。

 それを間近で聞かされるミナの心中は、生きたいと、ただそれだけの、しかし切実な願い。


 だが、それを聞き届ける者など誰がいるだろうか。

 狂信の徒が語った言葉が事実なら、外部からの助けなど期待は出来ないだろう。仮にこの事態に気付いた誰かがいたとしても、どうにかなるものなのだろうか。


「Ia! Ia! Ia!」

(だれか……!!)


 魔風の勢いはいよいよ増し、男の神への嘆願も更に熱が入る。

 星々の果て、霊異の嵐は此処に降りる。


 世界は理不尽で満たされている。

 誰も彼をも巻き込んで、悲嘆に声枯らす者たちで溢れている。

 ああ、理不尽だ。

 ただただ、理不尽。そう表現するしかないだろう。


 少女が望む助けは来ない。

 正義などこの世界に存在しない。

 そう存在しないのだ。






「ひゃっは~!! 狂信者は絶滅だあっ!!」


 そんな理不尽は――――だが、無くなった。



「――――――――ハ?」

(はい……?)


 パリン――――と、硝子の砕けるような、甲高い音が鳴り響く。

 瞬間、先程まで室内を満たしていた風は散り、闇を切り裂く陽光が周囲を満たした。

 一瞬で闇から光へと転換した事でミナは反射的に目を閉じ、次に開いた時にはそこはあの広間ではなく、だだっ広いだけの郊外であった。


「バカな……ワタシのイカイが……コワサレタ……?」

「カミのカゼが……」

「シサイさま! コレはイッタイ!?」

「ワ、ワカラヌ……トモカク、オチツケ!」


(なに……なに、なんなの!?)


 ミナも男も、そして今まで沈黙したままであった他の信者たちすらも混乱している。

 内情を知らないミナはともかく、信者たちは当然の反応だろう。


 彼らが司祭と呼ぶ男は術者としても一信者としても非常に優秀な存在だ。

 小規模ながらも位相の異なる空間を何もない郊外に作り出し、彼らが崇める神の力を振るい、星辰の縛りを度外視して神そのものすら喚起するほどに。

 それほどの強者が絶対の自信を持って構築した世界が、砕けたのだ。あまりにもあっさりと。混乱するなと言う方が無理がある。



「ワンパン楽勝でしたw」

「御大将、奴さんら聞いとらんぜよ」

「お気の毒さま……」


 場違いと言えば場違いなほど気楽な調子の声色。

 その発生源を辿れば、三人の人影。


「豆腐以上、寒天以下の防御でしたわww」

 一人は、黒いスーツに髪をオールバックで決めた年若い青年。なんか口調がうざい。


「そりゃあどっちも紙装甲っちゅう解釈でええんか? あと草生やすなや大将」

 一人は、時代錯誤な軍服を身に纏った男。三人中最も長身で落ち着いた風貌だが口調は軽い。


「どっちも植物由来……的な意味合いで解釈すべき、かな?」

 一人は、両目を大仰な眼帯で覆った少女。ミナよりも更に幼い容姿は、少女と言うより幼女と言うべきか。


 場違い。場違い過ぎる。

 姿格好を除けば比較的一般にいる人種――と呼べなくもないだろう。

 だがただの一般人があの闇を晴らせるわけもなく、同時にこんな怪しい集団を前にして軽口など叩けはしないだろう。


(なんなの~!?)


 信者一同も同じことを思ったろう。

 だが一番それを言いたいのは、自慢の異界も儀式も台無しにされた男。


「ナンナノだ……キサマらイッタイナニモノだ!?」


 そんな二流以下の役者が言いそうな台詞を受けた三人の乱入者は、一拍間を置いて高らかに叫んだ。


「「「……悪の秘密結社(だぜ、や、だよ)!!!」」」

「フザケルナアッ!!」


 正義など存在していない。

 正しい者など誰も居ない。

 だが、悪を食らう大悪は今確かにこの場に居るのだ。 

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