あなたに帰りたい。

追鳥 あき

第1話 あなたに帰りたい。

結婚とはもう一人で生きていかなくて良い、という法で守られたこの世で一番強く、そして最も幸せな約束だと思っていた。

それが

「別れたい」

と、司の一言で一気に覆されることになるなんて、涼子は夢にも思わなかった。


今夜だっていつものように二人で夕食を食べ、二人が好きなバラエティ番組を観て笑い、同じベッドで眠り、二人でまた明日を迎える、そう思っていた。

司が部屋に来た時の過ごし方なんて当たり前過ぎて、改めて意識したことなんてなかった。


「別れたい」


自分には縁の無い言葉というのは心臓が一気に熱を帯び、全身の血を逆流させるものらしい。

「ちょっと顔かしな」

中学生の時、他校の生徒に呼び出しを受けた時の恐怖や焦りに似た感覚だった。


「今何て言ったの?」

涼子は何て言っていいか分からず、とりあえず口を開いた。

司はリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。そして、涼子を見つめる。

「結婚を取りやめたい」

「本気で言ってるの?式場まで決めてるのに?」

「あぁ」

司の表情は変わらない。戸惑いも、申し訳無ささえ、微塵も感じない。

この男は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。

「式場はどうするの?」

キャンセル代は、と涼子が言いかけて

「別れたいんだ」

と、司がさえぎった。

ようやく式場のキャンセル代どころの問題ではない、もっと大きくて深刻で

自分にとって取り返しの付かないことを司が言っているということを

涼子は頭のどこかで理解し始めた。

けれど、心が追いつかない。

「理由は?」


聞かなければ良かった。

涼子はこの後悔を何千回も繰り返すことになる。



「他に好きな人がいるんだ」


司が他の女性を好きなる。

今更そんなことが現実に起こるなんて、と涼子は「別れたい」以上にその言葉の持つ意味の理解に苦しんだ。

苦しむというより、思考が停止した。

「じゃあどうして結婚の話を進めてきたの」

「このまま涼子と幸せにやっていけると思っていたんだ」

「好きな人がいるのに?」

司が短く息を吐いた。

「分かってはもらえないかもしれないけど」

そう前置きをして

「涼子と結婚することを決めて、俺は自分の気持ちに気がついたんだ」


何を言ってるんだ、この男は。

涼子は自分の心が混乱から怒りに変わっていくのを感じた。

こんな自分勝手な言い分が通用するはずがない。

そもそも言っている意味が分からない。

「私と別れてその女と付き合うの?結婚するの?」

涼子は口調を強めた。司は再び溜息をついた。

「今は未だ分からない」

「だったら考え直して」

「何度も考え直したよ。それで分かったんだ。自分の気持ちに嘘をつきながら涼子と結婚することは出来ない」

ドラマや小説で見聞きする陳腐な台詞を、現実なまで聞くことになるとは思わなかった。

何て中身の無い、薄っぺらな言葉なのだろう。

「酷い。最低」

涼子は声を絞り出すように言った。

「あぁ、俺も酷いことをしてるって分かってる。こんな最低な男と結婚しちゃダメだ」

司の都合の良い方向への、まるで誘導尋問だ。

「卑怯」

「あぁ、卑怯だ。何を言われても仕方が無いと思ってる」

違う、そうじゃない。

涼子は心の中で司を再び考え直させるあらゆる言葉を考えた。

けれど、責める言葉しか出てこない。

酷い、最低、卑怯、死ねばいいのに。

「今夜はもう帰るよ」

突然司はソファから腰をあげた。

「・・・」

涼子は背を向けたまま黙っていた。

泣き叫んで玄関に向かう彼の脚にしがみつけばいいのだろうか。

それとも、司のしたことを周囲にぶちまけてやると罵声を浴びせれば良いのだろうか。

そうこうしているうちに、司は本当に部屋を出て行った。

玄関のドアがバタンとしまり、ガチャリと鍵が閉められる音がする。

本当に、本当に出て行ってしまったのだ。


そんなはずは無い。

司は何度も考え直したと言ったが、自分に打ち明けたのは今日が初めてだ。

涼子の戸惑い、傷ついた状態を見て、もう一度本当に考え直すはずだ。

結婚まで決まっている涼子と別れるはずがない。

それに、もう10年も一緒にいたのだから、二人がこんなにもあっけなく終わるはずがない。




涼子が司と出会ったのは18歳の時だった。

涼子は第一志望だった大学に落ち、浪人を決めた後は毎日予備校に通っていた。

司はそこでアルバイトの講師をしていた。

当時、彼は地元の国立大学の大学院生で、担当科目は数学だった。

教壇に立つ司を初めて見た時、それまで中高一貫の女子校に通い、勉強に明け暮れる毎日を過ごしていた涼子は、生まれて初めての「一目惚れ」というものを知り、「恋」を知った。


数学は最も得意とする科目だったにも関わらず、講義後、わざと個別質問をしにテキストを抱えて講師室に通った。

彼が他のコースを受け持っている日は(今思えばストーカーのように)教室の近くで待ち伏せをし、彼が出てくるのを見計らって偶然を装い声をかけたりした。

そして、一年間の浪人生活を経て、涼子は希望する大学に合格することが出来た。同時に司も大学院の卒業が決まり、大手メーカーの技術職として就職が決まっていた。

合格祝いに食事をごちそうになる。

そんな理由で涼子は司の連絡先を知ることに成功した。

けれど、大学入学後、数回のメールのやり取りはしたものの二人きりでの食事は一度も叶わず、司からの返信はある日を境に途絶えた。

そして四年が経った。

涼子は大学卒業後、広告代理店の総合職として働いた。


その間にいくつかの恋愛を経験した。

大学ではゼミの先輩、アルバイト先の同僚、社会人になってからは取引先の相手など、デートを重ね、ベッドに入り、いつの間にか関係は消滅していった。

それの繰り返し。

理由はいつも似たようなものだった。

恋焦がれ、会いたいと心から望み、彼がいるから頑張れる、そんな気持ちが全く生まれず、いつも涼子から別れを切り出していた。

その気持ちになれた唯一無二の存在を、ずっと忘れられずにいたからだった。


そして、ものすごい時代になったものだと感じたのがSNSの存在だった。

代表格であるFacebookが流行りだし、涼子はある日、何気無しに、だけど一度も忘れたことのなかった司のフルネームを検索した。

そして見つけたのだ。

パソコン上で観る司はあの頃よりも少し痩せてはいたが、26歳から32歳への加齢に伴う衰えは微塵も感じなかった。

プロフィール上で未婚であることが分かると、思わずガッツポーズをした。

そして、涼子は無我夢中でメッセージを送り、6年ぶりに再会を果たしたのだ。

最初の食事の後、もう次は無いかもしれないという不安を抱えながら、次の約束を取り付けることに成功した時は、やっぱり運命の人だったんだと少女のようなことを本気で思った。

そして数回のデートを重ね、涼子は18歳の時からずっと好きだったことを告白をした。

返事は「ありがとう」だった。


その後、涼子は司と「恋人同士」になった。

世界中で一番幸せだと心の底から思った。

18歳の時から好きだったのだから、そんな相手が自分を選んでくれたという事実だけで、もう死んでもいいとさえ思った。


けれど、付き合いが1年、2年、3年と続くにつれ、今までのようなただ二人でいる経過を楽しむ恋愛関係のではなく、その先を見据えた付き合い方をしたくなっていった。

やはりこれもFacebookがきっかけなのだが、地元の友人や大学の同期がどんどん結婚していく様子を知るにつれ、その想いは強くなっていった。

けれど、女性が一つの節目とし、結婚を最も意識する30歳を向かえても結婚という二文字が二人の間で語られることは無かった。

もしかしたら司は結婚したくないのかもしれない。

だけど涼子とは一緒に居たいと思っていてくれている。

決して高くは無いが毎月ちゃんとお給料がもらえる正社員として働く場があり

大好きな司という恋人がいて、たまに遊べる友達もいる。

そんな充実した毎日の中、涼子は結婚を意識していること自体贅沢なのではないかという気持ちになっていった。

けれど、周囲の結婚ラッシュが終焉を向かえ、妊娠・出産ラッシュに切り替わったタイミングで、涼子は自分の年齢を振り返った。

いつのまにか35歳になっていた。

いつか欲しいと思っている子供のことを考えるにはもう遅いかもしれない年齢だった。

涼子はそれを理由にある日、司に打ち明けた。

「司さんはその…結婚とか考えてないの」

返事は「じゃあしようか」だった。



世界中で今一番幸せだと人生で二回も思えるなんて、と涼子は舞い上がった。

結婚を約束している恋人がいる。

それだけで涼子は強くもなれたし、自信も持てたし、心に余裕も出来た。

毎年入社して来る若い女性社員たちに僻むことも無ければ、35歳にもなってまだ独身であることをとやかく影で言われていることも気にならなくなった。

Facebookの更新や閲覧頻度も増した。

有名な分厚い結婚情報誌を買い、セオリー通りに準備を進め、両家の挨拶を済ませ、半年以上かけて結婚式場も決めた。

初めてウェディングドレスを試着した時の感動は今でも忘れない。

何十枚も司に写真を撮ってもらった。

そしてそれをまたFacebookにあげた。

周囲からたくさんのイイネ!やコメントを何度も観ては頬が緩むのを抑えられなかった。


今思えば、司は結婚に関する内容をFacebookにあげたことは一度も無かった。

男ってそんなものだろう、とあの時は気にも止めていなかったが、今思えば既にその頃には司の心の中には別の女がいたのかもしれない。


そんなことがあるはずもないし、あってはならない。

挙式の後は妊活に励み、産休と育休をちゃんと取って会社に復帰する。

共働きをしながら子供は私立の幼稚園に入れて、水泳やピアノを習わせようとさえ思い描いていた。

それが、その予定が…というよりも涼子の夢が、涼子自身の人生そのものが

司のたった一言で狂ってしまうのだ。



あの夜から一度も司からは連絡が無い。

一日中、会社でも部屋でもスマホを何度も確認するが、司からはメールも着信も何もない。

このまま本当に別れることになるのではないかと考えれば考えるほど眠れなくなり、目の下にはクマが出来、肌が荒れていった。

休みの日は目が覚めても身体を起こす気にはなれず、スマホで無駄なネットサーフィンをしながら時間をつぶし、ベットで何時間も過ごした。

そしてFacebookで友達の充実した生活が不意に目に飛び込んでくると、途端に胸が苦しくなった。

テレビを観る気にもなれず、食事をする気にもなれず、ただ寝ていたい一心で冷蔵庫からビールを取り出し真っ昼間から缶を開けた。

そして酔いと倦怠感に身を任せてまたベットに戻る。

風呂に入る気にもなれなかった。

そして、ほんのすこしの眠りに落ちたかと思えば不可抗力で目が覚める。再びスマホをいじる。手首が疲れてくると、ベッドから起き上がり冷蔵庫を開けてまたビールを飲む。無くなってしまっても風呂に入っていない身体で近くのコンビニに出向くことも出来ず、実家から送られて来た日本酒を適当なコップに注いで一気に流し込む。その酔いに任せて何度司に電話しようとしたか知れない。

けれど、着信拒否にされていたらという恐怖がそれを踏み止まらせた。

そうして土日が終わり、月曜の朝、まるでゾンビのようにベッドから這い上がり、シャワーを浴びて出勤する。

それを繰り返しているうちに三週間が経った。


連絡が来ない、出来ない、そんな相手のことを想うことがこんなにも気力を奪い、体力を消耗させ、毎日の生活へのやる気を消失させるものだとは知らなかった。

仕事があって良かったとは思う。

そうでなければこの部屋の毎月の家賃を払ってはいけない。

けれど、もう化粧品も洋服も買う気にはなれない。

司に会えないならオシャレする必要も、キレイでいる必要も無い。

司がいるから自分を維持することが出来たのだ。

同じ年で自分よりも役職が上の同期が居ようと、仕事に見切りをつけて結婚し、幸せアピールをSNS上でされようと、食事に出かけるようなボーイフレンドが一人も居なかろうと、そんなことに心惑わされず、自分に自信を持って生きてこられたのは、全て司がいたからだ。

その司がいないのなら、自分はどう在ればいいのか。

急に喪失感が拡がり、涙があふれる。

地下鉄の窓に映る自分の顔は想像以上にやつれ、酷かった。

そういえばキャンセル代や家族への連絡はどうするつもりなんだろう…とある日の会社帰り、涼子はぼんやりと思った。

婚約破棄を申し出たのは司だ。おそらく全部司が責任を取るのだろうけど、まだ自分にも連絡する権利はある、と涼子は思った。

そして部屋に戻るとバックを投げ出し、自暴自棄にも近い気持ちでスマホで司の連絡先をプッシュした。


そしてあたりから音が消えた。



「おかけになった電話番号は現在使われておりません」



無機質な音声メッセージだけが何度か繰り返され、涼子の手からスマホが床に滑り落ちた。


このまま消えてしまいたい。


初めて知った。

本当に辛い時は辛いという感情を心が拒否をする。


初めて知った。

本当に悲しい時は涙なんて出ない。


今この現実から消えて失くなりたい。

ただそう思うのだということを。



平日は重たい身体をベッドから引きずり出し、何かの本で読んだことがあった、人間は太陽の光を浴びることが大事ということを初めて真に受け、毎朝無理やりカーテンを開ける。

その眩しさに目を細める日もあれば、曇り空や雨だと途端に心が塞ぎこんだ。

それでも何もかも無理やり行動せざるを得なかった。

無理やりシャワーを浴び、無理やり着替えて部屋を出る。無理やり地下鉄に乗り、無理やり会社に向かう。

そして全てが条件反射のように仕事をこなし、外出先では愛想を振りまき、残業をして帰る。

コンビニでビールと弁当と一緒に、やめたはずの煙草もついレジで頼んでしまった。

我慢できず、近くの喫煙所で火をつける。

ゆらゆらと白い線が暗闇に立ち上るのを眺めながら、ぽっかりと穴が空いた心を煙が埋めてくれるような気がした。

部屋に戻るとすぐに着替えて、洗面台で顔を洗い、雑に化粧水だけはたいてリビングに戻る。流れ作業のようにビールをあける。

カロリーも気にせずコンビニ弁当を食べる。

上の空でテレビを眺め、そして25時をまわった頃に横になる。

一週間ほどそれを繰り返したある日の夜中、急に涼子は前触れもなく涙が溢れ、過呼吸に襲われた。

呼吸が落ち着いて来るや否や、今度は体内の奥底から胃液がせり上がり、トイレに駆け込む。

泣きながら吐く。

今までに経験したことのない身体の反応に驚く。


そして気づくのだ。

こんな状態の涼子を助けてくれる司はもう居ないということを。

喪失感とはただの穴ではなく、痛みであり、苦しみだった。


何もかも終わってしまった。


今日、会社の昼休みに司のFacebookが削除されていたことを知った。ブロックされているよりはマシかと思ったりもしたが、やはりショックだった。

もう本人に直接連絡する術が絶たれたのだから。


結婚の約束までしていたのだから、司の両親にでも、自分の両親にでも今の状況を説明し、取り次いでもらえばいいのは分かっている。

けれど、そんなことをしたって司は戻って来ない。

ただ、家族を巻き込んで婚約破棄に伴う後続処理が進むだけだ。

トイレに頭を突っ込んで吐きながら思った。

自分がこんなに苦しんでいる最中にも、司は別の愛しい女といるのかもしれない。

急に憎しみが迫ってくる。

酷い、最低、卑怯、死ねばいいのに。

けれど、そんなことを思っても、今この背中をさすって欲しい相手は司なのだ。


口をすすぐこともせずによろよろと部屋に戻り、そのままベッドに倒れこむ。

涙とよだれでぐしゃぐしゃな顔のまま、天井を見上げてまた泣く。あまりにも惨めで、布団を頭からかぶって目をつむる。

けれど一度溢れ出した涙は止まらない。

そうして目覚ましのアラームが鳴り響く。

眠れないまま朝が来たのだ。


そして、ついにベッドから起き上がることさえ出来なくなってしまった。

目は開いているのに、あともう少しの力が出てこない。どうしてもどうしても起き上がることが出来ないのだ。

涼子は初めて「熱が出た。」と嘘をついて会社を休んだ。そして一日中、ベッドの中で泣いて過ごした。

あくる日も眠れず、起きれずで、「インフルエンザ」ということにした。

冬で良かった、とどこか冷静に思った。

そして発作のように訪れる喪失感に慟哭する。

泣くだけ泣くと、不意に気持ちが冷静になる瞬間が訪れる。

そして急に何かを食べたくなり、バシャバシャと乱暴に顔を洗い、適当なジャージに着替えてマスクをし、近くのコンビニに駆け込む。カゴにビールを何缶も放り投げ、普段は食べないようなスナック菓子やカップラーメンといったジャンクフードを片っ端から買いあさり、レジに向かう。

部屋に戻ってそれらを胃に詰め込む。

そんな自分が愚かに思えてならなかったが、何もしないという事が出来なかった。

食べ終わるのが怖くなり、食べるものがなくなると、室内であるにも関わらず、ひたすらタバコに火をつけた。

本当は永遠に眠っていたかった。


他に好きな女がいるという最低な理由で一方的に結婚の約束を破り、さらには連絡する手段さえも奪い、逃げるような卑怯な男と10年間も一緒に居た。

好きだった期間は18歳からだから、彼を想っていた時間はもっとだ。

その結果がこれだ。

結果?

もうおしまいであることを認め始めていることに身震いする。

まさか。

こんな仕打ちを、こんな現実を、受け入れられるはずがない。


やっぱり明日は何があっても会社に行こう。

そう心に誓って眠ろうとするのに、目をつむっていても司のことを考えてしまうから、結局スマホで興味の無いサイトを眺めたり、アプリをいじる。

その画面から放たれる光で脳が完全に覚醒する。


そして数時間後、朝を迎える。

やはり起きることが出来なかった。



こんなはずじゃなかった。

こんはずじゃ…を何度も繰り返す。


涼子にとって絶望しかない毎日が始まっていた。

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