カニ喰べにいこう!

垂季時尾

第1話 獲ってカニ


 第1章「獲ってカニ」


 1


「ねぇあんた、この旅の目的を言ってみて。もしくは逝って」


 渦潮宇美子は時々、返答に困る二択を迫る悪癖があると思う。もちろん逝くのは嫌なので、俺は簡潔に答える。


「卒業旅行に、豪華にパァーっと、新鮮な海の幸を喰いながら、温泉でも浸かって、ピンポンでもして、夜は満天の星空を眺めながら、お互いの将来について夢を語りあって、あわよくば、恋のモードに突入って場合もあるのでは?と期待に胸膨らませた、そんな高校時代最期の冬にときめくために旅に出たのではないでしょうか?」


 宇美子はどういうわけか、俺の説明が気に入らなかったようで、鳩尾にやたら重いワンパンを一発かましたので、俺はその場に、反吐をまき散らし、うずくまった。

 やっとのことで、立ち上がった俺は、なにか説明に不備があったでしょうか?と、若干ビクつきながら宇美子に訊いた。


「アホボケそしてカス!恋のモードに誰がなるって? 風のモードでボロ雑巾にしたろか?だいたいあんたを連れてきたのは、あんたが鉄道オタクのキモ野郎で、どんなローカル線の時刻表も丸暗記してるド変態野郎やから、ただの案内人として同行させてやっただけやろが!その変態能力が無かったら、あんたとは口もきかへんわ!もっぺっん言ったろ、アホボケカス!カスカスカスカスカス!」


 なんと毒舌極まりない下女だろうか?口に出すと今度は前歯をもれなく折られそうなので、心で叫ばせてもらうが、こっちもこんな女とは、どんなシチュエーションであっても恋には堕ちない自信がある。俺はただ、普段妄想の中だけで運行しているローカル線達に乗りたかっただけである。恋のモードもおまえじゃなく桜ちゃんとだ。アホ。

 宇美子の目的は、ただ喰うことのみである。たまたま年末に競馬で大穴が当たったおかげで(だいたい高校生がギャンブルはアウトだろか!)高校の卒業旅行を盛大に、私のおごりで連れてってやると、宇美子は教室で高笑いと共に宣言した。で、ついて来たのが、宇美子の幼馴染みの咲屋桜ちゃんと、桜ちゃんに三年間片思いを続けて終ぞ恋が成就することのなかった、元空手部主将の筋肉バカ、大雪山力(以後、リキと呼びますね)の二人だけだった。

 一年生のころから「乱暴、粗雑、ガサツ、狂気」の歩くリーサルウエポンで知られた悪魔女子、宇美子には大金をばら撒いてさえついてくるクラスメイトはいない。

 俺だってこんなはずはなかった。なかったのだ。


 まず宇美子は「蟹を喰いたい」と言った。ちょうどシーズンだった。良いカニ喰うなら、日本海やろ!大阪から特急で二時間くらいやな。この間「旅サラダ」でやっとったわ。ラッシャーが漁港で美味そうに喰ってた。鳥取やな、あそこの蟹はええで。美味いで。よし、鉄っちゃんがこのクラスにおったな。えーと、おい、おまえや、おまえ。名前は…。そう、天吾。笠松天吾。ちょっとこっち来ぃ。おまえに電車係を任せたる。うちの奢りや、ありがたく思え。


 俺の意思など皆無だった。「ぜんぶうちのおごりやからラッキーやろ。そうやろ。そうに決まっとるわ」そう言われても、奢られたくない人間から奢られても、まったくちっとも嬉しくはない。正直、うざい。そしてあとが怖い。

 宇美子は、俺の中で、残念女子ナンバー1だった。「宇美子のことホントは好きなんだろ?」と、あらぬ誤解をされると困るが、宇美子は決して容姿が悪いわけではなかった。見た目だけは、宇美子の数少ない友だちの桜ちゃんには劣るものの、脚はすらりと長く、瞳もややブラウンがかった大きな黒眼にしっかりとした二重。金髪に近いサラサラのブロンドロングヘアー。なんでも、オバァちゃんがどっかヨーロッパの方の産まれで、宇美子はクウォーターだった。そのせいもあって、鼻筋もスッと高く、ぱっと見はモデルにでもなれるんじゃあないかといった、いわゆる美少女の部類に入る逸材だった。

 実際に宇美子の本性を知らない後輩たちの中には隠れファンクラブを結成しているグループもいるとかいないとか…。

 とにかく、見た目だけは悪くなかった。

 でも、ギャップ萌えという言葉があるように、ギャップ萎えも存在するよね(遠い目で…)

 クラスメイトはみんな知っている。宇美子の正体を。誰にでも喧嘩をふっかける。道行く、道を極めた方にも平気で向かっていく。外国人の血のせいなのだろうか?やたらと交戦的。海の向こうの某国が、なんやらかんやらってネットニュースをスマホで読んだ瞬間、野球部の部室に金属バットをとりに走った事件はまだ皆の記憶に新しい。高校三年間で、同級生たちは彼女の不埒な悪行三昧を身に沁みて知っている。

 そんなだから、誰もついてこない。

 なぜか、幼馴染みの桜ちゃんだけが宇美子をまったく怖がらない。まぁ、こういうデンジャラスクイーンは味方につけておいた方がなにかと利点はあるのだろう。桜ちゃんにベタ惚れのリキも、相当に腕っ節は強いが、宇美子にはまったく敵わない。

 一度だけ、購買部の激レアメニュー、ビッグコロッケW焼きそばパンを取り合いになったことがあって、その時も、宇美子はリキの右ストレートを紙一重で交わして、顎に一発で完全瞬殺だった。

 そのリキを学園のアイドル桜ちゃんが介抱して、硬派だったリキは瞬殺で恋に堕ちた。



 で、そのメンツになぜか時刻表に詳しいってだけの理由で、これまで一度もつるんだことのない俺は、卒業旅行に同行するはめになった。断るという選択肢はその時存在していなかった。

 今まで妄想の中だけだった、麗しのローカル鉄道に乗れるって特典だけが、唯一の旅のモチベーションだった。

 ついさっきまでは…。


 先述の通り、宇美子はMAX機嫌が悪い。理由はひとつ。お目当ての蟹が、三日前からの大波で漁船が漁に出られず、予約していた旅館の御膳に出されたのが、ロシア産の冷凍蟹だったのだ。

 ガサツなわりに味覚だけは繊細な宇美子は、一口で蟹を冷凍だと見抜き。

「おいコルァ!水揚げされたばかりの新鮮なやつ喰えるっちゅう、高級旅館ちゃったんかい!詐欺かボケぇ!」

 と、親より年上の仲居さんにブチ切れて、そこは残りの三人でなんとか押さえ込んだのだが、一夜明けてもまだ漁は再開されず、蟹も漁港に届いてないとかで、わざわざ早朝から宇美子に叩きおこされてやってきた誰もいないこの日本海の港で、わけのわからない因縁を吹っかけられているという冒頭部分に戻るわけである。

 いますぐお家に帰りたい。そして咽び泣きたい。本当ならオンラインゲームの仲間達と今夜、荒れ地の魔王を倒しに冒険する予定だったのに。

クソクソクソクソクソクソーヴェデルチ!ボラボラボラボラボラでも喰っとけアホ!


「でもこの波じゃしょうがないよ。自然のものなんだしさ」

 一度聞いただけで、心がキュンキュンする癒しの声で、桜ちゃんが説得してくれた。そうだその通り!と俺も心で叫ぶ。だが、宇美子は簡単に引き下がる女ではない。

 しばらくなにか考えていたかと思うと突然。

「よっしゃー。なにも蟹は鳥取だけやない。ネットで調べたんやけど、京都府北部の京丹後に行けば、幻の間人(たいざ)蟹ってのがあるらしいやん。おい、電車男。そこまでどうやって行くか案内せぇ!今から出たら昼には着くやろ」と、俺を電車男という一番言われたくない呼び名で叫んで、足元のボストンバッグを軽々と肩にかけた。

「あ、あの、電車男はやめてもらえないかなぁ?今どきさぁ」

「電車男は電車男やろが!蟹のおらん港におっても時間の無駄じゃ!さっそく駅に向かう」

 と、言い終わる前に、宇美子はすでに歩き始めていた。

 俺と、桜ちゃんがいそいで後についていく。だいぶ経ってから、ひとり防波堤で日本海の荒波を見ながら、なにか漢な雰囲気で物思いにふけっていたリキが、みんながとっくに先に行ってしまったことに気づいて、体型に似あわない情けない表情で追っかけてきた。リキはどうも宇美子にやられてからというもの心の大事な部分も破壊されたようで、すっかりヘタレになってしまっている。惚れた女が側にいるせいで余計によわよわキャラだ。この調子だと、俺が恐れる対象は宇美子一人に絞れそうだ。だからと言って、旅の苦痛が和らぐわけではないが…。

 で、俺たちのうんと後方から、潮風にのって微かに「桜ちゅわゎゎーん」とリキの声が聴こえたとか聴こえないとか…。


 2


 俺たちは特急を乗り継いで、途中からはローカル線に乗り換えて、僅かな希望と大きな疲労を抱えながら、次の蟹スポットに辿り着いた。誤算といえば、宇美子が言っていた聞き慣れない地名があまりに田舎だったため、最寄りの駅がなかったのだ。地元の人間であれば、手前の駅で下車し、そこからバスに乗って目的地へという手段が取れたのだが、俺は鉄道には詳しいが、ローカルバスまでは詳しくない、つまり宇美子の言った間人という場所には着かず、社会の時間になんとなく聞いて知っていた天橋立という駅まで来て、そこで下車した。果てしない旅路だった。

 もちろん電車移動が苦痛なのではない。俺は物ごころつく前から電車好きだ。苦痛だったのは車中でずっと、宇美子の殺気が俺の心を進撃して進撃して進撃して、俺は生きた心地がしなかった。

「あんた、ぜんぜん着かないじゃない。どうなっとるんですか。あんたは電車だけが取り柄の電車男とちゃいましたんか?あん?おん?」

 無理無理無理。こんな旅は楽しくない。間人なんて「人間」を一繰り返した変な字の、変な読み方の駅など聞いたことがなかったのだ。そりゃそうだ。そんな名前の駅はなかったのだから。天橋立まで来て、その先は大阪行きの特急に乗り換えだと知って、あわてて俺たちは下車したのであった。

 天橋立は、日本三景の中でどうしても思い出せないあとひとつのヤツだった。「そうそう確か日本三景のひとつだ。テストで出たことがあったわ」と、みんなに言い聞かせるのと同時に自分自身にも言い聞かせ、駅に「カニカニツアー」のポスターが貼ってあるのを発見しほんの少し安心しつつ、俺は一番先頭をきって改札を出た。


 駅前は日本三景のひとつとは思えないほど閑散としていた。海がすぐ近いのか潮の香りが駅までする。


「ここでもカニ食べられそうだよ。こんだけ閑散としているのならきっと予約なしでもホテルか旅館見つかると思う」


 宇美子の視線が怖い。俺は今のところなにもやらかしちゃあいない。宇美子の機嫌を治すには早く日本海でとれたピッチピチの活き蟹を食べさせなくちゃならない。俺は宇美子のゴゴゴゴ言ってる体躯を背に、なるべく後ろを見ないようにしながら駅前の土産物屋に飛び込んで、このへんに観光案内所が無いかどうか店員さんに訊いた。普段ならこんな行動力はない。すべては宇美子の「ゴゴゴゴゴ」が俺の体を動かせていた。

 桜ちゃんとリキは、そんな俺の焦りなど知らぬ顔で楽しそうに土産のご当地キティちゃんのストラップを見ている。

 蟹を被ったキティちゃん。修学旅行で行った沖縄ではキティちゃんはシーサーを被っていたのでさほど不思議ではない。それよりリキがけっこう上手く桜ちゃんと良い雰囲気になっている情景に、些か吐き気を覚えた。デレデレ顔のあいつのいったいどこが硬派なんだか。

 そう思っている間に、店員さんが店の奥から観光マップを持ってきてくれた。店員さんの言うには、蟹シーズンは年末までがピークで、年を明けると観光客も減るのだという、正月も過ぎたど平日だから尚更人は少ない。俺たちはもう三学期はほとんど通学しなくてよかったので、こうして平日に悠々と旅行を楽しんでいる(俺は楽しんでなんかない!)


 店員さんに、マップに載っている旅館に電話してもらい、運良く今夜の宿は決まった。あとは蟹だ。宇美子の視線のレイザービームを感知した俺は「晩飯は蟹のコースありますか?お金はあるので最高級のコースで…」とお店の人に訊いてもらった。

 背後から宇美子の荒々しい鼻息が「ブフーブフー」と耳に届いた。


 3


 バリバリバリバリ…。

 ガツガツ。

 チュパチュパ…。

 ジュジュジュ、ぐちゃ、ブチュュ、ゴクン。

 

 バリバリバリバリ…。

 ガツガツ。

 チュパチュパ…。

 ジュジュジュ、ぐちゃ、ブチュュ、ゴクン。


 バリバリバリバリ…。

 ガツガツ。

 チュパチュパ…。

 ジュジュジュ、ぐちゃ、ブチュュ、ゴクン×3


 およそ、こ一時間。


「ねぇ、宇美子さん。美味い?美味いの?ていうか、それってさぁ…。ねぇ、宇美子さん?」


 俺は恐る恐る宇美子の背中をちょんと突いてみた。音速だった。否、そんな気がしただけだが、俺は宇美子の裏拳を受けて、一回転してそのまま砂浜に脳天から突き刺さった。

 まさか宇美子にここまでの力があったとは、完全に死んだと思った。そこが砂浜でなければ確実にあの世行きだっただろう。

 でも、しかし、友人ではないにしても、俺は宇美子の行動を一応止めた方が良いと、正常な判断をしたまでだ。

 宿泊予定のホテルの晩ごはんまでもうしばらく時間があった。俺たち一行はせっかく観光地に来たのだからと、観光マップに載っていた斜め一文字に伸びる日本一という笠松公園を歩いていた。季節はまだ冬。春は遠い日本海。正確には湾だけど、灰色の垂れこめた空と真っ黒な海原を見ているとここが日本海側だとすぐに分かる。和歌山の白浜の海とはやはり違う。修学旅行で行った沖縄の海とはさらに違った。平日で観光客もまばらだった。湾を横切るように長く続く天橋立の松並木はお世辞にも魅力的な長いハッピービーチとは言えなかった。そんな松並木に続く浜辺に出た俺たちは、砂浜で手足をバタバタと動かしていた瀕死状態の何かを発見した。


 それはたぶん蟹だった。そう信じたい。蟹ではないかもしれない。ハサミはあった。甲羅もあった。目玉もご存じの位置にあったと思う。


 ただ…。


 なんか、普通の人間チックな脚が二本別に生えてたような…。悪魔の女に捕食されている途中、どう考えても普通の蟹が発しない「グゲゲゲゲ」という怪人的な声を出していた。あれって断末魔じゃん。

 大きさも二メートル近くあった。タカアシガニっているやん?あれが一番大きい蟹でしょ?でもこんなとこに生息してないと思うんだ。いや、地元じゃないし詳しくは知らんけど。でもでもさぁ…、そもそも仮にあれが蟹だとして、浜に打ち上げられていたとして、それを生のままそのまま喰う?普通喰う?どんだけ空腹なんだよこいつは。モンハンだって焼いて喰うだろ。


 俺はよろよろと砂まみれの体をおこした。

 宇美子はその蟹のような物の残骸を足元に山積みにして、満足そうな顔で「ニカっ」と満面の笑みを浮かべた。

 笑顔だけならアイドル並だった。右手に持った五十センチをゆうに超える巨大ハサミを天空にあげている異様な姿とは裏腹に、ちょっとだけ宇美子ってカワイイかも、と感じてしまった俺は、きっと頭を強く打ったせいだろうと自分に言い聞かせた。


 なんで、友人の桜ちゃんもリキも宇美子の愚行を止めないのか?回りを見回すと、二人はまたも良い雰囲気で、浜辺の貝殻を拾い集めていた。


 みんな病んでる。俺だけだ。マトモなのは俺だけだ。


「もうヤダー!こんな旅行ヤダぁぁぁぁぁぁ―!」

 

俺は怖くなって、気づくと浜を走りだしていた。北風が頬に当たって肌が切れそうに痛い。砂浜なので脚がもつれそうになる。

どんなにガサツだって、どんなに空腹だって、落ちてる蟹(のような物)を生のまま貪り喰う女はぜったいに厭だ。

それをほっとく友人も厭だ。筋肉バカは元々厭だ。


俺は最終の特急に飛び乗って、先に大阪へ帰ろうと駅の方向へ走った。どうせあと一ヵ月も過ぎれば高校卒業だ。そうしたら、もうあいつらに会うこともないだろう。逃げ帰っても、宇美子の報復を避けるために学校を休んでも、出席日数はもう足りている。こんな思い出はたくさんだ。家に帰って信頼できるオンライン仲間と、卒業式まで楽しく過ごすんだ。やはり卒業旅行に来たのは失敗だった。寒いだけだし、宇美子は狂暴だしみんなはバカだし。


俺は前だけ向いて走った。足元に気づかなかった。なにかが脚に絡みついて、俺はもんどりうって顔から砂浜にズザーと転がり倒れ込んだ。


え?なに?


一瞬なにが起こったのか解らなかった。なにかに躓いたというより、脚になにかが巻き付いたようだ。ワカメかなにか、もしくは定置網の残骸でも巻き付いたのだと思った。自分の脚を見ると、なにも巻きついてない…。

いや、はっきり見えないだけだ。少しだけ脚を動かすと確かになにかが巻きついていた。角度を変えたら、七色に光る薄い布のようなものが、ヒラヒラと風に舞った。


ケープ?


それに似ていた。ウエディングで新婦が頭に巻くやつだ。実際に結婚式に行ったことはないけど、あれで見た、再放送でやってた北斗の拳でレイが持っていたやつだ。妹の結婚式のために用意したケープ。

レイのやつは悪党のせいで血に染まって赤く靡いていた。今、俺の脚に巻きついている物は虹色にピカピカと光っている。キレイだった。布なのかもはっきりしない。布よりもうんと薄い。よく見ないと限りなく透明に近い。


なんだろうこれは?


俺は、どこが一番端なのかも分からないそれを、何度か掴みそこねながら、なんとか脚から取ることに成功した。

柔らかい。手の中で、ほとんど感触がない。だが、確かに手の中にあって、端が空中で風に舞って光り続けている。けっこう長い。三メートルはあるかもしれない。


俺がその布のような物に見惚れていると、すぐ背後から女性の声がした。

俺ははっとして振り返った。しかしそこに誰の姿もない。


「ここだよ。上、上。上にいますよー」



 信じられない事に、声は俺の頭上から聴こえる。そんなはずはないと思いつつ、ゆっくりと空に顔を上げた。



「オ・め・デ・と・ヲ」


 空に浮いていた。


「君が選ばれたんだね。まぁガンバッテくださいネ」


 女性だった。


「あー、そりゃビックリしますよね。突然。説明は追々しますから、どうか逃げ出さないでね。結構切迫した話だからネ」


 女性は半分胸が見えるほど緩めに羽織った着物姿だった。帯の両端がダランと垂れさがって、女性がユラユラ揺れるたびに俺の顔のすぐ近くを振り子のように行ったり来たりする。


「とりあえず、自己紹介だけしときマス。私は天女のクサビビメといいマス。で、君がその天女の羽衣を受け取った選ばれた守人」


「…」


 俺はポカンと宙を見つめたまま動けなかった。


 病んでいたのは俺も一緒だった。


 だってこれが現実なわけはない。悪い夢だ。白昼夢だ。


 だけど、残念ながらその出逢いは夢じゃなかった。サイアクで怒濤の三日間がその瞬間に始まった。


 蟹の良い匂いが微かに漂ってきた。

「オメデトヲ。ガンバッテネ」


そういや、この地には天女の羽衣伝説があるって、ついさっき見た駅のパンフレットにも書いてあったような…。

 運命の歯車が急に狂いだしたような気持ちで、頭がクラクラした。

 

もう一回その女性が「頑張れ」って言ったような気がしたけど、俺の耳にはもう届いていなかった。

 


 4


「すげぇ。やべぇ。このデッキの感じ!まだ新車両の匂いするやん。俺ともあろう者がこんなアメージングな新車両を知らなんだとは!うほっ。どやさどやさ。ほらほら窓から海見えてるやん!荒波の日本海が眼前に迫って来るやん。うほっうほっうほっ」


 と、俺一人ゴリラになってはしゃいでいる。一応気を使ってくれているのか、天女も嬉しそうに頭上をくるくると舞っている。あっ、もちろん天女料金なんてものはなく、彼女はスルっと窓から乗車した。

 俺たちが今乗っているのは、ここのローカル線が廃線を回避するために社運をかけてロールアウトしたという「赤松」「青松」という新車両の「青松」の方だ。渋い藍色の車体に、ソファー席やカウンター席などさまざまな座席を配した特別な車両だった。車内は木を多用してあり、電車とは思えない高級感のある良い香りがする。なによりまだ出来て間もない新車両なのでどこもピカピカにキレイだ。最高だ。錆びた古いローカル線も味があって好きだけど、新車両で行く田舎の海岸線の景色などめっちゃグレートやん。泣けるやん。なんか素敵やん。


 と、若干しゃくれ気味に興奮している俺を刺すような殺気が襲う。しかしもう慣れた。いや慣れるわけはないけれど、せめて車窓くらい楽しまなくちゃもったいないやんかー。そうでっしゃろ?宇美子はん。


「気色悪い関西弁使うなボケ!これやから鉄オタは嫌いや。おまえ今の状況よう解っとんのか!腐れ電車男が!」


 だから電車男はやめてくれませんか?鉄オタは認めますけれど。


 と、一時の愉しみもこの女は許してはくれないらしい。天女の力なのか、なぜか貸し切り状態で俺たち一行だけが乗車している車両内にゴスッ!と鈍い音が響き、もちろんその音の発信元は俺であって、俺は床に膝から崩れ落ちた。


「あ…あの…どうか暴力はやめてくれませんかぁ…。ぐふっ!はっ血が?」


「現実逃避するやつに鉄拳制裁は当たり前や!そやろ?おまえも分かってるやろ!だいたいなんや?さっきからニヤケずらで新車両の説明ばかり言いくさって、おまえも運行しとんの知らんかったくせに。あれか?よう二時間サスペンスの旅情殺人事件物でありがちな地元のタイアップシーンか?あん?おん?温い顔しとったらもう一発いったろかいコラァ!」


 いや決して地元タイアップ的なアレではないのだが、残念ながら確かに宇美子の言い分のほうが正論だった。俺は現実逃避したかったのだ。でもしょうがないだろ。ずっと俺の頭上をヒラヒラと旋回しているちょいエロい恰好のお姉さんが、出会ったばかりの俺たちに「この日本国を守ってね」などと、ものすごいでかい話を「お茶でもしましょ」的な軽い口調で強要してきたのだから。そしてどうやらその話は嘘ではなく、また断ることも出来ないようなのだから。


 俺は前述のとおり天橋立の浜で天女の羽衣を迂闊にも拾ってしまった。だけど問題はそっちじゃなかった。結局のところ原因は萎え嬢の筆頭である宇美子にあったのだ。


 アレである。あの蟹。いや違うな。蟹のような者…。

もうはっきり言おう。宇美子が生のまま貪り喰ってたアレは完全に蟹なんかではなかった。蟹っぽい要素もあったが、天女のクサビビメが言うにはあいつは蟹なんかではなく、この日本を侵略しに宇宙からやって来たスペースインベーダーだったのだ!(自分で言ってて恥ずかしいが事実なのだからしかたない)


あー帰りたい。やっぱり家に帰りたい。ほんま、俺たちにどないせぇちゅうねん。


時間は昨日に戻る。

 


 渚にまつわるエトセ…じゃなくて、あのあと起こった出来事を簡潔に説明しますと…。


 宇美子は「た○るダケ」の主人公よろしく蟹を無言で貪り喰い続けていた。あっ、何度も言うがカニ的なアレであって決して蟹じゃないから。


 バリバリ。クチャクチャ。ズリン。ごくん。バリバリ…。

バリバリ。クチャクチャ。ズリン。ごくん。バリバリ…。

バリバリ。クチャクチャ。ズリン。ごくん。バリバリ…。


「あっ?おみゃーなにしとるだー!がっしゃぁワヤしとんなるわやー!がっしゃーわやだーやー!」


 と、判読不能な言語でクサビビメさんが、その時はまだ蟹のような物とだけ認識していたそいつをすでに平らげようとしていた宇美子に向かって叫んだ。


 ヒラヒラと宙を舞い、宇美子の元へ飛んで行った。


「あーあ。わややわー。がりゃあ、わやだーやー」


 んーと、「がりゃあ」とか「わやだーやー」っていうのはこっちの方の方言らしく、一応京都府内とはいえ、海の近くの漁師言葉っていうか、普通の京都弁とは違う方言があるらしい。

 あとでクサビビメさんに意味を訊いてみたら「がりゃあ」っていうのはグンマーで言うところの「わっけなし」みたいな意味で、ついつい感情的になるとこっちの訛りがでちゃうのよネと、なぜに群馬弁で説明してくれたのかわからないが、まぁ所謂「超なんとか」みたいな意味だと思う。「わや」っていうのは大阪でも使うからなんとなく分かった。ようするに「めっちゃひどい」と叫んだのである。


 その声にやっと我に返って宇美子が立ちあがった。


「あんた誰なん?」


 こいつのこういうところは少し尊敬してしまう。着物姿の美女が浜辺でヒラヒラと空を旋回していても宇美子はまったく驚く様子はなかった。むしろちょっとキレ気味だったし。


「ワタシはクサビビメとイイマス。天津大神様からここら一帯を任されている天女デス」


 クサビビメも宇美子の反応には特に興味を示さない。普通に自己紹介した。


「で、天女さんがなんか用なん?私らはこれからホテル帰って晩ごはん食べるんやけど」


 なんだと?あんだけでかい物喰っておいてこれから晩飯も喰うのかよ!と俺は心で突っ込んだ。


 クサビビメさんが続ける。


「あなたが今捕食したの、それってどう見ても蟹ではないデスヨネ?」

「は?どう見ても蟹でしょうが。プリっプリの活き蟹でしょうが!」

「そんな反ギレで『子どもがまだ喰ってる途中でしょうが!』的に言われてもねぇ…。まぁ百歩譲ってそれが蟹としても普通浜に打ち上げられた二メートル近い大きさの生のままの蟹をそのまま貪り喰いマスカ?見た感じ普通の女の子でしょ?アナタ」


 その通りだ。クサビビメさんの存在も非現実的ではあるが、この人の言っていることはしごく真っ当だ。俺は断然クサビビメさんを支持したいと思った。


「えー。ねぇ、どう思う?桜ちゃん。リキ」

 宇美子が言った。


 すっかり忘れていた桜ちゃんとリキは、いつの間にか俺たちのすぐ近くにいた。


「美味しかったならいいんじゃない?ねぇリキくん?」

 と桜ちゃん。っておいおいマジか。正気か。

 リキは完全に桜ちゃんの傀儡であるのでもちろん言ってる意味もたいして考えずに、尻尾を振りまくる柴犬のごとく「へっへっ」と首を縦に振る。二人ともマジか?


「あーあ、困りましたネー。客人ってほどでもなかったんデスが、これで全面戦争決定ですネ。だって喰っちゃったんだモン」


 クサビビメさんは眉間にシワを寄せ、浮いたまま腕組みをして、なにか考えている様子だった。


「ちょっと話が見えてこないんですが…。その蟹みたいな物を食べたことによって問題があったんですか?」

 現状がさっぱり解らないので、俺は恐る恐る訊いた。


「うーん。まぁもともとなにかあった時のために防人を探してたのは探してたんだけど、まさかこんなに早くサイアクになるとは思ってなかったワ。ウカツだったワ」

「最悪というと?」

「そこですでに殻だけになってるやつ、アレ、インベーダーだったのデスヨ」

「い、インベーダー?はっ?いやいや、インベーダーって宇宙人的なアレのことですか?」

 頭の中がぐっちゃぐちゃになって、整理が追いつかない。正直、恐怖心すら湧かなかった。人間あまりにも突飛な出来事に遭遇すると脳のブレーカーが落ちるようにできているらしい。俺はくらくらする思考を必死に立て直そうとした。

「ホントはネ。戦争はなるべく回避ってワタシの上司命令で、あっ上司って一応神様ね。その上司の命令でさ。インベーダーさんに、こんな僻地の海を侵略してもたいしてメリットないですヨ。もっと、アメリカとか大きな国に行った方がいいですヨって説得してて、で、せっかくはるばる宇宙の彼方からいらしたことデスし、観光がてらちょっとだけ視察して、それでも侵略するってのなら、こちらとしても戦いマスヨ。って話だったんデス」

「それを…。宇美子がきれいに喰っちゃったと…」

 俺は山積みになった真っ赤な残骸を見ながらいったいどんな感情になるのがこういう場合正解なんだろう?と文字通り途方にくれた。原因を作った張本人である宇美子も横でクサビビメの話を聞いてはいたが、表情ひとつ崩さずにこう言い放った。


「どうせ侵略者には違いないんやろ?だったらやったろうじゃないのさ!って言うかあの蟹もっといるわけ?だったら残さず喰うのが道理ってもんでしょが!あんな美味いもんもっと喰いたいわ」


 流石に俺も宇美子の思考がここにきてまったく読めなくなった。これはもはやガサツってレベルではない。完全に狂っている。狂人だ。バーサーカーだ。


「え?やっぱり美味しかった?ワタシもずっとそう思ってたんだ。だってどう見てもカニだモンネー。ワタシもホントは食べたかったんだ」

 クサビビメさんがヒラヒラと腕と腰を妖艶にくねらせながら笑顔で言った。


 前言撤回。前言撤回。やはりこのエロ天女も頭おかしかった。


「さぁ、そうと決まれば戦争の準備ネ。そこのボクには天女の羽衣があるからとりあえずはそれで大丈夫ネ。でも他の三人にはそれなりの武器が必要ネ。これからこの丹後国に散らばった神器を取りに行きまショウ。旅の案内はワタシにまかせてネ」


 初期のファミコンのRPGゲーム並に展開が早いよ!っていう俺の叫びなどスル―され、ちょっとアレな天女と、かなりアレな高校生一行はこうして戦いの渦に巻き込まれていくのだった。


って、ちょっと待って、宇美子が間違ってインベーダーを喰っちゃったのは謝りますけども、なんで俺たちただの人間が戦わなくちゃいけないんですか?さっきチラっとだけ言ってた上司の神様が戦えばいい話じゃないんですか?だいたい俺たちは地元の人間でもないただ偶然ここに寄っただけの観光客ですよ。と、唯一真っ当な俺はクサビビメさんに詰め寄ったのだったが、クサビビメさんの言うには、羽衣を拾った人はもうすでに防人としての能力と資格を得ていて、これは目的を果たすまでは呪いのように憑いてまわるんデスよって。

冗談じゃない!神様そんな適当な人選でいいんですか?と、灰色の虚空に向かって俺は叫んだが返答はなかった。代わりにクサビビメさんが俺の耳元で「今、上司から言霊が飛んできたんデスが、バッチリそれでOKデスって。あなたのお仲間も強そうデスし、一緒にガンバリマショウ」と、艶やかな声で呟いた。

艶やかではあったが声の奥底に冷酷さを感じ、俺は全身に悪寒がはしり、コートの下はさぶイボびっしりになった。


この天女マジだ。反抗すると殺られる。そう弱者の本能で直感した。


宇美子はと言うと


「まぁそれはそうとして、腹が減ったらなんとやらって言うし、もう日も暮れそうだからとりあえず今日はここまでにして、ホテルで飯喰って風呂入って屁こいて寝よか」だって。


 こんなの俺の想像してた卒業旅行とちゃうわ。いや、誰がこんな展開想像できんねん!


 相変わらず桜ちゃんは屈託のない笑顔で、リキは「はぁはぁ」してて、トンデモパーティーは、その日はそのままホテルに向かった。クサビビメさんもなぜか一緒にホテルで一泊した。


 天女は温泉卓球が死ぬほど上手かった。これは事実である。あの宇美子が100戦して一度も勝てなかったのだから。ほらもう、クサビビメさんが戦えばいいやんかー。と、俺は思ったが、宇美子はよっぽど悔しかったのか「絶対におまえを越えて見せる!」と、変なやる気スイッチが入ってしまった。


「その意気込みで明日から戦ってクダサイネ」とまるで他人事のように天女は笑うのだった。

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