あるはれたひに

藤村 綾

第1話  あるはれたひに.1

【ブッブッ】

電車の中から、流れる景色は、初夏を思わせ、

鉄橋を渡りながら、水面に反射する太陽の日差しは、否応なくあたしの目を直撃する。

目を細めながら、かばんの中から震えるスマホを取り出す。土曜日の昼間。誰だろうか。おもいつつ、画面に目を落とす。

あっ! あたしは、小さな声を上げた。まさかの人の名前が映し出されていたから。

《は、はい》

そうっと電話に出る。隣に座っている人に迷惑にならないように。そうっと。

 あ! でも、アナウンスで『携帯電話はご遠慮ください』と、つい今しがたゆっていたところだ。

 けれど、窓際だったので、窓の外に身体を向けつつ、声をひそめ、電話に出た。

《どこ?今?》

 いつも突然電話をしてくる彼。

《ん、あの、》

 まで、いいかけた、けれど、先に彼のほうが、言葉を発した。

《電車の中だろ?聞こえる。アナウンスが》 

 ちょうど、各駅停車駅で停まるアナウンスが流れていたのだ。アナウンスの声を拾った彼は、どこ行くの?ついでに、付け足し、訊いてきた。

《あ、今日ね、飲み会で、三重県のあっちゃんのところに行くの》

 本当に小さい声。隣の人が温和そうなおばあちゃんだったことに、肩を撫で下ろす。

《ふーん、帰ってくるの? 今日、俺、実家に泊まるからさ、》

《え! じゃあ、会えるの?》

 あ、声大きくなっちゃった。ちらりと目の端で隣を見やる。おばあちゃんは、目をとじていた。ほっ。

《ああ、夕方からかな。でも、そっちが、ダメじゃん》

 うーん。あたしは、唸った。彼とは、いつあえるか、わからない。わからないから、あいたい。また、が、あることの保証もない。あたしは、考えあぐね、選択をしたことを彼に告げた。

《今から、引き返す》

 正直、既に、三重県に突入していた。あと少しで、津についてしまう。けれど、あっちゃんには、悪いけれど、今は彼にあえることのほうが、先決だった。

《は? いいよ、帰ってくる時間に連絡して。何時でもいいから》

《やだ、戻る。だってぇ……》

 ここまで、ゆってさらに声を潜めた。

《あいたいもん》

 やや間があった。

《ん、わかったから。行っといで、で、連絡して》

《だって、連絡できないじゃん! 》

 苛立ちをこらえきれず、あたしは、怒声まじりな声音を吐いた。

 彼はあたしの電話を拒否し、あげく、電話帳から抹消してしまっている。

《だったらメールしてよ》

メールなら大丈夫なのだ。拒否はされてはいないし、直ぐに消せばいい。

 抑揚のない声が電話越しに伝わる。すでに、あたしに涙腺が緩んできて怪しくなってきた。涙声を悟られたくない。

《う、うん、わかった》

 あたしは、後ろ髪を引かれながら、切るボタンを押した。赤いほう。

 最後に彼がなにか、ゆっていた気がする。けれど、もう、遅い。あたしからは、電話はできないのだ。

 待っているだけ。普段は、もし、彼から電話がかかってきても、もう、電話にも出ないし、無視をする。などと、鬼の心で、計画しているのだけれど、声を訊いてしまうと、その意思は一蹴されて彼の言葉をうん、うん、と、憂いな顔で訊いてしまう。彼の存在のせいで、あたしは、ちっとも前に進めない。彼が好きだから、他に目を移すだなんて、不可能な話しなのだから。

 涙が自然に溢れてくる。なぜ、この日、この時間に電話をしてくるの? あたしは、タイミングの悪さに、焦燥した。

 電車の中がいつの間にか、ぎゅうぎゅう詰めになっている。あたしは、うつむきながら、誰からも来ない、メールの画面に目を落としていた。

 本当に引き返そうか。そうも思う。飲み会はまたでもいい。

 あっちゃんにメールを打っていた。

 【ブッブッ】

 また、スマホが震えた。マナーモード。え! 彼だった。

《あ、やっぱり、明日、実家に行くから、2時くらいに、駅でどう?あやちゃん泊まって来るんんだろ?》

 思わぬ電話に息を飲む。あ、うん、あたしは、曖昧な返事をしつつも、嬉しくて、叫びそうになった。

《うん、うん、明日ね、2時ごろ、駅に行くから》

《わかった。じゃあ、明日》

《うん! 》

 あたしと、彼は同時くらいに電話を切った。え! 天国から地獄ってまさにこのこと。あたしは、薄ら笑いを浮かべ、明日のことで胸がいっぱいになっていた。

 彼の一語一句であたしは、こうも変わってしまう。そんなあたし自身が嫌いだけれど、そんな気持ちにさせる彼のことは嫌いにはなれない。前に進めないのはわかっている。故意的にしている。あたしが、身を引けばいい話だし、そもそもが、あたしたちは、すでに終わっている。惰性であっているのか、情なのかが、わかりかねるけれど。

 三重県につき、あっちゃんと合流し、居酒屋に行った。

 杯を交わしながら、肩を並べ、ビールを胃に流し込む。空きっ腹にビールは胃を脅かした。

あっちゃんには、あたしが、不倫をしていることは、話してある。あっちゃんは、あたしが、コラムを寄稿している雑誌の担当デザイナーなのだ。

「な、あやちゃんな、フリンはあかんて、な、泣くやろ? あやちゃんも、相手の奥さんも、な、泣くくらいなら、やめるべきなんやよ、いつまでたっても、前に進めへんよ」

 あっちゃんの毒舌は酒のペースに比例し、徐々に巻き舌になりながら、あたしをやたらと論してきた。

 「あっちゃん……」

 あっちゃんもその実、何十年も、編集長と付き合っていて、いわゆるところの愛人。不倫をしているのだ。それも、上司。あたしもよく知っている。

 あたしは、机に突っ伏して、顔を真っ赤にしているあっちゃんの頬に手を当てる。あっちゃんもさぞ、辛いだろうに。けれど、6年前にその話しを訊いてから、彼女の口からは、その話題には触れてはいない。

「あっちゃんこそ、良い恋をしないと。前田敦子と同じ名前なんだし」

 あっちゃんは、『前田貴子(あつこ)』という。

 あたしとあっちゃんは、結局、そのままカラオケに行き、夜を明かし、あげく、朝方5時にラーメンを食べた。

 少し仮眠をとったあと、駅まで送ってくれたあっちゃんに手をふり、電車のホームをくぐった。互いに赤い目をこすりながら。

このままうまく乗り換えがスムーズに行けば、彼の待つ駅に13時半には着く。そうしたら、駅のトイレで、顔を洗い、お化粧をしようと決めていた。

12時。ちょうどゆらゆらと電車にゆられ、たゆたう身体で、寝落ちしているとき、彼から電話がきた。

《まだ?》

《え?》

約束の時間より2時間も早いよね? 疑問符がふつふつ湧いたけれど、彼の言葉を待った。

《や、早く仕事終わったから、どこ?》

《まだ、岐阜や》

ブッブッ、彼がかるく苦笑する。何弁それ?

呟きながら。

《あと、1時間半か。わかった。待ってるわ》

普通な口調で、普通なことを、普通に電話口に発した。

《うん。待ってて》

あたしもまた、普通な口調で、普通な台詞を告げる。

あたしがしていることは、人としてどうなの? と、後ろ指を指されることだ。

日曜日の昼下がり。おてんとうさまの下。

日曜日になど、あえるはずのない彼にあう。胸が張り裂けんばかりに、いっぱいな反面、以前にもまして、罪悪感に苛まれるあたしがいる。

たくさんの人を騙してこっそりとあう、あたしたちは、身体以外求めるものはない。肉体以外求めるものがないのだ。

そうっと目をとじる。

彼がやっぱり好きだ。どうしたって、瞼の裏にうつるのは彼以外ない。

彼にはこの重たい気持ちを悟られてはならない。

彼はきっぱりとゆったのだから。

《家族が大事なんだ》と。

不倫をして、一番傷つくのは、奥さんではない。家庭を大事にし、結局は家庭に戻る男に惚れた、女。すなわち、あたしの立ち位置の女なのだ。散々好きにさせておいて、やばくなると、ゴミ見たくポイポイと捨てる。相手の気持ちなど微塵たりとも考えずに。別れが正解だった。お前をこれ以上傷つけたくない。

開いた口がふさがらない。どの口がいう?

好きになってしまった方の負け。

不倫は忍耐が強くなければしてはならない、遊びなのだ。そう。遊び。ごっこ。

そうやって割り切れたら楽なのに。

あたしは、椅子にもたれかかり、小さな寝息を立てていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る