『蒸気の形』
志木冬
短編。あるいは序章。
つぶの手に刺さる、ほとんど白に近いような、光に照らされた土や茎や葉に手をついて、肩からからだを持ち上げた。ふくらんだピストルの音。誰かがうめき声を上げて、また倒れた? 風に手を受けて、からだじゅう伸ばして、猫のようになりながら僕は銃を持った。撃鉄が嫌に目に新しく、颯爽と現れるから、引き金を人差し指でぐっとやりたくなって、そうした。
もう声は辺り一面から消失して、意味がない。それからまた、撃ち鉄を見ると、これまでの人の話とか、なにをしてきたかが一遍に見えた。轍のようだった。人と自分の、景色の見え方とか、匂いの感じ方の違いが僕に襲い掛かってきて、悲鳴を上げた。ばらばらになった。撃った感触が再び手に現れる――――逃げ惑う人々。公園から飛び出す子供。牛。僕が銃を撃つと、それは白い泡を吹いて、煙になって、でもそれはほんの少しだけのものだった。銃声がここら一帯を伝導して、耳を破るかのように感じるだろう。弾丸そのものを叩くかのように、全身を打ちつけて弾けた。薬莢が飛び出してから初めてわかったのも、もう手遅れだとわかった。薬のこすれた匂いがする。それを嗅いで、眠くなった。
ここまでいくと、もうほとんど気絶したように眠った。自分の眠る感触が嫌に伝わってきたので、まったく休まらず、それどころかひどく疲弊した。生きている限りは疲れから逃れられないことは、眠っているあいだじゅうは人は死んでいるのを示す手がかり…………。黒い眠り、生きているように感覚のある気絶が、まだ自分と世界とをつなげていると言うなら、どうやって自分と世界とを切り離して、つまり、どのようにして死を、この世との根絶を自らにもたらすか………………。死そのものが、うさんくさい物語のように感じられた。
理論はすべて空中で組み立てられた機械だ。あとは、打ち捨てられ、痛むしかない。それから逃れる術は、地上に立てることだが、そんなことの出来るものは、存在しない。もしそれが出来るならば、まさに完璧に作られたクリームシチューのように、摂氏100℃を超えた氷のように、不確かで甘く、具合の悪くなる素晴らしい病だと言える。偶然に、超越してしまっても、誰も喜んだりはしない。泣くこともない。完全に、完成しているのだから。
「先生。」
声が聞こえる。声が聞こえる?
声がする……音がして、僕は目覚める?首を掴まれて落とし込まれる海の中みたいな幻想があった。ひどく熱い、溶け込んだ空気をばさばさ外においやってやっと安心できた。
だけども、さっきまで僕は、眠りながら起きていたはずであったのに…………。それに気がつくと、もうまた不安が押し寄せて、普通でいられなくなって、そこらじゅうをめちゃくちゃに叩いた。なにかを叫んだ。
「母さん、どうして僕の銃を捨てたのさ! あれは、大事で、あいつらを黙らせる手段だったのに!」
舌が廻らない。
「ステーキが食べたい。」
赤いワインをグラスに注いで、一気に飲み干した。ワインは熱されていて、随分熱く、喉を通り過ぎていく液体は、ついに通りまで抜けて、隣町まで踏破した。産んで……育つ。産婦病院で…………ゲルニカ?
「先生、緊急搬送は食事の後に。」
僕は跳ね起きた。中身がすべて、鼓動していた。しわくちゃにしながら強く握りすぎて、血が滲んだ白いシーツ。
「先生、おはようございます。」
「ああ、おはよう」
「ひどい目覚めでしたね。天井まで突き抜けるようでしたから…………。」
「僕が?」
「ええ……お気づきになりませんでしたか?」
「むろん……いや。コォヒ。入ってるかな。」
僕は体を床に預けるようにして、足をついて、立てなかった。床が目の、数センチ……3か4センチのところで手をついて、からだを仕切りカーテンとか人にぶつけてめちゃくちゃにしながら立て直した。ふらふらして、スリッパをかかとで踏んづけて、どうしようもなくなって水のたっぷり入った花瓶を殴りつけて、左側の腰を強く打った。花瓶は倒れず、強く打った僕の右手のほうが痛かった。
「先生……なにもそこまででたらめになさらなくても……。ひどいですわ。」
「あ、ああ。」「花瓶が割れなかったか……いや、でたらめではないよ……からだが言うことを聞かなくてね。」「ええとね。」
身に着けた白衣を払いながら、次は素直に、なんということもなく立った。媚びることもなかった。
「それから先生、先生のような学者が僕なんていう自称のされ方はなされないほうが……。」
「そんなに言うなら、なんて言えばいい。子供の頃はみんな僕、僕って言うんだから。ちっとも変なことじゃない。大人になって、市井に出た途端に、私だなんて言うやつは、至極、まったく全然信用ならない。そういうやり口は、卑怯で、どうせ小賢しい。」
言い終わると、互いに沈黙した。彼女は木製のドアを叩くようにして部屋を出て行った。誰かが始めた、この世のものではない法則、すなわち幻想から成り立つものを愛したいとは、到底思えなかった。それをしても、従わなくても、どうせ同じところなのだから……人間の巨大な思い違いに他ならない。
自分の言ったことに疑いを掛けながら僕は部屋の中心の円を塗り潰すように歩いた。真実を見きわめるためかあるいは…………彼女のことを考えていたから、気が散ったのであろうか。悲劇の元種になりそうなものである。物書きからすれば、基礎ともいえるものだったかもしれないが、とにかく自分の言ったことに疑いを掛けてしまっていた。これは逃れることのできない事実であり、また精神的であるが故に誰をも蝕む。必至の病だ。
しばらくして、ドアから三度、
「こつ、こつ、こつ、」
と音が鳴った。指し示す意味がいまいちわからずにいると、さっきの彼女がドアのこちらへ入ってきた。
「先生、いらっしゃるならお返事ください。心配しました。」
「え……そうだったかな。」
「寝ぼけてらっしゃるのね。先程から……。コォヒ、お持ちしました」
そう言う彼女から熱くなっている、持ち手のついたカップを利き手で受け取って、こぼれないように気をつけながら、ほんのわずかだけ、静かに、音を立てず黒い熱いやつを飲みながら、さっきのことが気になった…………戸を叩かれたときのことだ。三度だった……三度叩かれたことに意味が…………あったのか。そもそも、
「こつ、こつ、こつ、」
と叩かれたならば、返事をするべきなのか……。
「ねえ、君。」
すると彼女は目を急に見開いて、不意に顔が少し赤くなって、それは怒ったようでもあったし、りんごみたいに可愛らしくもあった。それから、
「君、だなんてお止しになってください、先生。いやらしい。いつもは苗字で、お呼びになってくださるのに。」
それからも彼女はしきりに、「ああ、いやらしいわ。」などと言ってこちらを見たり、「コォヒー、冷めますよ。」と変に醒めた目つきになってを繰り返した。いったい、何を感じたのであろうか。君と呼ばれたことで、必要以上に貶められたかと感じたか、僕が彼女を、取るに足らない存在のように扱ったと思ったか……。そして、これは特別にありえないとも言えることでもあるが、まさか彼女が自分に情念を感じたかという忌まわしい妄想ともいえるようなことも考えたが、なにせそれは水面に映った自分の、汚らわしさを思い出させたので、コォヒーを舌に受けて、どうでもいい、ことだと思うようにした。本当に色めいたことを僕に感じたのならば、実は表情を隠すに違いなく、そのようにするのが人間というものだとも考えられたことも、落ち着くのに手伝った。
それから、呼べばいつでも参上する旨のことを言って、また頬を赤らめて部屋を出ようとしたが、彼女が部屋からあちらへ入る寸前に、
「さっき、戸を叩いたろ。」と言うと、
「え、戸。確かにノックいたしましたけれど…………。」
と言って片手で顔を隠しながら、ほとんど無意味そうにあちらこちらを見たりしながら、臆病な感じになった。
「なにも、脅かそうてんじゃないよ。そうか、ノック、ノックだ。さっき、マグを持ってきたとき、君はノックしたけれど……」
彼女は喉を鳴らして唾を飲んで、怪訝な表情、しわがよせて、こわがっている。なにか重大な失言をしてしまったのか…………、
「そっ、それが。ええ……いかが……。」咳払いを混ぜた。
「僕が眠っていたとき……、僕が目覚めて、コォヒを頼む前だ。飛び跳ねる前に……君はもう、僕の隣にいたね。それはつまり……ああ、違うんだ。つまり君はその、僕が眠っているとわかりながら部屋に入るとき、ノックをしたかい。」
彼女に話すとき、いつも僕はうつ病みたいな真似をしていたと思う。皮を引き千切って、飲み込み、目がどこも見てないようで考えがない。いや、そうとも言えない。うつ病でないから、よくわからない。
「はい、はい。確かに、三度してから入室いたしました。」
僕も彼女も、早言葉の言い合いみたいになって、もはや喧嘩の三文芝居のようになって、へたばっている。互いになにがしかに怯えて、壊されるのを待ち構えているようだ。
「それは……。」
私はある妄想に囚われて、もはや逃げられずにいた。それは彼女という人間を知るためにも必要なものだったし、ノックを理解するためでもあった。
「わかった。出なさい。」
そのときの彼女の表情。蟻の群れを踏んづけてしまって、足にわらわらと群がられ、爪の間、皮膚の下……そういったところから自分自身を食い尽くされてしまうような恐怖。彼女は廊下へ吐き出されるように飛んだ。
僕は身辺を調べた。僕のベッドは窓の右側で、窓を挟んで机があった。窓は、部屋のひとつしかない扉に向かい合うようにつくられていた。
机の引き出しをいくつか引くと、銃があった。
窓が空いていたので……弾倉を確認して、僕は引き金を引いた。春の終わりくらいの景色が見えた。
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