ネット探偵の事件簿 -金魚鉢入りアイスティー-
カキヒト・シラズ
第1話 ドッペルゲンガー殺人事件
「ドッペルゲンガーって知ってる?」森沢君が言った。
越谷の喫茶『珈琲塾』は、ぼくたち三人以外、客はいなかった。
日当たりのいいログハウスだった。ぼくたちは奥のテーブルを占拠した。
森沢君はぼくの大学の友人でフリーのウェブデザイナーだ。
「何それ?」涼子さんが言った。「アニキって、世間常識ないくせに、役に立たない雑学だけは博識なんだから」
森沢君の妹、涼子さんに会ったのは三回目だった。
涼子さんは春日部の実家に暮らしていて、専門学校を出た後、二年ほど地元の不動産関係の会社で働いていた。今は会社を辞め、ニート兼フリーター兼コミケ同人誌漫画家の三足のわらじを履いているという。
コミケでの同人誌の売り上げは好調なようで、最近、バイト代より稼げるようになったらしいが、それでも本業はニートとのことだった。
涼子さんの描く漫画はボーイズラブもののミステリーだ。これはぼくの趣味ではない。
森沢君と涼子さんは誰が見ても兄妹だとすぐわかる。顔が似ているだけではない。二人とも小太りで黒縁の眼鏡をかけ、髪はボブカット、ファッションはアニメ柄のTシャツ以外、地味な色でまとめるのを好む。
森沢君が典型的なオタクなら、涼子さんは典型的な腐女子だった。
涼子さんも森沢君同様、『珈琲塾』では必ずアイスティーをオーダーするようだ。
アイスティーはこの店の名物で、コップではなく、金魚鉢に注いで出てくる。一説によれば、この店のアイスティーが評判よかったので、越谷の喫茶店は軒並みアイスティーを特大サイズにするようになったとのことだが、真偽はわからない。
「ドッペルゲンガーってのは自分そっくりの分身、または生霊のことだよ」森沢君が言った。「丹羽静子が自殺したニュースは知ってると思うけど、あれは自殺じゃなくて、丹羽静子のドッペルゲンガーが彼女を殺したらしいんだ。ネットでは、そんな噂が広がってる」
「嘘でしょう」涼子さんが言った。「ネットの情報って、ガセネタも多いわよ」
「その話、ネットで見たことある」ぼくが言った。「ドッペルゲンガーはともかく、謎の多い事件だったよなあ」
”密室の女王”と謳われた人気女流ミステリー作家、丹羽静子の突然の死は、マスコミを騒然とさせた。
今から三ヶ月くらい前、静子の遺体は自宅のマンションで発見された。
果物ナイフで頸動脈が切られていた。彼女は一人暮らしでマンションは内側から鍵がかかっていた。
警察は自殺と断定したが、仮にこの事件が他殺だとすると密室殺人事件ということになる。
ブログやSNSでは、”密室の女王”が密室で殺されたという興味本位の書込みで”炎上”した。
静子はミステリー以外にもホラーやSF、ファンタジーなど様々なジャンルの小説を書き、その大半がベストセラーになった。
だが一番人気があったのが、やはり密室もののミステリーだった。奇想天外なトリックは、どんなミステリーマニアもうならせた。
森沢君はタブレットPCをテーブルに置き、長々と語り始める。PCはWiFiでネットにつながっていた。
「このブログ読んだんだけど、あれは自殺ではないようだ」
丹羽静子の死体は救急隊員が発見したのは知ってるかな。
実は死体が発見される十分前、静子は自分で電話して救急車を呼んでるんだ。ボイスレコーダーにそのときの声が残ってるんだが、「刃物で刺されたの。助けて」といった言葉を繰り返してるようなんだ。”誰に”刺されたかは言ってないが、明らかに他人に刺されたという口調だったという。
つまり、普通に考えてこれは自殺じゃないだろう。
救急隊がドアを破ってマンションに入ると、血だらけの静子が応接室のソファーに倒れていた。すでに死んでたんだ。
鑑識の調べで静子は頸動脈から出血多量で死んだことがわかった。側に落ちていた血まみれの果物ナイフには静子の指紋しか検出されなかった。首の傷口からこのナイフが凶器であることも確認されたんだ。
ソファーのテーブルの上には「遺書」とだけ書かれたメモ用紙の紙が一枚置いてあった。応接室の電話の側にメモ用紙とボールペンがあったので、おそらくメモ用紙を一枚破って「遺書」と書いてテーブルに置いたのだろう。
殴り書きだったが筆跡鑑定では、この「遺書」という文字は静子が書いた可能性が高いと診断された。
でも変だと思わないか。遺書はタイトルで、普通、その後に本文が続くはずじゃないか。これこれこういう事情で自分は自殺を決意した、という具合に。
警察はこの「遺書」という紙切れから、この事件を静子の自殺と断定したみたいなんだが、検屍の結果、自殺ではありえない、もう一つの物理的な証拠が見つかったんだ。
背中にナイフで刺された傷跡があったんだ。しかも頸動脈を切った果物ナイフとは違うジャックナイフのようなもので刺された跡だったんだ。静子のマンション中探したが、そのようなジャックナイフは出てこなかった。
ところがマンションは完全な密室だった。入口は外鍵と内鍵がかけてあった。サッシ窓はすべて閉まっていて、通常の鍵の他、補助錠まで閉まっていたんだ。そこで警察は他殺の可能性を考えなかった。
その当時、静子は馴染みの編集者に、自分はいつもドッペルゲンガーに命を狙われているという話をしていたらしい。発見された彼女の日記にもそのようなことが書いてある。
街を歩いていると、ふと通りの向かい側に自分そっくりの女がこちらを睨んで佇んでいる。ところが目が合うと女は走り去ってしまう。
テレビを見ていると、一瞬、自分そっくりの女が映ったと思ったらすぐ消える。
こんな経験を繰り返していたらしい。
静子は心療内科にも通っていたようだ。医者はドッペルゲンガーの存在を否定し、すべて静子の幻覚だと説明したが、静子は納得しなかった。
小説は売れていたし、金も社会的地位も申し分ないはずの彼女も、精神的な悩みを抱えていたらしい。
静子には、ぼくらのような二十代の息子が一人いるんだ。昔、離婚した夫との間にできた子供だ。
彼は今、アパートで一人暮らしだが、大学を卒業しても就職せず、バイトもせず、一日中、ゲームやパチンコばかりやってるようなんだ。
そして時々、母親に金を無心に来る。同年代のまじめに働いてる友人より、多くもらえるんで、ますます働くのが馬鹿らしくなる。だから働かない。
静子にとり、息子のことが悩みの種だったみたいだ。
ともかく静子がドッペルゲンガーを見るようになったのは、そうした精神的疲労が遠因だったことは否めない。だが死ぬ直前の静子は、四六時中、ドッペルゲンガーに悩まされていた。
ドッペルゲンガーが実在していて、静子を密室で殺害し、煙のように消えた。こういう可能性もありうるのではないか。ぼくが読んだブログにはそう書いてあったんだ。
「アニキ、バカバカしいわ」涼子さんが言った。「ドッペルゲンガーのわけないじゃない。犯人は静子の息子よ」
「どうしてそんなことがわかる」と森沢君。
「あの日、息子はジャックナイフを持って、静子のマンションに行ったの。ジャックナイフって普通に持ち歩くもんじゃないから、計画的に母親を殺そうと思ってたんだわ」
「母親を殺す?どうして、そんなことするんだい。生活費もらってるんだから、そんなことをしたら自分が損するじゃないか」
「考えてもみてよ。大学出て、いい年して母親に養ってもらってるのよ。彼だってプライドがあるわ。静子からお金をもらうとき、何か気に障ることを言われてたんじゃないの。いい加減、自立しなさいとかなんとか。それで彼は母親の背中を刺して、ジャックナイフを持ったままマンションを去った。でも致命傷というほどの傷は負わせなかったわ。それはもしかしたら、すんでのところで息子が思いとどまったのかもしれない。母親が刺されて苦しむ姿を見て、急に殺意より良心や愛情の方が強くなったのかもしれない」
「推測に過ぎないなあ」
「ともかく息子が去った後、静子は消防署に電話して救急車を呼んだ。受話器を置くまで、静子は生き延びるつもりだったんだわ。ところが受話器を置いた後、気が変った。このまま自分が生き延びたら、愛する息子は殺人未遂で逮捕されてしまう。いや、救急車が間に合わなくて自分が死んだら、息子は殺人罪になってしまう。そこで思いついたのが密室だったの。
静子は力を振り絞って、ドアまで歩き、内鍵と外鍵を閉めたわ。こうすれば密室になる。密室なら他殺だと思われない。
応接室まで戻ると静子はダメ押しとばかり、メモに走り書きで「遺書」と書いた。こうすれば自殺で死んだ証拠がさらに増える。息子が逮捕される確率はさらに減る。
本当は「遺書」の後に文章を書くつもりだったんでしょうけど、背中を刺された状態よ。いくらプロ作家でも文章を書ける状態じゃなかったのよ。「遺書」の二文字を書くのが精一杯。
だがそれでも静子は不安だった。このままでは、やはり息子が逮捕されてしまうかもしれない。自分で自分の背中にナイフを刺すなんて、ちょっと無理でしょう。自殺じゃないことがばれちゃう。そこで最後の手段として果物ナイフで首を切ったんだわ。つまり静子は本当に自殺したの」
「ちょっと待て。果物ナイフはどこにあったんだ。普通、台所だろう」
「息子が来たときに応接室でりんごでも剥いてあげたんじゃないかしら。だから応接室のテーブルに果物ナイフがあったの」
「かなり無理がある推理だなあ。それに息子の罪を隠すためだけに、自殺なんかするかよ」
「静子は精神的に追い込まれてたわ。ドッペルゲンガーの幻覚を見るぐらいよ。心療内科にも通っていたし。だから普段、自殺願望があったんじゃないかしら。いつも死のう、死のうと思っていたところ、たまたま、息子が自分を殺しかけたことで、自殺を決意した・・・・。こんな感じじゃないかしら」
森沢君は無言のまま、アイスティーをすすった。
しばらくするとウエイトレスがニューヨークチーズケーキを運んで来た。ぼくは涼子さんの前に置くようにウエイトレスに指示した。
「あたし、頼んでないわ」
「ぼくが頼んだんです」ぼくが言った。「涼子さん、チーズケーキ好きでしょう。ぼくが驕りますよ。これは涼子さんが事件を名推理で解決したことへのご褒美です」
「あなたって、憎いわねえ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます