夏と病院
水乃 素直
第1話
1.
読めない本とはなんだろうか。僕は不思議な日本語だと思う。
「本が読めない」であるならば、それは読む人にとって読めない本である。しかし「読めない本」となることで、不思議さが増すのだ。本になにかを超越した神秘的な何かが宿っていて、読めないのかもしれない……という妄想が膨らんでしまうのだ。
もともと僕がただ妄想という行為が好きなだけかもしれない。言い始めてしまえば、「本が読めない」でも誰、なにが、といった主語が省かれていたり、何故、どうして、の部分が省かれていたりするため、妄想はし放題だ。
まぁ、そんな長い前置きはさておいて。「読めない本」とはなんだろうか?
人にはその人の、読めない本が存在するのだ。誰しも食べられない食べ物があるように。
それは僕にとっては三島由紀夫の『金閣寺』だった。あれはどうしてもあきらめてしまう。あの世界観や主人公の思想の闇が、ふとした瞬間に僕の闇にも触れてしまいそうで、どうも読めなかった。夢野久作の『ドグラ・マグラ』も読むのを断念したが、それはただ飽きてしまっただけだ。これは僕に責任があるわけで、作品に非はないのである。読んだら一度気が狂う、と言われてしまうと再読をためらってしまうが。
そして、彼にとっては夏目漱石の『こころ』だった。
彼とは僕の高校時代の教員であった。勿論、現代文の先生だ。授業中に彼が語ったのである。僕が使っている教科書には『こころ』が載っており、授業で取り扱ったのだ。「まぁ授業だから読みますけど、これだけは全部を読めなかったですね」とダンディな声でそのおじさんは語っていた気がする。もう頭の中にある古い記憶だ。違っているのかもしれないけれど。
その人にはその人の読めない本が存在する。それは誰しも嫌いな人間が存在するように。
そしてそれは、彼女にとって『僕の小説』であったように。
2.
「ねぇ」
白で統一された病室の一室。低めの
彼女は読めない本を片手に持って、病室のベットの中で上半身を起こしていた。患者の服装をして、小さな顔に似つかわしくない大きな黒ぶちの
「なに?」
僕は隣にある緑色の丸椅子に腰かけたまま、読んで本から目を離して、彼女の顔を見た。
彼女は僕の手元の本に目が行ったのか、
「なによんでんの」
彼女は冷たい口調で聞いた。彼女は不機嫌ではなく、普段からこの口調が出ることを僕は知っていた。初対面の人には心証があまり良くないのだけれど。
僕は彼女を見た。彼女は僕の持っている灰色のハードカバーの本をじっと見ていた。
彼女は、理由づけのように付け加えた。
「ハードカバーじゃん、珍しい」
「ん? 本屋に行ったら、なんか買っちゃっただけだよ、珍しいかもしれないけれどさ、こういうときもあるよ」
僕は思いついた言葉を、思いついた順で話す癖がある。話が分かりにくいのだ。いつも対人関係を滞らせる
こんな僕の話を聞いてくれるのは彼女だけだった。いつも。
「で、何の本なの?」
彼女は聞いてきた。タイトルを言ってもどうせ知らないだろうけれど。
「うーんとね、これは『夫婦愛』っていう小説で」
「夫婦愛? どんな話なの?」
えてして。小説の説明はいつも高難易度クエストだ。どんな話かを説明しようとするとネタバラシになってしまうし、僕は順序良く話ができないし。どこが好きなのか、またどこがいい表現だったのかを説明しても伝わっている感じもしないものだ。それでも本の魅力を説明しなくてはいけない。なんて難しいものか。それに僕が口べだだからだし、そしてそもそもどこが好きなのかは、僕だってちゃんと言えないのだ。
でも、いつも説明してしまうのはなぜだろう?
「これは、タイトルとは裏腹に結構暗い話でさ」
「暗いの?」
彼女は自分の足元を見ながら返事をした。会話の最中、時折視線が窓に向かっていて、彼女の気が散っているのが一目でわかった。
まぁ、彼女もどうせ本気で読むつもりもないであろう。でも、なんとなく話は聞いておきたい、といった感じだった。もし、ほかの友達との会話の中でこの『夫婦愛』が再度話題に上がったら、彼女も興味を持つだろうか。
僕は話をつづけた。
「うん。妻と夫、内縁なんだけどね、このふたりがいて、住んでいるんだけど。女のほうが狂っててさ、子供が徹底的に嫌いなんだよ、憎んでるってぐらいに。ちなみにゆずは子供、好き?」
話の流れで思いついたことを彼女、柚子という名前の少女に、僕、
病室の色は白で統一されていた。ふと、窓の外に目を向けると、そこの枠だけ、夕暮れのオレンジが染まっていた。だけど、なぜか遠くの出来事に感じてしまうようだった。病室の白は他の色を寄せ付けないのだ。弱い色であれば、それを取り込んでしまうような世界観で出来ている。
彼女は何も気にせず、すこしうつむいて考え、ぼやいた。
「うーん……。こどもかぁ。嫌いじゃないとは思ってるけど、どうだろ」
「ふーん、子供とか結構バカにしてそうなのに」
「馬鹿にはしてないよ」
「でも、高校生とか嫌いでしょ、前そういってたじゃん」
「そんなこと言ってたっけ……」
彼女は、眉をひそめた。視線が上に向いていた。
病院の無臭さがする。病院の無臭というのは、「匂いを意識しない」のではなく、「何の匂いもしてこない、ということを感じさせる」性質を持っていると思う。それは時折、僕に死を連想させる。そう思うのは僕だけだろうか。
彼女は、大きな眼鏡を机に慎重に置いて、少し考えてから言った。
「まぁ、確かに高校生、大学生ぐらいの年の子は嫌いだけどさ」
「やっぱり」
僕が指摘すると、彼女は少したじろいだように見えた。
でも、彼女はすぐに反論をした。
「でも、子供はかわいいと思うよ」
彼女は下を向いた。自分自身の手を見ていた。僕も彼女の手を見ていた。きれいな手だと思った。
「僕もかわいいと、思うよ」
「まーくんに聞いてないよ」
そういって彼女は少し笑った。つられて僕も少し笑った。
彼女は話をつづけた。
「でも、なかなかえぐそうな話だね」
「うん、読んでてびっくりしたよ」
「ふうん。今、どのくらい読んでるの?」
「分量的に半分くらい。だけど、話の内容的にはまだ序盤かも、いや、わかんないけれど」
「分かんないのかよ」
「いや、だって全部読んでないし」
「そうか」
そういって彼女はやや苦笑い気味に会話を終わらせた。もしかしたら、優しく笑っただけかもしれないけれど、それは僕にはわからなかった。
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