カルネアデスの天秤

叶 遼太郎

カルネアデスの天秤

カルネアデスの天秤 1

 なぜこうなった。

 人間ある程度生きてたらそう思うことは多々あると思う。

 けど、今の俺以上にこのセリフが似合う奴なんてそうはいないと思う。

 現状をお伝えしよう。

 今俺がいる場所は密室だ。広さは、大体八畳ぐらいだ。コンクリ床の中央に椅子が二つあって、その内の一つに座らされている。

 この座らされている、ってのがポイントだ。つまり、自分の意志で座ったわけではない。この部屋に来たのだって、自分の意志は一ミリも介在してない。

 その証拠に、俺は椅子の手すりと両手を手錠で繋がれて、両足をロープで縛られて身動きが取れなくなっている。

 ゆらゆらと頭上の裸電球が揺れている。下に映る影もゆらゆらとゆれている。俯いてそれをじっと見つめていると気が滅入ってきた。精神に変調をきたし始めているのが自覚できる。後一時間こんな調子なら、多分、俺は発狂する。

 ぎゅっと手を握られた。

 鉄と木の冷たさしか感じなかったところに、熱が伝わる。冬場の水仕事でカサカサの手に塗り込まれたハンドクリームのように、崩壊寸前のひび割れ心を癒してくれる。

 握り返すと、相手の手も震えていることに気付いた。そうだよな。俺以上に不安なはずだ。発狂している場合じゃない。もう一つの椅子には、彼女が、ゼノビアが座っているのだから。彼女を守らなければならない。


●----------


 彼女と出会ったのは、今から一年前。そこそこ優秀なシステムエンジニアになりつつあった俺だが、プライベートは優秀とは言えなかった。まあ、職業が職業だ。エンジニアなんて不規則なのが当たり前みたいなところもある。無茶な受注の癖に納期は厳守とか、二十四時間三百六十五日不具合でたら即対応とか。こんな仕事でプライベートが削れないわけがない。

 こうして、身も心も時間も仕事によって大根おろしみたいにジャリジャリ削られ、いつもの如く朝の満員電車で帰る道すがら、彼女に逢った。

 この辺では珍しい赤い髪を持つ女性だった。染めたような感じはしないから、地毛だ。普段の俺なら、すぐさま視線を外して、車内広告に目をやるのだが、疲れ切っていた頭と体は、これ以上動きたくないらしい。そのまま体も視線も固定された。じっと見つめているのも失礼かなとは思うので、瞼だけは閉じようかな、でも今閉じたら多分落ちるな、などと考えていたら、苦しそうに身じろぎして、こっちを向いた彼女と目が合った。


 一発で目が覚めた。


 見た目の印象を一言で表すなら儚げな文学少女。

 うるうると潤ませた黒目がちの瞳や全体的に小さく整った鼻や口が、震えるチワワのようで保護欲をそそられる。体も全体的に細くて小柄だ。今も両サイドから中年の背中と学生の鞄に押しつぶされて苦しそうにもがいている。ああ、そんなにもがくと・・・言わんこっちゃない。三つ編みの髪の先が、斜め後ろにいた女性の肩から掛けているバッグに絡まった。本当に泣いちゃうんじゃないか、ってくらい彼女は途方に暮れていた。あまりに不憫に思ったので、余計な真似かとは思ったが声をかけた。


「ちょっとすみません」


 手を伸ばし、彼女の後ろにいるご婦人の肩を叩いた。振り返ったご婦人は、朝のクソしんどい時に何用だこの不審者、みたいな目で俺を睨んだ。睨まれても困る。


「あの、あなたのバッグのアクセサリーんとこに、彼女の髪が引っ掛かったみたいで」


 俺の指差す方向にご婦人が気づいた。一転、ご婦人は礼儀正しく彼女に一言詫び、すぐに髪を外してあげた。外れた頃合いで電車が丁度駅に辿り着き、女性を含めた大多数の会社員たちは下車していった。車両には彼女と俺と、他数名が残っている。


「ええと、大丈夫でした?」


 ぽかんとしている彼女を見て気付く。もしかして、言葉が通じてないんじゃないか。そらそうだ。見るからに外人さんなんだもの。そこは想定外だったな。


「あ、もしかして、通じてなかったり、する? ええと、こういう時は、英語か。あ、あーゆー、おーけい?」


 こんな会話形式なんて学生以来だ。どうしてもぎこちなくなる。顔を真っ赤にしながら意思疎通を試みたところ


「ダ、ダイジョブ。ニホンゴワカリマス」


 ダイジョブらしい。


「そうか、良かった」


 とは言ったが。以降は何を話していいかわからない。こんな時どうしたらいいんだろう。彼女の方はぼうっと俺の顔を見ている。気まずい。こんな時プレイボーイなら適当に二、三会話してお茶でも誘うんだろうけど、ここ数年男所帯の現場で缶詰だった俺に女性とトークで花咲かせる自信はない。


「ア、アリガトゴザマス」


 ペコッと彼女が頭を下げた。話しかけられたのだと気づいて、伏せていた顔を上げると、ハニカミながらもじもじしている彼女がいた。


「ゼノビア、トイイマス。オヌシ、ナニヤツ?」


 時代劇で日本語を覚えた口だろうか。


「俺は後藤」


 ゴトーサン、とゼノビアは俺を指差した。


「ゴトーサン、オンジン。ワタシ、ゴトーサン、レイ、シタイ」


 彼女は俺と自分を名前を呼ぶたびに交互に指を差した。俺に礼がしたい、と言っているのだろうか。ありがたいが、正直体力が限界に近付いている。後可愛らしい女性にカッコつけたいと欲が出てきた。彼女の前では、カッコいい男でいようと決意し、言った。


「ペイフォワードだよ」

「Pay Forward?」


 ・・・発音良いな。でもたぶん意味は通じてると思う。


「俺は今日、ゼノビアを助けた。礼をしてくれるっていう申し出は嬉しい。だから、この恩を、次の誰かに渡してくれ。誰かが困ってたら、その時はゼノビアが助けてやってくれ」


 オーケー? と尋ねると、彼女は小刻みに首を縦に振った。

 そして俺は、丁度電車のドアが開いたので「じゃあね」と彼女に手を振ってホームに出た。全くもって家の最寄り駅でもないのに、ただカッコつける為だけに。そして、次の電車が来るまで待とうとベンチに座って、そのまま落ちた。カッコつけすぎたかな、やっぱりがっついとけば良かったかな、と少し後悔しながら。

 でも、神様は見ていてくれるもんだね。良いことをすれば良いことが返ってくる。うちのばあさんもよく言っていたが、本当にその通りだ。

 ゼノビアと再会したのだ。ドラマかよ、と思う様な出会い方で。

 数時間後に目覚めた俺は最寄り駅の本屋で、平積みしてあった本に鞄をぶつけて崩してしまった。慌てて積み直そうとしていたら、近くにいた人が助けてくれた。その人と手が触れあって「すいません」と本からその人に顔を向けたら


「あ」

「ア」


 彼女だった。何故ここに、と尋ねる前に、彼女が「Pay Forward」と言ってニッコリ笑った。


 そこからまさかの展開だ。どこかでお茶でも、とかいうツチノコ級のレアイベントが発生し、互いの身の内を話し、彼女もこの近くに住んでいるということが分かった。電話番号を交換し、たまに会って相談に乗ってほしいという彼女に二つ返事でОKした。そのたまに会う、が三か月後には頻繁に逢う、に進化して、六か月後には交際を申し込んで、九か月後には常に逢う、にクラスチェンジした。

 ここまでは本当に、順調すぎるほど順調だった。仕事もはかどる、彼女と逢って楽しい、正に順風満帆だ。出来過ぎだと浮かれてた。


 それがいけなかったんでしょうか神様。自分、調子に乗ってましたか。


 古典的表現をするならば二人の愛の巣に、突如黒服で強面のお兄さん方が押し入ってきた。何が何だかわからない俺たちは、怯える暇すらなく首筋にビリッとスタンガンを押し当てられて気絶した。

 気付いたら密室に放り込まれ、身動きを封じられ、今に至ると言う訳だ。

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