こころのベル

仙石勇人

第1話

 窓を開けると、日曜日の朝の空気が白を基調とした室内にふわりと広がった。駅前の商店街を少し抜けた、小さなクリーム色の外壁をした建物の2階。ここは医療機関だが、専門的な医療器具は特に置かれおらず、特有の薬品臭もない。代わりに、小難しそうな学術書が書棚に整列するようにその背表紙を見せていた。無機質な雰囲気はなく、むしろほのかな生活感が漂う。

 その精神科医は軽く伸びをして深呼吸し、肺を新鮮な外気で満たした。彼は医者ではあるが白衣は着用していない。白衣が白いのは汚れにすぐさま気づくためだが、そういった意味ではこの仕事では衣服に汚れが付着する理由がなかった。

 彼の診療所は、月曜から土曜までが診療日で、日曜日には休診日だ。しかし、彼は今日も職場にいた。受付のおばさんも、患者もいないこの部屋は、自らの足音すらもよく通る。壁にかかった時計の長針が弧を描き、短針が「10」の数字を指すと、電話のベルが鳴り始めた。右手にペンを握り、左手で受話器を取る。

「はい、やまの診療所、こころのベルです」

「あの、よろしいでしょうか」

「何でもおっしゃってください」

「実は…」

 彼が休日の電話相談を開設したのはつい三か月前のこと。熱意ある彼は、さらにこの町の人々の役に立ちたいと、休日の電話相談を開設した。なにより、精神科医という仕事は、形ない傷を形ない診療で治さなければならない。また、患者の今後のことも考えると、出来れば薬には頼りたくなかった。この仕事の腕を磨くには、とにかく人に当たらなければならない。この仕事で一生やっていく自らの成長のためである。

 経験が欲しかった。どれだけ専門書を読み漁ろうが、一人ひとりの患者にしっかりと対応していくことができなければ、立派な精神科医にはなれない。より多くの患者の話を聞き、そのがんじがらめの心を少しずつ解いていく。具体性を排しているが、これこそが他ならない精神科医としての技能だと感じていた。

「…話を聞いていただいてありがとうございました」

「お時間あればまた診療所にもいらしてください」

「先生にはいつも助けられています。とても親身で、的確なアドバイスを下さって」

「滅相もない。それが私の仕事ですから」

「それに引き換えあそこは…薬を勧めるばかりで…」

「…?」

「いえ何でもありません。だめですね切り際に愚痴っぽくなっちゃ。さわやかな気分で終わりましょう。さようなら」

 受話器を置いて、一呼吸つくとすぐに次の電話が鳴った。

「はい、やまの診療所、こころのベルです。どうなさいましたか?」

「ああ、あの、えっと、その…仕事のことなのですが」初めて聞く声だった。

「言いづらいことなのでしょうね。いいのです。こちらのダイヤル、診療所にはそうした言い辛い悩みを抱えられた方がたくさんいらっしゃいます。何に苦悩しているか、それは皆さん異なります。しかし、吐き出すのにためらうような悩みを一つや二つは持っている、そういった意味では皆さん同じですよ」

「…よろしいでしょうか」

「なんでも、どうぞ」

「仕事柄、初めてお会いする方と、マンツーマンの対面でお話することが多いのです。しかしそれがなかなかうまくいかなくて、苦痛で…。自分はこの仕事に向いていないのではないかと弱気になってしまって。やっとやりたい仕事に就けたのにこんなこと言って情けないんですけど」

 仕事への不安、コミュニケーションに対する悩み。社会人の持つ大半の悩みはこれだ。促すと、相手はなおも続けた。

「日ごろから弱音を吐きたくもなるのですが、なにぶん回りに私の話を本当に共感しながら聞いてくれる人がいなくって、だからこういったダイヤルがあるって聞いて、電話しまして」新しい仕事を始めたばかりのころは、慣れないことも多く、責任感が孤独感を煽る。

「色んな人がいますからね。人の悩みの七割は人間関係によるものです。私からのアドバイスですが、あまり悩みすぎるのはよくない。考えるよりも行動し、経験することです。自分の中でハードルを上げすぎてはいませんか?小さな成功の積み重ねが自信へとつながります。そういった意味ではあなたは恵まれた環境にあります!初対面の人とたくさん話す機会を得られるのですから。今は自分に幻滅することも多いかもしれない。ですが、毎日あなたは少しずつ成長しているのですよ」

「ありがとうございます。確かに、成長というものは自分では実感しにくいものかもしれない」

「そうです。何事も小さな積み重ねですよ」

「ただ、やはり、相談相手が欲しいんです」

「私でよければいつでもお話を聞きますよ。そういうときのためにわれわれのような職業があるのです。私だけで心もとなければ、この町にもう一軒、精神科医があります。よろしければそちらも併せてご利用なさってください。相談相手は多ければ多いほど良い」卓上の電話帳を開きページを繰る。しかし、その精神科の電話番号を言おうとした途端、

「いえ、それには及びません」と電話を切られてしまった。

 どうして急に、と思いつつ、受話器を置いた。一瞬考えて、ふと着信履歴を確認する。その画面に映った11桁の番号と電話帳に記載された番号に、交互に目をやる。完全に一致した数字の並び。彼は、ふいに新しくできた後輩に、昔の自分を見たような気分になった。


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