『煩悶』

矢口晃

第1話

 とある集合住宅の二階から、桃色をした一本のリボンが垂れている。ゆらゆら、ゆらゆら、風に煽られながら垂れている。


 この集合住宅の一階に住むのは、一人の男性である。人生の辛酸をちょうど舐め始めたばかりの、うら若い一人の男性である。

――二階から、一本のリボンが私の部屋の窓の前に垂れ来ている。このリボンを垂らしている人を、私は知っている。このリボンを垂らしているのは、私のちょうど上の階に住む、あの美しいフランス人形のような顔立ちをした、可憐な女性である。

 私はその女性のことを好いている。かなり久しい以前から、ずっと想っている。それは私がこの集合住宅に越してきたその日から始まった片思いである。私はその女性を一目見た瞬間から、かつてないほどの深い恋の深淵に足を踏み込んでしまった。

 焦れて焦れて、夜も眠れない日が何日も続いた。これほど一人の女性に思い焦がれたことは、私はかつて一度も経験しないことだった。毎日寝不足の頭のまま、私は出勤した。しかし体は存外平気だった。ひとたび彼女の姿を心の中に思い描けば、心に張り合いが出て疲れていることなどとたんに忘れ去ってしまった。

 私は何とかして彼女を自分のものにしたいと思った。どうかして彼女を私に振り向かせる方法はないかと、私は思い悩んだ。

 しかし考えれば考えるほど、それは決して私になしうることではないように私には感じられて来た。第一私には何一つとして取り柄がなかった。顔はもちろん人並み以上にすぐれているわけではなかった。百歩譲ってよく言うとすれば、それは個性的な顔立ちといえないことはないかもしれなかった。しかし決して女性をときめかせるような魅力に富んだ顔でないことは確かであった。一つ目に、私は一重瞼であった。二つ目に、私は前歯がいささか前に突き出しているのであった。三つ目に私の鼻は押し潰された山のように低いのであった。顔だけをみて私を好きになる女性は、世界広しといえどもどこにも存在しないのに違いなかった。

 加えて私は背が人並より大分低いのだった。それはしばしば女性にさえ及ばない低さなのであった。もちろん、二階に住むあの女性と比べても、私の矮躯は決定的に見劣りするのに違いなかった。彼女が私のような短身の、しかも撫で肩の男に気持を寄せるなど、私には到底想像もできないことであった。

 あまつさえ私は声が異様に高いのである。これによって私はしばしば、親類や同僚の間の嘲笑の的にさせられたこともあったのである。これは私をして、人と対面する際の異常な緊張感をもたらしめた。私は見ず知らずの人間と言葉を交わさなくてはならない時、必ず背中や脇の下に大量の汗をかかないことはかつて一度もなかった。その緊張が、私の声を余計に高からしめたのは言うまでもない。しかし喉仏はかえって人並より少しく大きく突き出しているのである。唾液を飲む時でさえ、私はその喉仏が大きく上下に動くことを自分ながら感じているのである。ましてや人と話している時、私の喉仏がどれほど激しく往復運動を繰り返していることか、想像するのは難しいことでない。人はそのよく動く一種の生き物を目の当たりに見て、思わず失笑しようとする口を、懸命の努力でこらえているのかも知れなかった。

 私には取り柄がない。取り柄がないどころか、いちいち数え上げれば切りがないほどの欠点に、体の上から下まで埋めつくされているのである。もちろん私はこのような体に生まれついてしまったわたし自身に対して、いささかの自信も持つことはできない。それがために、私は今日まで、非常に塊根に満ちた人生を送ってこなければならなかったのである。

 もちろん私にも、過去に何人か恋心を抱いた女性はいないわけではなかった。しかし自分の自信のなさから、私はそれらの恋を、ついに一度も打ち明けることなく心の中に封印してきてしまたったのである。私の好いた女性が、私以外の男性と肩を並べ、手を組み合いながら歩く姿を目撃することは、私に少なからぬ嫉妬の情を掻き起こさずにはいなかった。しかし私はそれによってさらに奮い立つという経験を今まで持たなかった。私の好いた女性が、私以外の男性と仲睦まじく往来を散策する。それは私とうい個人が、彼という個人に対して決定的に劣っていることの招いた結果だと、私は私自身に諦めるように言い聞かせてきた。いくら妬んだところで、それはどうしようもないことなのである。価値のある人間と、価値のない人間の違いなのである。人に好かれるだけの理由がある人間と、それのない人間との違いなのである。それは生れもったものである。努力次第で、どうなるというたぐいのものではない。なるほど数学の試験ならば、いくら苦手な私でも勉強次第では彼らに勝ることは可能かもしれない。しかし人間の価値は、個人の存在意義は、後からではどうしようもないものなのであった。私はそう思って、諦めることにしていた。ただでさえ傷心しきっている私をさらに傷つけないための、それが唯一の保身の術であると私は考えていた。

 しかし今回は違った。私は初めて、この世になりふり構わず、全てを投げ捨ててでも立ち向かうべき恋のあることを知った。私はその女性を一目見た時、これが世にいう運命の出会いであることを敏感に察した。体中に、生気の宿ってくるのを私は感じた。自身の生まれついた身体的特徴を引け目に思って、この恋をもまたかつての恋のように心理的に閉鎖してしまうことは、後に私に大いなる悔恨をもたらすであろうと私は感じた。それは二度と立ち直ることなどできない、途方もなく大きな悔恨であるに違いないと私は思った。もはやくよくよしていることはできなかった。私は少々不自然でも、彼女と顔を合わせる機会を増やすよう専念した。早朝、偶然通りかかったふうを装って、彼女と往来ですれ違いざま、二言三言挨拶らしきものを交わしたこともたびたびあった。私は気がついたら、彼女にものを買って贈った。理由は何でもよかった。駅前の花屋で美しい花が売っていたからとか、限定品のチョコレートがたまたま手に入ったからとか、人から譲り受けた時計だが、自分には使うことはないからとか、何かと都合のよい理由をつけては彼女にものを贈り続けた。彼女はそれらをとても嬉しそうに受け取ってくれた。「ありがとう」という感謝の言葉の他に、必ず何かしら嬉しい気持ちを表す言葉を付け足すことを忘れなかった。「この花は、私も買おうと思っていたの」であるとか、「このチョコレートは、前から一度食べてみたいと思っていたの」であるとか、「私の部屋にぴったりの時計だわ」であるとか、そういった様々の感謝の言葉を私は彼女の口から聞くことができた。そして最後にはとうとう、彼女の方から私に贈り物さえしてくれたのである。それは何の変哲もない、どこにでも売っている普通の飴玉に違いなかった。私は早朝の出かけざま、すれ違った彼女から「いつもお勤めごくろうさま」と声を掛けられ、「よかったら食べて下さい」と、彼女が偶然ポケットの中に持ち合わせていた飴玉を受け取ったのである。私のその時の喜びようがどれほどのものであったかは、もはや想像に難くはないであろう。私は天にも昇るような気持ちになり、浮足立ち、雲に乗っているような優越感に包まれたのである。それはたった一つの飴玉にすぎない。しかしその飴玉は確かに、彼女が私に対して何かしらの好意を示していることを表しているのである。少なくとも、彼女は私に対して、負の印象は持っていないであろうと、その飴玉は私に想像させるのである。そしてことによっては、私に対して正の印象すら彼女が抱きつつありかねないことさえ想像せしめるのである。

 私は彼女を振り向かせることに成功しつつあるのかもしれない。確かに、私には人に誇るべき何物もない。財産もないし、能力もないし、醸し出す魅力もない。しかし彼女に対する献身だけは誰にも劣らないつもりだ。彼女に対する優しさだけは、誰に対して遜色ないはずだ。彼女に対する愛情は、彼女の両親のそれをさえしのぐものを持っているつもりだ。

 二階から、一本のリボンが垂れている。それはあの彼女が垂らしているリボンだ。このリボンは、彼女が私に対する愛好の気持ちを表現しているのかも知れない。私がこのリボンを下から引いたなら、二階で待つ彼女の白い手が、リボンのもう一端を優しく引き返すのかも知れない。もしそうなれば、彼女が私のこの純朴なる精神を受け取ってくれたことの証左だ。私はこのリボンを、一か八か引いてみたい気がする。

 しかし、私の手はリボンを引こうとしながら、その手前でどうしても躊躇しないわけにはいかないのである。本当にあれだけの美しい女性が、こんな醜い私に恋をすることなんてありえるのだろうか。彼女は資産家の令嬢である。それに加えてあの美しさである。どう見たって、みすぼらしい私にそぐう相手ではないことは誰の目にも明らかだ。もしかしたら、もう許婚さえいかねないのである。いやいる方が自然ですらある。そんな彼女が、本当にこんな私に恋をすることなど、あるのであろうか。

 私は恐れる。このリボンを仮に下から引いた時、何の抵抗もなくリボンがするりと抜け落ちてきてしまうことを。私がすっかり舞い上がって期待を込めて引いたリボンが、全く上から引き返されることもなく私の頭上に抜け落ちてきてしまうことを。このリボンが、彼女の私に対する愛情の表れであるなどという保証は、どこにもない。それはあくまで、私がそう思いこんでいるだけにすぎない。もしかしたら、彼女が私の恋心を見透かして、それをもてあそぶつもりで垂らしたリボンでないとも限らないのである。いや、彼女と私とを見比べた場合、そのその可能性の方が明らかに大きい。私はただ遊ばれているのである。操作されているのである。「いい気になるなよ」と警告されているのである。そう考えれば、このリボンを引くことはいよいよ恐ろしい。

 しかし万に一つ、このリボンが彼女の私への敬愛の意味であるならば、私がこのリボンを引かないことは彼女に対するこの上ない侮蔑となるばかりでなく、私自身に以後二度と立ち上がれないほどの悔恨を与えるに違いないのである。だとすれば、私はどうしてもこのリボンを引いてみたいのである。

 だが引いた瞬間に、やはり予想通りリボンが力なく抜け落ちてきてしまったなら、私の彼女への想いもその瞬間に断ち切られることになる。もう二度と彼女と親しくなることを期待できなくなる。妄想の中ですら、彼女と手を取り合い語り合うことさえできなくなる。

 だとすれば、私はむしろ現状のままを望みたい。たとえ身の程知らずの妄想であってもいい。しかしあれほどの女性と気持ちが通い合いつつあるという今の幸せを、もう少し味わっていたいと思う。いつかは壊れる夢かもしれない。しかし夢ならば、なるべく長く見ていたいというのが私の本心である。

 しかし万一私がこのリボンを引いた時、二階の彼女の手がリボンのもう一端を優しく引き返してくれたなら――

 ああ。私はこのリボンを引いてみるべきかどうか、全く判断がつかない。


 ある集合住宅の二階から、桃色をした一本のリボンが垂れている。

 この集合住宅の二階に住むのは、一人の女性である。ある資産家の家に生まれ、人生の辛苦など一度も味わわずに成熟した、一人のうら若い乙女である。

――私は一本のリボンを垂らしている。一階に住むのは、あの後ろ姿のさみしい男性だ。私は感じ取っている。あの人が私に対して好意を持ってくれていることを。そして私は、そのことに喜びさえ感じている。

 彼は確かに背は人並より低い。しかし髪型はいつも清潔で、顎髭の剃り残しもない。するどく引き締まった唇は知性にあふれて魅力的だ。

 額が少し広いのは学問を積んだ形跡らしい。彼はとにかく聡明な人のようだ。私は彼の外見を特に気に入っているわけではない。しかしそれは私にとってはどうでもよいことだ。私は今までの経験から、男性の外見の美しさと内面の美しさとは全く関係がないことを知っている。両親がかつて私に会わせた男性は、ことごとく外面だけの人ばかりであった。肝心の中身がすかすかの人たちばかりであった。私は彼らとの結婚には、決して同意しなかった。いくら社会的に地位があっても、将来大きな財産を作る能力があっても、人間の温かさのない男性に私は一生を捧げたいとは断じて思わなかった。なるほどそう言った男性と結婚すれば、世間体はいいのかもしれない。両親だって満足するであろう。しかしそんな結婚が、私に幸せをもたらしてくれるとは、どうしても思えなかった。少しくらい貧乏でもいい。顔や姿が整っていなくても構わない。それより私は人間らしい愛情と、人間らしい感情を持った人と一緒にいたかった。だから私はかつての縁談を全て断ってきた。

 下に住む男性は、その点今までの男性とは少し違った面を持っている。彼は臆病かも知れない。引っ込み思案で、口下手かもしれない。しかし彼には、紛れもなく人間らしい優しさがある。私はそれを感じる。彼が贈ってくれた様々な贈り物。それらは全て物の形をとってはいるけれども、その裏に彼自身の大きな気持の存在していることを、私は受け取りながらひしひしと感じる。彼は優しさを持っている。愛情を持っている。それは紛れもない事実だ。

 しかしもし彼が、正面切って私に交際を求めてきたら、私はいったいどうするだろうか。「お付き合いします」という回答を彼に与えるだろうか。そうなると、また別の話のような気もする。確かに彼は優しいのだ。人間としてとても温かいのだ。でも私の一生の伴侶としようと考えるには、私は言いようのない不安に駆られざるを得ないのだ。それがなぜだかは、正直言って私自身にも分からない。しかし、何かが違う。何かがかみ合わない。そんな歯がゆい気持ちを、私はあの人に対してはいつでも持ってしまうのだ。

 愛されるのならば、私はああいう温かい気持ちを持った人に愛されたい。でも、あの人に愛されたら困る。この二つの心境は、明らかに矛盾している。しかしそれが、私の今の本心なのだ。

 やはりどこかで世間体を気にしているのだろうか。自分の意識の上では、内面を持った人を伴侶に持ちたいと考えていながら、もっと底の潜在的な意識の中では、やはり外面や経済力も重視しているのだろうか。私の意識は「内面を持った人を伴侶にするべき」と一生懸命考えようとしていても、無意識の、本能の部分ではやはり男性としてたくましい人を伴侶に望んでいるのだろうか。

 小さい頃から、私は両親に理想の私像を刷り込まれて生きてきた。資産家の娘として、どこに出しても恥ずかしくない立ち居振る舞いができなくてはならないと意識づけられてきた。私も両親の期待に応えようと、彼らの教えを忠実に守ってきた。自分より背が高く、肩幅があり、声が低く、鼻の高い男性を好きにならなくてはならないと、自分に言い聞かせてきた。その通り、私はそういう外見の男性らしい男性に恋をする女性に成長をした。しかし心のどこかでは、そういう理想像に対する反発心がいつもあったのだ。それが私を、いつも結婚とうい決断に踏み切らせずにここまで来させたのだ。私は成長するとともに、両親から刷り込まれた理想の私像の他に、もう一人の理想の私像を自分の中に築きあげてきた。両親の前では両親の理想の私像を演じ、彼らの前を離れれば私は私自身の理想の私になろうと努力をしてきた。それが私の心を二つに引き裂いたのだ。外面の美しい男性に惹かれるのは、両親に刷り込まれた理想の私だ。内面の美しい男性に惹かれるのは、私自身が作り上げた理想の私だ。その二人の私像が、いつもぶつかりあっている。

 内面の美しい男性と付き合おうと思うと、両親に刷り込まれた理想の私が腹を立てる。外面の美しい男性と付き合おうと思うと、私自身の理想の私がへそを曲げる。いったいどちらの私像の意見に従えばいいのか、現実の私は途方に暮れている。

 私は今、二階の私の部屋の窓から、ピンク色のリボンを垂らしている。一階に住む、あの男性に向かって垂らしている。心の中では、あの男性が勇気を出してこのリボンを引いてくれることを願っている。しかし同時に、あの男性がこのリボンを引くのを恐れてもいる。もし彼が下からこのリボンを引いたら、私はいったいどうするだろう。この手を離さずに、私も上から引き返すだろうか。それとも手の力を緩めて、リボンを下へ投げ落すであろうか。

 下からリボンを引いてくれることを、私は期待している。と同時に、下からリボンを引かれることを、私は恐怖に感じている。

 愛されたい。しかし愛されたら困る。それは両方とも、私の本心である。嘘いつわりのない、本心である。

 だから私も、苦しいのである。


 とある集合住宅の二階から、桃色をした一本のリボンが垂れている。ゆらゆら、ゆらゆら、風に煽られながら垂れている。いつまでも、輝きながら垂れている。

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『煩悶』 矢口晃 @yaguti

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