天佚崎学園物語

小雨路 あんづ

琴羽ひまりの場合

 足馬鹿あしばかは、あの時のことを決して忘れたりなんかしないと誓っている。


 カーテンを閉め切った暗い、糞尿のにおいが染みついた小部屋。そこに、足馬鹿はいた。

 犬用の首輪に鎖をつながれて、物のように扱われて。腹が鳴ればうるさいと殴られ、粗相をすれば汚いと蹴り上げられる。


 小さいころに曲げられた足は蹴られるととても痛くて、そんな自分を嘲笑して自分が「足馬鹿」と呼ばれていることを知っていた。そして「死体の処理が面倒くさい」そんな理由で、自分は必要最低限生かされていることも。言葉の意味は理解できなかったが。


 日々たがわぬ怒号と罵声。吐き出されては繰り返される暴力の日々。


 生まれてきた時からそうされてきた足馬鹿には、それが普通で日常のことだった。あの日までは。

 足馬鹿の血しぶきが跳んだ、黒いカーテンが風もないのに不自然に揺れた、あの時までは。


 ちょうど誰もいない時だった。足馬鹿が唯一休めるときだった。足馬鹿より、少しだけ大きな人が空中から溶けるように現れたのは。


 そうして、暗い部屋にぼんやりと浮かぶほど白い手を差し出したのは。

 思わず条件反射で身をすくめた足馬鹿に困ったように苦笑した、見たこともないくらい美しい顔。カーテンの隙間からわずかに漏れる夕日に照る、青い髪。きれいな赤い唇で、その人は言った


「来るか?」


 まるで魔法みたいだった。

首が鎖引っぱられ絞められたことで気が付いた。いつのまにか、そのきれいな手に血で汚れ爪がはがされたボロボロの自分の手を乗せていることに。

 あわててそれを引こうとして、やわらかく握られる。


 優しく触られた経験などなくて、目を見開いて固まる足馬鹿に少女が笑いかけた。まるで花がふわりと舞っているかのように思えるほど可憐に。


 その美しく慈愛に満ちた顔を。


 足馬鹿・・・琴羽ことはひまりと、青い彼女から名をもらった少女は。決して忘れない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る