言の葉ひとひら
相良あざみ
我が細君
参加出来なかったにごたん第一回目のお題をお借りして、二時間半で。
お題【チルチルとミチル】【映写機】【最低賃金】【勘違いの恋愛感情】
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私が働き始めた頃などは最低賃金だ最低賃金法だというものはまだなく、大学出の初任給も財閥系で言うなら七十圓程度だった。戦争のすぐあとの頃の話だ。皆が国を立て直すのに、我武者らになっていた。
我が細君とは、所謂幼なじみという間柄である。兄妹のように育ったものだから、正直なことを言えば、
私は、学生時代などは毎日のように純喫茶へ入り浸り、煙草を吹かしながら仲間とつらつらと政治論などを交わし合うような不良なところがあって、あれが心に決めていたのは私とは随分違う趣向の男だったらしい。いや、らしいなどと、曖昧な言葉は合わない。私はその男を知っている。何せ、それと私が、そもそもの顔見知りであったからだ。
その男――
けれども、話してみれば気のいい男で、私はすぐに気に入ってしまったのだ。どのくらい気に入ったかといえば、妹のように可愛がったあれを紹介するくらいである。
かくして、私の思った通りになった。あれと貞二が恋仲になったのだ。真面目な貞二は生涯を共にするその前提であれを大切にしていて、私は、よぅしこうなれば祝儀は弾んでやらねばならぬと息巻いて、その度に二人に無理をするものではないと笑われたものだ。
そのあとに何があったのか、挙げるべくもない。玉音放送が流れたとき、私は最早捕虜になっていたし、あれは、二度と帰らぬ貞二の手紙を抱いて涙していた。それが、全てである。
私がシベリアから祖国へ戻ることが出来たのは、全体から見れば早い時期であったろうと思う。私は帰り着いた故郷でようやく、貞二が不帰の客となったことを、あれの口から聞かされたのだった。
あれは、浮いた存在になっていた。婚約者を失ったとか寡婦となった婦人は、少なくはなかったのだ。けれども、あまり傷付いて鬱ぎ込み続けるあれは自分から立ち上がる気力をなくしていて、どうにも扱いづらいと思われていたらしい。
どうにかしてやらねばならぬと、私は誰よりも強く思った。妹のように可愛がった娘だ。私が、貞二を紹介してやったのだ。救ってやらねばならぬ。私が救ってやらねば。
だからこそあれの父母が、あれを嫁に貰ってやってくれないかと言ったとき、私は頷いた。あれの気持ちは、正直なことを言えば置き去りであったように思う。どうだと問えば、首を振るだろうと皆が分かっていたからだった。
まだあまり物がなく、式は簡単なもので済ませた。あれは角隠しの下で俯いたまま、ただ粛々と、流れに従っていた。
私は――私は。
あれが自分の妻になった事実に、落ち着かない気持ちでいた。美しかったのだ。妹のように思っていた娘が女として自らの横に立つ、それだけで妙な気持ちであったのに、あれは、美しかった。
夫婦になり、あれも少しは笑うようになった。元より仲は悪くないのだから、憎からず思ってくれていたのだと思う。私はあれが生きてくれるように、何かと心を砕いた。そして貞二を心に生かしながらでも、私を思ってくれるようにと願った――勘違いの思いでも良いから、私を見てくれはしないかと。
我が細君が果たして私をどう思っていたのかは分からない。もう、訊ねることも出来ない。けれども、二男一女に恵まれ、その子供達も今はそれぞれに家庭を持ち、孫もいる――それを幸せだと思って逝ったのなら良いと、そう思う。
「おじいちゃん、これなに?」
「ああ、これはねぇ、8mmフィルムの映写機だよ」
「はちみりふぃるむ?」
孫がどこからか持ち出したのは、長男が生まれたときに買った8mmフィルムの映写機だった。せっかくだと、カメラと一緒に買ったものだ。確かどこかにフィルムが残っている。
見たい見たいと騒ぎ出す孫に笑って、押し入れを探してみるように言う。しばらくして孫が見つけ出してきた段ボール箱には、たくさんの我が家の思い出が残されていた。
「えーっと? 和雄、一歳……これお父さんの赤ちゃんの頃のフィルムだ! 見てみようよ!」
「古いからねぇ、ちゃんと見られるかどうか」
果たして、上映会と相成った。和雄は仕事で空けているから、観客は和雄の嫁である早苗さんと、孫の真奈だ。私は、映写技師である。
フィルムをセットして準備をすると、カーテンを引いて部屋を暗くする。スイッチを押せばカタカタと音を立ててフィルムが送られて、壁をスクリーン代わりに映像が流れ始めた。
「うわ、白黒だぁ、音はないの?」
「この時代は、まだなかったんだよ」
「へぇ……おじいちゃんが撮ってるの? これがおばあちゃんで……あっ、赤ちゃんだ! これお父さん? ちっちゃーい」
「まー、初めて見たわ」
早苗さんと真奈がはしゃいでいる。私は、我が細君をじっと見つめていた。微笑んでいる。音はないけれども、どうやら和雄に読み聞かせをしている姿を撮ったフィルムであるらしい。本は、何だったろうか。随分と視力の落ちた目でそれを探れば、ようやく思い出す。
ああ、これは――青い鳥だ。
フィルムの中で、和雄が真剣に話を聞いている。私はそれを微笑ましく思っていて、守るものが増えたことを胸に刻んでいた。
少しして、和雄は眠ってしまった。本を閉じた我が細君がその頭を撫でて、私を手招きする。
『ほら、あなたも』
不意に耳元で蘇る、細君の声。繊細で穏やかなそれにつられて、私も和雄の頭を撫でてやった。
――ああ、蘇る。
畳のにおい、温もりを帯びる春の風と、そっと微笑むあれの吐息。
青い鳥、本に書かれた文字をなぞる指を見て、私は訊ねたのだ。
『お前は今、幸せか』
笑う。ころころと、娘のように。
『幸せですよ。私の青い鳥は、あなたと、和雄ちゃんだもの』
――嗚呼。
情けない、どうして忘れていたのだろう。そうか、そうか、お前は、幸せと思ってくれていたのか。なぁ、我が細君、私の青い鳥、私の――
「
馬鹿ねぇ、なんて、幸が娘のように笑う声が、どこからか聞こえた気がした。
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