Sin Eater(短編)

平群泰道

Sin Eater

 懐かしい声を聞いたような気がして目を開けたところで、スバルは、自分が眠っていたことに気が付いた。開ききらない瞼越しに空を見上げると、西の方角へ双子月が南の六角星に接近している。だいぶ、夜が深まっている証拠だ。

「ずいぶんよく寝てたな」

 傍らで武器の手入れをしていたケントが、声を上げた。たき火を挟んで座る彼のさらにその先には、森が果てしなく続いている。虫の声すらも、ここに横臥したときと変わりはない。

「ああ。長い夢を見ていたみたいだ」

「妹さんのか」

 答えなかった。ケントも、さしたる興味があって言っているわけではないだろう。スバルの双子の妹、ポーラ。十五年前に死んだ。

 ふいに、虫の声がやんだ気がした。同時にケントの顔色が変わる。

「やつらだ」

 低く押し殺したような声にスバルが起き上がると、ケントはすでに弓と槍を手にして立ち上がっていた。あわててスバルも、枕にしていた外套を羽織り、短剣を握りしめる。

 風呂敷に乗せておいた砂をひっくり返してたき火を消す。しゅっ、という情けない音がしたとたん、あたりが真っ暗になった。

 やつらは炎を恐れない。ならば、火を灯し続けても、自分たちの目が闇に慣れるのを遅らせるだけだ。

 火を焚いている人間をわざわざ襲いにくるなど、普通の野生動物ならしないだろう。ということは、残された可能性は、追剥か、やつらかということになる。そして、この低く鈍い唸りを伴った気配は、人間ではありえなかった。

 話をしている時間はなかった。唸り声は周りの木々の間、様々な方向から聞こえる。包囲されているのだ。では、何に?

 すなわち、スバルたちがこれから殺そうとしている相手、神獣の尖兵たる、転生の獣と呼ばれるものたち。ここはやつらの巣の近くだ。

「殺れるのか?」

 ケントは矢をつがえながら、スバルの方を見ずに言った。押し殺したような、小さい声だった。

 そのとき、暗がりから何かが動くのがわかった。目が慣れておらずよく見えなかったが、転生の獣であることは、間違いなかった。

 対応が遅れた。スバルは身体を翻そうとしたが、間に合わなかった。だが、獣の突進よりも先に、スバルは体勢を崩した。ケントが、彼を突き飛ばしたのだ。

 地面が、血に濡れるのが見えた。ケントの腹が、獣の一撃を受けて真っ赤に染まっているのが見えた。

「大丈夫か?」

 ケントが言った。突っ込んできた獣がまた暗がりへ消えていったのを確認して、スバルは片ひざをつくケントに駆け寄った。

「馬鹿、こっちのセリフだ。すぐに止血を」

「見た目ほどじゃない。それより次が来る」

 スバルはあらためてあたりをうかがった。すでに、周りを包囲されているのを感じる。突破口らしき部分は一カ所あるが、おそらくそちらには伏兵がいるだろう。これまでやりあった何度かの経験で、やつらの思考はある程度、スバルにも読める。

「ケント。この数だ、全部やるのは難しかろう。お前は逃げろ」

 スバルは彼に戦ってほしくなかった。今ならまだ引き返せる。ここまで来てくれれば、あとは自分一人で行くべきだ。この森に入る前に何度もそう説得した。だから、ケントの答えはわかっていた。

「馬鹿言うな。なんのためにここまで来た?」

「死ぬなよ」

 その言葉が届いたかはわからなかった。ケントの気配は、すでにスバルの知覚できる範囲から逸脱していた。手負いとは思えない敏捷さだ。おそらく背後の木によじ登っているのだろう。獣と相対するために編み出した、ケントの戦法だ。

 スバルはあえて伏兵のいる方へと走り込んだ。ケントは手負いだ。獣から遠ざける必要がある。大きく動いて、スバルは獣の注意を自分にひきつけようと思った。

 刹那飛び込んできた影にあてずっぽうで短剣を突き立てる。かすりもしなかったが、相手の軌道をそらす目的は達せられたらしいのは、地の踏まれる音でわかる。同時に月明かりに慣れた目が、襲撃者の影を捉えていた。

 蹄の食い込んだ地面に屹立する四肢に支えられた、紡錘状の体躯。深くはない毛に、醜い大きな鼻がまるで獣自身を象徴するようにあしらわれている。その眼光から獣の感情を読み取ることはできなかったが、まっすぐとスバルに注がれているのはわかる。

 転生の獣。それは、死を象徴する、忌むべき存在。いや、スバル以外にとっては、それは信仰の対象ですらある。

 スバルはぬかるんだ地面を踏み込みかけて、やめた。その先にいくつもの目がきらめいたのを見たからだ。今飛び込んだところで、目線の先の一頭を仕留めても、囲まれるだけだ。

 だから、差し出した足でバックステップするように後ろに飛びのいて、振り向きざま、背後から突進してきた獣を逆袈裟に薙いだ。

 ぐぎゅうん、という切なげな声を漏らしながら、着地に失敗した獣がぬかるみの中に突っ込み、横たわったまま滑る。その姿が視界の端に入ったときには、スバルは走り出していた。

 追跡の気配を感じた。森の中で走ることには多少自信はあったが、獣相手に保てるほどのものではない。木々の間をくぐりながら、適宜左右に進路を変えながら走る。しかけたいのはやまやまだったが、数の上では不利だ。せめて地の利を得られる場所で戦わなければならない。

 だが今スバルの心の中は、そういった打算的な生存への戦略よりも、興奮が支配していた。それは命のやりとりに身をやつすことによる作用以上のものであることを、彼は知っていた。

 やれる。やれるぞ。転生の獣を殺すことができる。スバルは握った短剣をじっと見つめた。やつらの命を奪うごとに、これから自分のなそうとしていることが、目に見えて確かに可能だと実感させられていった。

 これまでスバルのような無謀な者が何度も、獣狩りを試みたが、誰もそれを成し得なかった。霊的に守護された獣は、倒すどころか、傷を負わせることすらかなわない。そういうことになっているはずだった。スバルを、のぞいては。

「転生をつかさどる獣たちは、輪廻の輪から解き放たれている。彼らの生き死にを握るのは、彼ら自身だ」

 僧侶だったスバルの父が、そう言ったのをよく覚えている。

「人間は獣に逆らうことはできない。獣もいたずらに、人間を殺めることをしない。そうして我々は生きてきた。獣に生かされてきたんだ」

 頭の中によみがえる父の言葉に、スバルは唾を吐きかけた。何が生かされてきただ。ならなぜ、ポーラは死んだ。やつらに――いや、やつに、殺されたからじゃないか。

 走るうちに、浅い川の流れているところに出た。一足飛びに川を越えて、スバルは獣の一団に向き直る。森の獣だ。猪突が武器の獣には戦いにくかろうという判断だった。決して、スバルにとっても戦いやすい場所ではなかったが。

「セイッ!」

 暗がりから飛び出してきた獣をかわしつつ、逆手に掴んだ短剣の刃を眉間に宛てる。鼻先がスバルの胴をかすめた。だが、無力化することに成功した。獣は、頭から血を、口から涎を垂らして、うつぶせ気味に倒れ伏す。その視線はやはりスバルに向いていたが、先ほどまでの殺気のこもった目線とは全然違った、何かを訴えかけるような目をしていた。

 スバルはすぐに向き直り、戦闘態勢に復帰する。だが、森の暗闇からは、それ以上、神の獣たちが現れることはなかった。

 すぐに、はっとした。ケントだ。彼が危ない。彼は、獣を狩る道具を持っていない。


「ちくしょう……こいつは詰み、かもな……」

 ケントは、傾きかけた木の上で一人ごちていた。ゆさゆさと、彼のいる木が揺らされているのは、先ほどから獣が突進を繰り返しているからだ。

 認識が甘かったと言わざるを得ない。いくら神の獣といえど、傷を与えられないまでもスバルが落ち着いて一匹ずつ駆除するための、時間稼ぎくらいにはなれると思っていた。これまでも、そうしてきた。

 だが、この神の森にいる獣たちは想像以上に賢かった。やつらはスバルではなく、真っ先にケントに襲いかかってきたのだ。樹上から槍でつついても、矢を射っても、獣の身体ははじいてしまう。ケントはやつらをどうにかする手段は持っていなかった。

 先ほど受けた傷が痛んだ。ケントは顔をしかめる。

「むこうも必死、ってことなのかね。だったらいいんだが」

 これまでは、ただの無謀な連中が、戯れに獣を殺して回っているとしか思っていなかったのかもしれない。それが、神獣の本拠地にまで乗り込んできたのだ。むこうも本気を出してしかるべきということだろう。

 木が、また大きく揺れる。暫時揺れが収まってからの不意打ちだったためふんばり切れず、ケントの脚が滑った。身体の重心が急激に移動するのがわかる。ケントは死を悟った。

 とっさに伸ばした肘が、枝に引っかかってくれた。右肘を支えにして枝にぶら下がる形になり、落下することは免れたが、はずみで槍を落としてしまった。これでは飛び降りて逃げ出そうにも、槍先で牽制して距離をとるわけにもいかない。焦りが思考を鈍らせる。どうすれば生き延びられるかを経験から索引するとでも言うのか、様々な記憶が瞬間的に彼の頭を巡った。ケントは、これが走馬燈というやつか、と思った。だがすぐに、彼の処世策は、必要がなくなった。

 枝の付け根が樹皮ごとずるり、と幹からはがれた。そのままケントの身体が、地平へ接近する。すんで腹筋を駆使し身体をエビのように丸めようとしたが、遅かった。とびかかった獣に右のふくらはぎにかみつかれ、枝をつかんだ手が離れた。受け身を取りながら背中ごと地面に落ち、身体を丸めて転がりでようとしたときにはもう遅い。その腹と腕も、控えていた別の獣の餌食となった。

 薄れゆく意識の中で、ケントは思った。

 神に挑むなんて、馬鹿のやることだ。あいつみたいな。


 スバルが駆け付けたのは、そのときだった。

「やめろ!」

 叫んだときにはすでに遅かった。スバルの目前で、ケントの喉笛がかみ切られた。勢いよく噴出する血で、獣はむさぼるように喉を潤す。獣はスバルにははなから興味がないとでも言うように、彼には目もくれずケントの血肉をむさぼり続けた。ケントだったもの。絶命したその肌に牙が突き立てられ、肉が、骨が刻み砕かれていくのを、スバルは茫然と見守ることしかできなかった。

 やがて、獣たちの食事が終わると、一匹が肩越しにスバルの方を見た。振り返った獣が鼻を鳴らす様が見えた。獣がスバルを「お前が手を出せないのはもう知っているぞ」と嘲笑っているような気がした。

 そのとき、山の稜線から顔を出した朝日が、スバルたちを照らし始めた。木の下にできた血だまりが日差しを跳ね返し、ケントだった名残が輝き始めた。

 獣たちはスバルに襲いかかってはこなかった。何か魂胆があるかのように、ケントを殺したその場所で、スバルをただじっと眺めていた。

 それからどれだけそうしていただろう。ふいにミチッ、ミチという音が、スバルの耳に入る。一匹の獣の尻から、練り物状の物体がひりだされていた。排泄。食事が終わり、不要物を押し出すその行為をスバルは食い入るように見ていた。目が離せなかった。

 肌色がかった糞は、日に照らされながら、少し光っているように見えたかと思うと、うねうねと蠕動し始めた。まるで何者かが見えない手で、糞をこねているように見える。この糞はやがて、人間の形を――赤ん坊の姿を獲得し、産声を上げることだろう。スバルも、ほかの命も、そうしてこの世に産み落とされてきた。

 転生の獣は文字通り、人間を転生させる一種の器官だ。絶命した人間は獣に食らわれることで神獣のもとへ還り、新たな生を受ける。その手段こそが、排泄だった。獣の尻から出た糞が外気にさらされながらうねうねと蠕動を繰り返すことで、人間の形となり、命を授かる。

 この世界のそこかしこにある、獣の巣くう森の近くに住む者たちは、たびたび森に足を踏み入れ新たな命を持って帰る。ケント――いや、ケントの来世もおそらくはそうして彼らの手にゆだねられるだろう。もはや、スバルが彼にしてやれることは、何もなかった。

 獣が排泄を終え、ゆっくりとどこかへ歩き始めたとき、スバルは初めて涙を流した。ケントは、いなくなった。この世界から彼が消えることによって、この世界に、どんな影響があるのだろうか。

 ポーラ。スバルの妹が死んでからも世界は変わりなく営みを続けていた。だが、スバルの世界は激変した。同じように、彼の死によって、この世界の誰かの世界が、変わったりするのだろうか。

 わからない。スバルには。だから新たな彼が、幸福な家庭のもとへ届けられることを願うのみだった。


<<<


 人待ちをしているときは、益体のないことばかり考えてしまう。いい天気の日だった。私はベンチに腰かけながら、少年野球の練習試合をぼんやりと眺めていた。

 こんな風に思うことがある。今、目の前で野球をしている子供たち。次の瞬間に、この子たちの内の一人が突然この場から消えうせたとしたら。神隠しか何かではない。最初からいなかったものとして、その痕跡がすべて消失したとしたら、今見ている光景はどう変わるのだろう。

 例えばサードを守っているあの太っちょの男の子。きっと野球より三度の飯の方が好きな彼の帰りを、お母さんがたくさんのご飯を作って待っているだろう。今日のご飯は唐揚げかな。カレーかな。両方だったらいいな。白球を追いかけながら、そんなことを考えているかもしれない。

 その彼が、もしも生まれてこなかったことになってしまったら。突如として世界が、そういうことになった世界に変貌してしまったら。

 サードは、彼ではない誰かが守っているだろう。今彼が取りこぼしたフライもしっかりキャッチして、走者を刺していたかもしれない。彼の母親は子供ができずに今も悩んでいるか。それとも別の子供が生まれ、また違った人生を送っているだろうか。彼が生まれたことがなかったことになる、ということは、彼の両親が愛し合う事実までなくなるのだろうか? そこまでは私の想像の埒外だ。

 もちろん、私にそれを知覚することはできない。なぜなら、彼が生まれたことすらなかったことにされてしまったのだ。私が今彼を見ているというその記憶も、消されてしまうのだから。

「田中さんですね」

 声をかけられて、私は立ち上がってそちらへ向き直る。差し出してきた名刺には木下とあった。私はそれを受け取ると、あわてて自分の名刺を差し出した。社会人同士の礼節というやつだが、どうも格式ばった、ビジネスライクというやつにはなじめなかった。

「私は博士の助手……という肩書にはなっていますが、単なる雑用役です。彼の研究の中で一番近しい位置にいる自信はありますが、いればいるほど、わからなくなるんです」

 木下氏はそう言って笑った。

「行きましょうか」

 彼が振り向きかけると、差し出した足で地面をこつん、と鳴った。底の厚い靴の音よりも少し、甲高い感じがした。

「失礼ですが、足が?」

「ええ。生まれつき、ね」

 木下氏は、右足のあるべき場所にある棒状の装置で床石をこつ、こつとたたいた。ズボンに隠されてはいたが、おそらくふくらはぎのあたりから下の布がひらひらと心もとなく揺れている。そこにあるのはカーボンの棒のみで、彼の血も肉も骨も存在しないのだろう。

 相手を不憫に思うのは礼を失する。私はあいまいな表情を浮かべ、木下氏も、それ以上何も言わず歩き出した。

「六連星博士は、偉大な秀才と目されていますが、私はそうは思いません」

 廊下の途中で木下氏はぶしつけにそう言った。己の師を卑下するような物言いのようで、そこには学者らしい冷静な声色のみが響いていた。

「博士の研究については、もちろんご存じで?」

 押しつけがましい物言いだったが、マスメディアでもない人間が、在野の研究者を訪ねてくるのだ。何も知らないはずもない。

「ええ。雑誌のインタビューで読んだ程度ですが」

 私は恐縮しながらうなずいた。

「十分でしょう。先生の思想は、言葉という器に盛るには深淵すぎる。直接深い議論をかわそうと、メディアにおいてその上澄みだけを味わおうと、最終的に得られる知見はさほど変わりないはずです」

 諦念じみた物言いをする木下氏はさして興味がないようにも、面白くなさそうにも見えた。出世しないタイプの学者特有の、研究が自分の世界を作っているからこそ、それが世間にとってどれほど認知されているかに疎い感じ。それ故に、専門家然とした態度を遠慮するような。そういった抑制が感じられた。

「そういうものですか」

 私は韜晦されているような気持ちになって、あいまいな表情をするだけにとどめておいた。

 現代科学という業界において、六連星博士を知らない者はもはやいない。人間の認識による世界の改変。一昔前のSF小説に登場しそうなアイデアであるそれが初めて提唱されたのは、私の記憶においては十数年前のことである。当初は当然、誇大妄想狂の慰み事と目されていた。

 感覚質に恣意的な変異をもたらすことで、その認識が世界そのものと同期する。まさに「我思う、故に我有り」を体現したような理論。私は、それを解説した、素人によってWEBに投稿された動画を見たことがあった。

「現実。意識。無意識。六連星博士は、その三本の軸を基準に、理論を展開しています」

 無機質な機械音声が読み上げた文章が、ポンチ絵の女性キャラクターの前面に透過した下部ウィンドウに表示される。フリー素材だろうお粗末な音色のBGMが申し訳程度に添えられた、やっつけ仕事を隠そうともしていない動画だ。だが、その解説のわかりやすさから、公開されてからわずか一カ月で、投稿された大手動画共有サイト始まって以来の再生数を記録し、いまだに増え続けている。

 女性キャラクターの絵は文節の区切りでさし変わり、かわるがわる様々な表情を見せた。見る者を飽きさせない工夫だろうが、初見のとき私にはそれが邪魔で仕方がなかった。

「現実に対する見方や感じ方を通した認識が、意識。どういった見方かにかかわらず、存在する認識が無意識であることは、説明の必要もないでしょう。その中で、意識というものが、現実と必ずしも一致しないことは、みなさんもご存じでしょう。勘違いなんて、誰だってするものです。

 では、無意識の方はどうでしょうか? そんなこと、わかる人はまずいないでしょう。ですが、六連星博士はこう断言しています。

 無意識と現実の間のギャップ――彼は識差と呼んでいます――は、ほぼ、存在しえない、と」

 BGMが弦楽器中心の重々しいものに変わる。

「六連星博士がどうしてそれを確信したのかはここでは割愛します。博士は、無意識と現実の間に識差が生じた瞬間、世界が、無意識を基準に改変される、という理論を提唱しています。

 例えば、誰しも晴れの日と雨の日があることを認識しています。では仮に、無意識下で雨の日が存在することを認識していない人がいたとしたら何が起きるか。この世から雨という存在が消滅するというのです。ですが、意識の上でならともかく、無意識下で雨が降らないことを知らない人はいないため、そのような現象は起きていないというのが博士の理論です」

 現実。意識。無意識。新たな軸を用意するなら非現実とでも呼べるこの理論だが、私たちはこれが事実であると認識しているのだ。少なくとも、無意識下では。

「この理論を応用し、無意識の認識を改変することで、博士は恣意的に世界を変容させることができる、と唱えています。無意識を究明するということはつまり、心のハードプロブレムを解き明かすことでしょう。それだけではありません。博士の理論によって、今後の様々な科学の発展が期待できます」

 動画はそう締めくくられていた。

 この動画はまさに六連星博士の理論をわかりやすくかみ砕いて説明した、チュートリアルに最適な動画になっていた。最低限の反駁とそれに対するカウンターこそ動画の中に用意されてはいたが、細かい点までのカヴァーにまでは手が回っていないこと(例えば赤道直下の人間の無意識は、遠く離れた土地の雪を知ることができるのか、など)と、あまりに突飛なその理屈は当初は嘲笑にさらされていた。当時大学の研究室に所属していた六連星博士がかつて代替現実ゲームの主催をしていたこともあり、現実と虚構の区別がつかなくなったと揶揄する声が多数上がった。

 だが、六連星博士の理論は間違っていなかった。間違っていないことが証明されてしまった。ある日開かれた会見の中で、博士は世界中の戦争を、貧困を、そして人種問題をなくすと宣言し、事実その瞬間に、あらゆる国、地域の紛争・戦争が講和によって終息したことが、全世界へと報じられた。

 もちろんそれが六連星博士の功績であるとするには、一つ問題があった。私たちには、改ざんされる以前の世界についてを知ることはできない。改ざんが成功してしまえば、ほとんどの場合改ざんしようとしたことすら、なかったことになってしまう。

 実際、それが博士の功績であるとは客観的には信じがたいことだった。むしろ、博士の功績ではないとする証拠の方が多い。何せ改ざんされた後のこの世界から見れば、あらかじめ世界の情勢は戦争がなくなるように動いていたという見方しかできないものなのだから。

 それでも、疑う者はいなかった。何せ、この地球上の人類すべてが博士によって植え付けられてしまったのだから。「すべての人間が、六連星の研究が技術的に可能であることを理解する」と。おそらくは博士自身が、無意識下でそのように認識したことによって。

 博士は自分の研究のために、その薬品の製法を公開している。シックス・アイ。認識を恣意的に行わせる薬品。世界を変容させるための手段である。

 そうして人々はクオリアを改ざんする手段を発見し、博士は自らの研究のために今もこの世界を書き換え続けているという。

「私はね、そういう意味では、博士は科学者ではないと考えているんです。実証によって事実を追究することなんて彼には興味がありません。事実なんて、いくらでも変えることができるんですから。それは彼の目的のための道具でしかないんです」

「目的……例の?」

 私もそれについては当然聞き及んでいる。いや、六連星博士の研究理念というものがあるなら、それに肉薄するべき唯一の材料が、まさにそれであり、彼の紹介を受けた世間が、唯一言葉でもって理解できた部分だったからだ。

「ええ。博士は、この世から愛を奪う方法を模索しているんです」

 愛。それこそが、六連星博士の研究の最大の目的であった。人間から愛を奪う方法を探す……先述の理論は、博士にとって、その目的を達成するための一つの道筋でしかない。先ほどの木下氏の言葉の意味がそれだ。

 愛の否定のために六連星博士は手始めに、愛という概念を消去しようと試みた。だが愛という言葉が消えうせただけで、それに代わる言葉が愛という概念に代入されたに過ぎなかったという。

 次に彼は様々な化学物質を破壊した。オキシトシンに始まり、ゴナドトロピンなどの生殖腺にかかわるステロイドホルモン、コルチゾール。それだけにとどまらずドーパミン、エンドルフィン、セロトニンなどの伝達物質を、そしてそれに対応するレセプターを世界から排除した。それでも定量的な成果は得られなかった。このあたりの研究の軌跡は、博士の研究報告が出版されているので、そこで読むことができる。なんらかの圧力が働いたか、それとも博士個人の意向によるものか、フィクションとして発表されたその本は、「今後は生殖形態を変質させることで、消去された愛の観測できるケースを探す。」という一文で締めくくられていた。

 なぜ、六連星博士が愛の破壊にそこまでの執着を持つのかは、誰も、満足な回答を得たことはなかった。博士自身にもわかっていないのかもしれない。わかっていることは彼にとって愛が存在しては困るような人生を送ってきたということだけであり、その理由については、私もさして関心がなかった。そう、私にとっても、六連星博士の研究は、自分の目的のための道筋に過ぎない。

「こちらです」

 大通りから外れた道をまっすぐに少し歩いたところで、木下氏は足を止めた。彼の身体が向いているのは、住宅街の真ん中にある、普通のマンションだった。個人的な研究所を構えているのは知っていたが、森の奥の洋館だとかそういった怪しげなところにたたずんでいるのを想像していただけに、少し拍子の抜ける思いだった。

「そういえば、まだうかがってませんでしたね。田中さんはなぜ先生にお会いに?」

 私は言いよどんだ。自分の目的を話してもいいものかどうか、ここに来るまで迷っていたのだ。だが、木下氏のこの問いかけも儀礼的なものだろうと判断した。彼はおそらく、そこまで他人に興味がない。彼に話したところで何も起きないだろう。

「お恥ずかしながら、妹を、生き返らせたいと思いまして」

「つまり、シックス・アイを使って、妹さんが亡くなったという事実をなかったことにしたい、と」

「ええ」

「そうですか」

 やはり、木下氏はそれきり興味を失ったようだった。

 エントランスのオートロックを解除し、私は導かれるままにガラスの自動ドアをくぐる。だが、木下氏はオートロックの前で立ち止まっていた。

「それでは、私はこれで」

「えっ」

 木下氏の顔をまじまじと見た。

「……博士が、ぜひ田中さんだけいらしてほしい、と」

 木下氏の物言いには、相変わらず含みがあるようだった。どうしてだろう。得たいが知れなくて、私は緊張した。

「では、ありがとうございました」

 木下氏に見送られながらエレベーターに乗り、動き出したところで私は、あらためて、先ほどもらった名刺を見返した。そこには、六連星研究室 木下賢人、と書かれていた。


>>>


 スバルのはるか後方から、雷鳴のように音が響いた。巨大な獣の咆哮である。

 振り向きざまにスバルは悟った。やつの声だ。この声を聞くのは、これで二回目だ。忘れもしない。ポーラが食われたその日。

 とっさに周りを見回すが、ここから見える位置にやつはいない。スバルは声のした方角へと走り出した。

 気持ちがはやる。はやく、はやくやつのところへ行かなくては。胸が躍る。スバルはまるで、神獣のもとへ行けばポーラに会えるような、そんな気持ちでいた。

 彼は、妹を愛していた。自分自身を愛するがごとく、深く、深く。

 このときのために、ここまで来たのだ。いつまでも感傷に浸っている場合ではない。ケントの死を、無駄にするわけにはいかない。短剣を握る力が強まる。指の内で、柄にまかれた布がこすれる感触がした。

 ここから西に二た月ほど歩いた村で手に入れた呪法をこらしたこれは、おそらくこの世で唯一、転生の獣に傷を負わせることのできる存在である。

 あの日から、十五年。最初の十年は、新たな命を得たはずのポーラを探す旅だった。それが成果のないものだと知れると、旅の目的は神獣を探し出すことに取って代わった。

 その当初は、なぜ神獣を探すのか、そしてそのために何をしたらいいのかすらわからなかった。ただ漠然と、神獣に会いに行けばいいという確信だけがあった。その先は? ポーラの魂の居場所を聞き出すのか? それとも、神獣に自分を食らわせ、ポーラと同様に転生するのか? スバルには何もわからなかった。

 そして偶然立ち寄ったある街の古老から、遠い昔に獣を殺した男の伝説を聞いた。不死の命を夢見た男は、神の獣を殺し、その肉を食らうことを目論見た。そこで獣の血を染み込ませた布を柄に巻いた刃物だけがそれを成せることを知り、実行に移した。男は獣を殺すことに成功し、その肉を食らった。だが、男は不死の命を手にすることはなかった。教訓も習わしも警句も見えない、漠然とした神話にも満たない昔話だ。それでも、スバルの進むべき道を作り出すのに、この物語は絶大な効力を発揮した。獣を殺すことができるならば、獣の呪縛からポーラを解放することができるのではないか――試してみる価値はある。

 だが、そのためには一つの障害があった。原理上獣を傷つけることはできない。刃を突き立てても、岩で押しつぶしても、獣は血の一滴もたらさない。刃をあてがえばそれがどんなに鋭かろうと獣の毛をなぜるだけであり、落とし穴に誘いそこに岩を落とせば、掘り返しても獣の姿はなくなっている。何か人間にはわからない力が働いているのは確実で、ようするに、獣を殺す手段はあれど、その手段を導くための手段が存在しないことになる。

 しかし、スバルは知っていた。獣の血を手に入れる手段を。

 故郷の村にいた少年のころ、獣の交尾を見たことがある。四つん這いになったメスにかぶさるようにまたがったオスが、尊厳なく嗚咽を吐き出しながら乱れたリズムで腰を打ち付けている姿だ。獣の果てた折り、だらしなく垂れ下がったイチモツを包む精液に混ざった深紅が滴り、相手のまたぐらの亀裂の中から、同様の体液がこぼれた。破瓜の流血である。

 スバルは、まっさらで丈夫な絹の布を調達すると、発情期が来るたびに獣を追跡し、その交尾を観察した。処女の獣があれば、情交の後に地に染みかけたその体液を布でふきとる。白かった布が一部のむらもなく染め上がるまで、108匹の獣の血を吸った。こうして神獣と戦うための術を手に入れ、スバルは交尾後の倦怠の中にある獣を八つ裂きに裂いて殺した。

 準備は整った。だが一つだけ問題があった。獣の呪法を施した短剣は、スバルにしか扱えなかった。一度ケントに手渡して試させたところ、刃は獣の毛一本をすら切り取ることはできなかった。同様に転生の獣を傷つけることをいとわない者を数人雇ったが結果は同じだった。

 転生の獣を殺すことは、自分にしかできない。その事実が、スバルを後押しした。転生の獣を殺せるということは、同種の存在である神獣を殺害することも可能なのではないか。ならば、死者の魂を解放することもできる。それができるのは自分だけであり、神獣より上位の、なんらかの存在――そんなものがいるならば――から言い渡された使命のように思えた。

 すべては、愛する妹のため。そして、その魂の安らぎのため。その大義こそが、スバルを突き動かした。この誰から見ても無謀な神殺しの旅へといざなった。

 それでもスバルの中に、何も葛藤がなかったわけではない。転生の獣を束ねる神獣こそが転生という概念そのものであり、それを殺すということは、人間を死の呪いから永遠に解放することになるかもしれない。だが逆に言えば、新たな命も生み出されなくなるということだ。死滅の否定が出生の否定に直結する。スバルがなすことによって、これから生まれる命がすべてなくなってしまうかもしれない。そんな壮大なことを、彼自身で決めてしまってもいいのだろうか。その悩みは常に付きまとった。自分の行いが、ポーラが転生し、スバルと再会することを阻害するのではないか。

 だが、それでも神獣に会いに行くことをやめることも、何も用意なしにすることもできなかった。この短剣を持っていることは、スバルの精神的な安定につながった。

 スバルは地を蹴り、木の間をくぐり抜け、川をさかのぼる。先ほどの咆哮で、だいたいの位置はつかめていた。やがて、岩をくりぬいたくぼみのような場所に、スバルの身の丈の五倍はあるその威容が、姿を現した。

 転生の獣をそのまま大きくしたような――いや、確かにその見た目は同様の種族であることが一目瞭然なほど似通っていたが、香箱座り――ネコ科の動物が寝そべるときそうするようにきれいに地面に並べられたその四本の脚はさらにたくましい。垂れ下がった細い眼尻が眼光の鋭さを増し、老獪さをありありと示す。針金のように太い毛は、巨躯の表面に浮かび上がるとまるで赤ん坊の産毛のようだった。そして、何より大きく違う箇所がある。その頭頂からまっすぐに天を摩する、巨大な角があること。転生の獣たちの中で、一線を画す存在であることは確実だった。

 スバルの頭に、一つの文句がよぎった。――神は自らの姿に似せて、人間を創った。どこで聞いたのかもわからないこの言葉にのっとるならば、人間とはスバルたちではなく、汚らしく糞を垂れ流すあの獣たちのことを指すのではないか。そんな連想が一瞬のうちに駆け巡ったが、スバルはすぐにそれを振り払った。そんなこと、今はどうでもいいのだ。

 目の前にあるのは、ようやくたどり着いた目標の姿だ。

 見間違えるはずもない。十五年前のあの日、あの晩。泣き叫ぶスバルの目の前で、すべてを諦念したポーラの成熟した肉付きのいい身体に牙を突き立て、肉をはがし、骨をしゃぶり、はらわたを引きずり出し、血をすすり、脳髄を舌の上で転がしてみせた、あの獣。転生の獣たちを束ねる、神獣。

 スバルは息が上がるのを感じた。ここまで全力疾走してきたからではなかった。あのときのあの絶望と憤怒が、まるで今目の前で起きたことのように胸の中によみがえってきたのだ。

 ポーラ。ポーラ。俺の妹。生命のすべてをかけて、守り抜くと決めた、血を分けた自分の半身。そして、彼に今相対するのは、それを奪い去った存在。

「……やっと、来たか」

 腹の奥底に直接響くような、荘厳な声が聞こえた。獣の声である。忘れもしないこの声。あのとき聞いたものと、同じ声だった。

「スバル。最後に会ったのは、十五年前だったな」

「俺のことを、覚えているのか」

 生命の、転生のすべてをつかさどる神獣が、いちいち、その命の一つ一つに頓着しているとは思っていなかった。

「私は産み落としたすべての命を記憶している」

「産み落とした……俺は、お前から産まれたのか?」

 当然、出生の記憶はない。どこかの獣に食われた誰かが、また獣から産み落とされて自分に――そしてポーラに――なったと思っていた。神獣は鷹揚にうなずいた。

「正確には、私の端末から、と言った方が確からしい。彼らの獲得した情報はすべて私にリンクし、集積されるようにプログラムが組まれている」

「つまり、個々の獣はお前の分身に過ぎない、ということか。そして、世界のすべての命が、お前から産まれた、と」

 気の遠くなる話だった。この星ができてからすべての命を記憶している。スバルには想像もつかない。

「獣。やつらは、人間から排除した生殖機能の外部化を目的に生み出したものだ。情報の集積は、私個人の興味による」

「興味、だと?」

 神獣は、ゆったりと耳の奥に沈み込むような声で、語り始めた。

「私がこの世界を、そして君たちを創造したことは、人間の間にも伝わっているだろう。君は自分たちがどうやって創造されたか、考えたことがあるか」

 スバルは黙っていた。考えないはずがない。自分は、ポーラは、なぜ生まれてきたのか。人の命はなぜあるのか。だがそんなもの、考えたって誰にもわかるはずはない。人がなぜ子孫を残すのか、明確な理由がないのと同じように。

「私は自分の研究の臨床のために、この世界を作った。君たちのすべての行動は死後、貴重なデータとして私のもとに送信される。私は君たちの生態を観察するために、この世界を作り上げた」

「俺たちの存在する理由は、お前に観測されるためだ、っていうのか」

「私にとってはな。君たちに固有の理由は、君たち自身が見出すものだ。そこも含め、私の研究対象になる」

「お前は一体、何を知りたいんだ。なんのためにこの世界を作ったんだ」

「愛だ」

 スバルは面食らった。神獣の言葉が、何を意味する単語か一瞬わからなかった。神獣はなおも淡々と、言葉を続ける。

「私は人間の愛というものに興味がある。愛というのは人間固有の概念だ。私や、ほかの動物には、ない。人間同様の意識を持つ生命体を作ったことが、何度かあった。それでも彼らが、君たちの言う愛に相当する概念を発明したことはなかった。いや、私たちには、そもそも愛という概念が理解できない。愛という存在の作用についてはさすがに学習できた。だが、それまでだ。それがなんなのかまではわからない。私は、愛を知らないのだ。それ故に、知りたい」

 少し、神獣に親近感が芽生えつつあった。ひょっとすると、ポーラのことも話せばわかってくれるかもしれないという淡い期待が芽生えた。スバルの、妹への愛情を理解してくれるのではないかと。

「私は愛を食らわなければならない。私自身には、食べたものの情報を取得する機能が備わっている。純度の高い愛を抽出し、愛そのものを味わう。そうすることで私は愛がなんなのか、本質的に理解することができる。そのためには、その構造がなんなのか知らなくてはならない。それが私の至上命題だ。人間が愛を表すとき、どんな化学反応が起こるのか。人間の意識を構成する他の要素と分化可能なのか。愛そのものと呼べる物質は抽出可能なのか。究明しなくてはいけない問題は山ほどある。この世界は、それを明らかにするためのモデルケースの一つだが、君の存在は中でもとりわけ、興味深いものだ」

 まるで獣が、ほかにもあまたの世界を創造して今なお管理しているかのような口ぶりだった。それに、彼はスバルに特に興味を持っているという。僧侶だった父が知ったら、うらやむだろうか。

「神獣よ、愛を知って、どうしたいんだ?」

 短剣を握る力が、先ほどより弛緩していた。スバルは初めて神獣に、彼の発言の確認以上の意味を持つ問いをかけた。それは確かに、対話だった。相手の発言を理解し、その先の概念にまで想像を巡らせることが可能である。その事実が、純粋に会話を楽しむだけのゆとりをスバルに生じさせていた。

 神獣は、少しの間考えている風だった。何を言おうか考えているというより、スバルに話すべきかどうか検証しているような風だった。彼は、すぐに口を開いた。

「愛という概念は、不確定要素の塊だ」

 突如、神獣の肩の膚が蠕動した。毛皮に鎧われていたそこはぶよぶよとしたゼラチン質の物質に変わり、やがて硬質な凹凸ができた。その凹凸には、見覚えがあった。

 眼窩は落ちくぼみ、その隙間には牙のような凹凸が生えている。口を開くと、そこから無数の手足が、こちらへ手招きするように突き出してきた。それでも、長年旅をしてきたスバルにはわかる。それは、ケントの顔だった。ケントの顔は、神獣の言葉を継いで、ゆっくりと語り始めた。

「そして、貴様たち人間固有の特性と言ってもいい。その未知数な存在を人間だけが持っているということが不思議でしょうがない。私はその謎を究明し、そして、人間から愛という存在を抹消する」

「なに……?」

 スバルは、言葉を失った。愛を抹消するだって? 神獣の――ケントの顔から出た返答は、スバルの気持ちを、真向から跳ね返すものであった。

「私の内部に幾多の人間のアーカイブがストレージされている。その話はしただろう。それを撹拌し一人分に直し、その情報を端末へ再送信する。そうして新たな命を産む。塩基配列をはじめとする情報因子のパターニングを行い、愛の発生しない組み合わせを探り出すのだ」

 ケントの顔はなおも語り続ける。

「君たちから、愛を奪うために」

「そんなことが許されるか」

 スバルは叫んだ。そんなこと、させてたまるかと思った。

「愛とは人の営みそのものだ。愛があるから人は生きる。人が生きるから愛が芽生える。それだけの単純な話だ。人間から愛を奪ってしまったら、それはもはや人間ではない」

 ポーラが食われてからの十五年間、スバルは神獣を憎しみ続けてきた。その憎しみは、妹への愛に裏打ちされた感情だった。愛なくしては憎しみも生まれない。妹を亡くしたスバルはこの十五年間、死んだ彼女の分も、人間らしく、生きてやると誓ってきた。愛そのもののために生きてきたといって過言ではない。

 神獣の逆の肩に、今度は別の顔が浮かび上がった。あの短剣の製法の昔話を語ってくれた、古老の顔だった。古老の眼窩は、ケントと同じように空洞だったが、頬や額や首筋に、無数の眼球が生えていた。それらが、一斉にスバルをにらんだ。

「その理屈のどこに、客観性がある? 愛とは、私の端末の尻からひりだされた糞の中に生じた予期せぬ副産物……バグでしかないのだ」

「それとてもっ、それこそが愛と人間を分けることができない証拠じゃないか!」

「そうやって感情的になることも、愛のなせる業、か」

 スバルは、短剣を握りなおした。胸が燃え上がるように熱くなり、視界が狭まっていくのを感じた。神獣を説得することをまだあきらめきれていなかったが、自分の感情への制御がきかない。今すぐにでも飛びつきたくなる気持ちを、必死になってこらえていた。

「神獣よ、お前は愛を知りたいと言った。人間固有の特性だとも。だったら、お前たちも愛を知ればいいじゃないか。人間と同じ営みを知っていく。そういう風にはできないのか」

 呼吸が荒くなるのを感じ取っていた。それでも理性的にふるまおうとする自分を、スバルは客観的に見ていた。ポーラのためだ。なんとか丸め込めば、彼女を生き返らせることに乗ってくれやしないか。そんな打算もあった。感情が表に出ることは仕方がない。それを悟られたところで、収拾をつければいいだけだった。

「馬鹿な」

 だが、神獣は鼻で笑った。

「君たち人間のように、だと? 誰がなりたいものか。愛などという独善的で利己的なものをなぜ、よりどころにできる」

「だが、愛は人間に大きな力をもたらす。それはお前も知っているだろう?」

 神獣は、また笑った。

「君の言うような側面もあるだろう。だが、私はそこに懐疑的なのだ。君たちが愛と呼ぶものが、枷になることも多い。愛故に愚行を働く者も。ならば人間から愛というものを取り上げたら、何が起こるのか。それを観測してからでないと、効用というものは定量化しえない」

「それでも俺は、愛の力を、信じているんだよ……!」

「それが主観だというのだっ!」

 獣の怒号とともに突風が吹きすぎる。外套がはためき飛ばされそうになるのを、足をふんばってぐっとこらえた。

 スバルは短剣を、あらためて握りなおした。やはり、戦うしかないのか。

 ここにきて、自分が怖気づくのを感じた。この途方もない創造主を、本当に殺すことができるのだろうか。獣など、神獣の手足……いや、毛の一本でしかない。さっきまで苦戦をし、ケントの命まで奪った獣の親玉を、本当に自分は殺れるのか?

 スバルは、意識して迷いを打ち払った。考えたところで仕方がない。どうせ、ここに来たときから、死ぬことも織り込み済みだ。今できることを、するだけだ。

 だが、その前に、聞いておかねばならないことがあった。スバルは口を開きかけた。だが、神獣の言葉がそれを遮った。

「君は、妹の魂のありかを聞きに来たのだろう」

 神獣にはすべてお見通しだった。神獣が山ほどたくさんの人間を見てきたことを考えれば、それも簡単にわかってしまうことなのだろう。スバルは、獣をにらみつけたままうなずいた。これこそが、スバルがここへ来た本題なのだ。

「転生して、どこかで幸せに暮らしているのか?」

「君の妹の情報はなかなか興味深い情報だった。貴重なサンプルとしてまだ私の中に残っている」

 ぞくり、と、毛がよだつのを感じた。やはり、そうか。そうだったのか。神獣に食らわれた命は転生をしない。ある地方の伝説にはそうあった。それが事実であったことが、今明らかになった。

「非常に興味深いデータだ。サンプルとして私のストレージに圧縮保存してある」

 やはり、こいつの中に、ポーラがいる。スバルは全身に血が巡っていくのを感じる。体温が上がる。身体が戦闘態勢に入る。こいつを、殺さなくてはいけない。

「殺ってやる。そして、ポーラの魂を解放するんだ。永遠に」

「いいのか? 私が死ねば、彼女の転生の機会は失われる」

「ポーラは、お前の中で消化されて、違う人と混ぜ合わさり、まったく別の人間になってしまうんだろう? 俺の妹は、再びこの世に現れることはない。ならば、執着などない。お前にとらわれた彼女の魂を、解放するんだ」

 もとより、そのつもりだった。彼女の魂の解放。説得が失敗した以上、スバルに残されている手段は、神獣を殺すことしかなかった。

「ふむ……そう、か」

 神獣は、大きくため息をついた。腐ったどぶ川のような臭いが、スバルの鼻をついた。

「やはり、愛というのは愚かな所業だ」

 神獣の胸板が歪む。岩のようなごつごつとした物質が隆起したかと思うと、氷が解けていくかのように、その物質は、意味のある形を獲得し始めた。

「貴様……っ」

 スバルは、絶叫しそうになるのをこらえた。

「かかってこい。君を新たなサンプルとして、取り込んでやる」

 できたばかりの顔。ポーラの姿をしたそれが、言った。


<<<


 インターフォンを押すと、スピーカーから陰気そうな男の声が短く「どうぞ」と告げた。取っ手を引くと、鍵はかかっていなかった。

「ようこそ、田中さん。六連星だ」

 禿頭の男が、廊下の戸の陰から顔をのぞかせた。愛想のない声だったが、一応は歓迎されているようだ。私はびくびくしながら会釈した。

「はじめまして。田中と申します。本日はお忙しいところをありがとうございます」

 通り一遍の挨拶を、つまらなそうに一瞥する六連星博士。彼のメガネの下には、垂れ下がった瞼の下から眼光がちらついている。

「こちらへ」

 言われるがままにリビングに入り、その内装に少し面食らった。

 部屋の中央には、応接用と思しい、申し訳程度の一人用ソファが三脚、ローテーブルの周りに配置されている。そこまではいい。そのほかのほとんどのスペースはシルバーラックの棚が占めており、すべての段にカットされた毛布が敷かれ、その上には大小あるいくつかの水晶が乗っていた。そしてその一つ一つには、なんの映像だろうか、自然の景色や、異国風の街並みが投影されている。注意して見てみたが、配線らしきものはつながっていない。無線LANに接続されているのだろうかと思ったが、受信しそうな装置も見当たらない。異様な空間だった。

 独立して大学を離れ、マンションの一室に研究室を構えているくらいだから、もっと最低限の設備だけで機能的に整えられているか、逆に様々な道具が所せましと並べられているものだと思っていたが、このおびただしい数の水晶が、なんのためのものかも、そしてどういう技術が使われているのかすらも、私には理解できなかった。

 圧倒されかけたところで博士に促されてソファに腰かけた。色とりどりの水晶はここからも見ることができた。一つ一つをじっくり見てみると、ある程度の似通った風景がまとめられているようだ。私が水晶に気を取られていると、キッチンから、盆に湯呑を載せて女性がやってきた。私はまた会釈をして、湯呑を受け取った。

「彼女はポーラ。身の回りの世話をしてもらっている」

「はじめまして」

「……どうも」

「……何か?」

「いえ、なんでもないです」

 彼女とは、どこかで会ったような気がしたが、いくら記憶をひっくり返しても、思い出せなかった。私はあきらめて、博士に向き直った。

「あのう、六連星博士。この水晶はなんなんですか?」

「異世界のサンプルだよ」

「異世界?」

「ああ。私の理論については……当然知っているだろうな」

 六連星博士は、水晶を一個、取り出してきた。中をのぞき込むと、大きな外套に身を包んだ、私と同じくらいの年恰好の男が、短剣を手にして巨大な豚のような獣と対峙している。ファンタジー映画みたいな光景だった。水晶を受け取ると、手から直接、その光景の音声が聞こえてきた。相変わらずどういう力が作用しているかはわからなかったが、そういうものなのだろう。どこか六連星に似たその獣は、人間の言葉をしゃべっている。

「識差の理屈を応用して、作り出した異世界をこうやって水晶の中に閉じ込めた。こうやって私は、事象を観測して、臨床の材料にしている」

 なるほどと思った。六連星博士の研究ならば、異世界を構築しこうして観測することも容易だろう。水晶の中に展開された世界とは、まるっきり魔術の領域だった。

「実世界ではいくらサンプルの世界を作っても追いつかない。そこで、まるまる世界を作り上げてしまうことを考えたんだ」

「へえ、それで、今はどういった研究を?」

 私は少し世間話を続けるつもりで、問いかけた。先述の研究報告の本以降の六連星博士の軌跡が参照できない状態だったため、多少興味があったのも事実だ。

「正直、行き詰っていてね。とにかく思いついたことをすべて試している状況だ。それで、今日はなんの用かな?」

 私は居住まいをただした。

「実は、妹を蘇生させたいんです」

「ふむ。つまり、一人の人間の死をなかったことにしたいと」

「ええ。可能でしょうか」

「もちろん。現にそういう願いをかけて人間をよみがえらせた人は山ほどいる」

「ですが、その」

 私は言いよどんだ。博士はそう言うが、私は自分の妹の蘇生に失敗している。その記憶を持っている。ということは、成功したためしはないということだ。

 ここが六連星博士の研究の奇妙な点だ。成功したという例を知覚できないということは、誰もその正しさを実証することはできない。だが、失敗した、という例は、私の知る限り広大なネットの海の上ですらあったためしはないのだ。

「シックス・アイは、試したようだな」

「ええ」

「すまんが、私の前でやってみてはくれないか」

 博士は、薬剤で満たされた注射器を差し出して見せた。いつの間にか傍らには、ポーラと呼ばれた女性が控えている。

「わかりました」

 私は注射器を彼女に手渡す。その瞬間、手が触れあった。

「使い方は、わかるな」

「注射を打つ直前と直後に、自分の無意識の変換したい部分を端的に言語表現する、ですよね」

「ああ。やってみてくれ」

 彼女が、私のスーツをまくり、腕を露出させた。ガーゼで念入りに消毒し、針を腕に刺す。

「お願いする」

 六連星の言葉を合図に、私は頭の中で、強く念じながら言った。

「妹は生きている」

 血管に薬剤が満ちるのを感じた。肉体に、シックス・アイが浸透しているのだ。薬剤が身体の中に溶けたのを確認してから、私はもう一度言った。

「妹は生きている」

 強く、強く念じた。

 しかし、何も起きなかった。私がまだここにいることが、何よりの証拠だった。

 妹が生きているように世界が変革されたのであれば、私が今この部屋にこうしている動機は消滅する。つまりは世界が変わったならば、妹が死んだことを忘れ、ここではないどこかで過ごしているはずなのだ。

 それが、なかった。つまりは失敗したのだ。

「ふむ……よくわかった」

 六連星博士は、口ひげをなでながらうなずいた。さほど興味がなさそうにも見えたが、天才の考えていることだ、実際のところは、わかりはしない。

「少し君の行動をモニターさせてくれ。ここでくつろいでいてくれるだけでいい。なんなら、私の研究でも見ていてくれ」

 私は、先ほど手渡された水晶を再びのぞき込んだ。男はなおも獣と話していた。

「今一番面白いのが、それなんだ」

 漏れ聞こえてくる獣の発言が、六連星博士の思想と似通っていることは私も気づいていた。獣は自分を世界の創造主とも呼んでいる。ということは、この獣は六連星博士の意思を反映したアバターなのだろうと思った。水晶の中では、獣の咆哮に合わせ、男が手にした剣を握りなおすのが見えた。


>>>


 獣の初撃。爪による薙ぎ払いは、スバルにかすりもしない軌道だった。こちらの体力を無為に消費させる作戦だろうと、スバルは思った。スバルは地を蹴ると、獣の腕に降り、肩へかけ昇っていった。獣は腕を振り回した。毛を掴むことでこらえようとしたが、スバルの手にした部分からちぎれ、そのまま横の木にたたきつけられてしまった。

 しばし、呼吸が止まる。肺を打ったか。力が入らないが、立ち上がらないといけない。木を支えによろよろと立ち上がったところに再び風を伴った爪が迫りくる。スバルはひざを折って、地面に倒れ込むことでかわす。かわしたのか単に当たらなかったのかすら、自分でも区別がつかなかった。

 戦闘が始まってから、まだ十数秒で、このありさまだった。次の攻撃が来たら、耐えられないのは明白だった。

 しかし獣の次撃は、来なかった。肺が回復してきて、スバルは呼吸を整えながら立ち上がった。それを待っていたかのように獣は――ポーラの顔で――口を開いた。

「スバル。君は、妹と寝ただろう」

 どくん。急激に動悸が激しくなったのは、酸素が足りていないからではないだろう。

「なっ……」

 スバルは、足から力が抜けるのを感じた。

「私に最も理解できないのはそれだ。性交、それはもともと生殖のための行いだ。生殖機能を排除されたお前たちが、なぜそれをする必要がある? 快楽の利害が一致したためか? それとも興味本位の動物の模倣か? だが、人間は身体を重ねる人間を選ぶ。自分の伴侶に対して運命を設定し、その相手と寝ることで快楽とは別種の幸福を感じ取る。私には恣意的に意味を見出しているようにしか見えない。感情を根拠にして、自らの利益をわざわざ損ねているようにしかな」

 何も、言い返すことができなかった。汗がだくだくと流れ出し、頭が緩やかに締め付けられていく感覚が襲ってくる。同時にポーラの柔らかい肌、甘い香り、恥じらいの混ざった淡い息遣い。十五年以上触れることのできなかったそれらの記憶が、一挙に押し寄せてきた。そのヴィジョンを見る自分に、スバルは吐き気を催した。

「それだ、君の焦りだ。なぜ、そのような背徳感に襲われる。そんなに妹と交合することは、秘匿したいことなのか。なぜ、君たち人間は近親相姦を禁忌としたのか? 生殖行為を持たない以上、儀礼的忌避以上の意図が見出せない。その気になれば親や子供とまぐわうことだって可能だろう。君たちはすべて獣から――私から生まれた。すべての人類が同胞だ。そこに社会形態上の役割でしかない家族との交合のみを禁忌とする必然性は存在しない。自分勝手に状況を設定して、それに翻弄される。そんな様を見せられても、愚かというほかない」

「くっ……」

 スバルは何か言おうとした、だが何も言えなかった。神獣の言いたいことは、わかっていた。愛というのは単なる現象へ付けられた名前でしかなく、人智を超えた能力を人に付与するような存在ではないことを。

 愛を持ち戦っても、愛を持たぬ者の前に敗れることもある。それを今、身につまされて、嫌と言うほど理解していた。絶望しかなかった。神獣に何かを反駁するような、そんな気力さえ、萎えかけていた。

「そして、私はあいにく全知ではないが、能力においては全能だ。その気になればこの瞬間に君を消し去ることもできる。それがわからないわけじゃないだろう? この彼我の戦力差を無視し、立ち向かう。妹への愛――私は執着と区別がつかないが――そんなもののために、だ。単なる、自殺ではないか」

「黙れ!」

 やっとのことで絞り出したスバルの声は、ほとんど絶叫に近かった。

「それが、それが人間なんだ……それが……人間なんだよ……」

「漠然としすぎている。話にならないな。それが、君たちが愛と呼ぶものか。醜い。そして愚かだ」

 神獣の攻撃が命中する。爪で足を裂かれ、スバルは体勢を崩してその場に倒れ込んだ。恐怖しかなかった。神獣の言う通りだ。自分は、なんと愚かなのだろうか。

「生と性を具有するのが生命だ。この世界における人間はそれを分離させられた状態で誕生する。いわば不具の生命だ」

 神獣はスバルの足をしゃぶりながら、今度は腕をもいだ。血しぶきを上げながらそれが宙を舞うのを、スバルは茫然と眺めていた。

「なぜ、端末たちが君にしか傷つけることができないか、考えたことがあるか?」

 スバルには答えることもままならない。ただ、自分の失われた手足を見ているだけだ。これでは、腹が減っても飯を食うことができない。歩くことだって。いや、案外、切られた部分を器用に使えば、さして支障もないかもしれない……

「それはな、君が禁忌を犯したからだ。人間が家族を作ること。性交すること。家族との性交を禁止すること。そして、その禁忌を自ら破ること。これは私のシステムに想定されない行動だ。その予期せぬ行動が複合的に起因したのだ。獣を殺傷せしめるというバグを、な」

 神獣が、スバルの残った方の腕をつまみ上げた。そこには、あの獣殺しの短剣が握られている。腕に爪を突き立てられ、スバルはようやく、自分が捕食されていることを思い出す。

「君の持つその短剣は、神を討つために天に与えられた聖剣などではない。ただの、世界のシステムが起こしたエラーなのだ」

 言葉と同時に、神獣は彼の腕を力任せに引き裂いた。腕が、上腕から指の股にかけて真っ二つに裂かれた。

 これは、罰だ。身体が感じる痛み以上の苦痛の中で、スバルは思った。どんな理由があれ、神に挑んだことへの。

 この十五年間、自分は何をしてきたんだ。神獣の言う通り、それはゆるやかな自殺ではないか。なぜこんなことを、自分はしたのだろうか。ポーラへの愛すら、漠然と揺らぎ始めていた。

「それが愛の力だと言うなら、その力で私を倒してみろ」

 スバルは腹を食い破られるのを感じた。

 それでもスバルは、もはや人差し指と親指にしか力の入らない手で短剣を握り直し、振り上げた。なんのために振るっているのかもわからないまま、刃を、獣の肌に突き立てた。

 だが、がきっ、という音とともに、刃はその毛並みに阻まれた。いくら力を込めても、皮へ届くことすらなかった。急速に抜けかけていた力が、完全にスバルの身体から失われた。

 血まみれの腕がだらしなく垂れ下がった。短剣を握る力すら、残ってはいなかった。スバルの手を離れた短剣が、獣の毛皮を滑り落ちていき、岩肌にあたるこつん、という音だけは、スバルにも聞こえた。

「君は再び私のもとに還る。新たな塩基配列を伴ってこの世にまた産みなおされるのだ。君が君であるのは、この瞬間までだ」

 神獣の言葉は、スバルの耳には届いていなかった。もはや何かを考えるだけの血が脳に廻らないまま、スバルはだらしなく垂れ下がった自分の内臓を眺めていた。

「さようならだ。そして、また、会おう。タナカ・スバルくん」


<<<


 私はそこで、水晶を取り落とした。ごとり、と大きな音を立てた水晶は、床の上をころころと転がった。六連星が、それを拾い上げた。

「どうだ、面白いだろう? ……田中昴くん」

 六連星は、にやにやと笑っていた。その笑みは、水晶の中の獣のものと、そっくりだった。

 なんだ、これは。この胡散臭い研究室に招き入れられて、グロテスクなものを見せられたと思ったら、登場人物が、私の名前を呼んだ。悪趣味にも、ほどがあった。

「博士、一体……なんなんですか、この世界は。なぜ、私の名前が」

 六連星博士が、私の名前をこの男に設定した。この不愉快ないたずらのために?

 私は、水晶の中で肉塊になった男を見た。タナカ・スバルと呼ばれた男。肌に刻まれたしわに比べると、ずいぶん幼い顔をしている。まるで人生をどこかに置いてきたみたいに未熟な顔つき。咀嚼される身体から、頭がぽろんと転がり落ちた。半目で、眠っているような表情だった。

 この間抜けな顔が、私のはずがない。そう思った。自分はもっと相応の年輪を重ねた顔つきをしている。確かに年恰好は似ているが、このタナカ・スバルが、私であるわけはない。

 そこまで考えて、私はある重大な事実に気が付いた。

 私は――俺は、自分の顔を、思い出せない。

 それどころではない。俺は自分の、これまでの記憶がまったくないことに気が付いた。幼いころどこで何をしていたのか。どんな青春を送ってきたのか。今どんな仕事をしているのか。

 いくら頭を抱えても、何一つ思い出すことはできなかった。ただ、妹を生き返らせたいという願望のみが通奏低音のように、俺の意識の表層にうすっぺらくへばりついている。

 俺は愕然とした。田中昴という人間の痕跡など、何もなかった。その代わりに、タカナ・スバルとしての記憶が、嫌というほどはっきりと、頭の中に浮かんでくる。両親のこと。村での暮らし。そしてポーラ。ポーラを失ってからの十五年間。それらが一挙に、自分の中によみがえってきた。

 同時に、あのとき相対した、神獣への恐怖がむくむくと湧き上がってきた。俺は汗が噴出し、足ががくがくと震えるのを感じた。

「思い出したようだな」

 六連星の口から、低く、重々しい声が響く。その口が大きく歪むと、次の瞬間には大きな牙が生える。気が付くと彼の身体中をむくむくと体毛が包み始める。初めは肌から。そして衣服までもが。それに同調して背中が曲がり、手足が縮み、胴が太まった。最後に額から、太く、そして高い高い角が生えると、そこにいたのは、もはや六連星博士ではなかった。サイズこそ違えど、俺にとってよく、見覚えのあるものだった。

「私は君が――タナカ・スバルが、神獣と呼んだ存在だ」

「じゃあ、俺は――」

「今見ていただろう? 君は私に食われた。今の君は、私の腹の中で転生の間に見ている夢だ」

 神獣は鷹揚にうなずくと、俺が取りこぼした水晶を拾い上げて、愛でるようにその表面をなでた。

「君からの情報の抽出は終わった。これからしかるべき手段でほかの人格と組み合わさったのち、排泄される。新たな命として」

 夢。これが夢であるならば、認識による世界の改変なんて荒唐無稽な技術にも、説明がつく。夢なんて、不安定なものなのだ。だが、そんなこと、信じられない。

「お前がそういう風に、世界を書き換えたのか。世界を、そのおとぎ話みたいな代物に。そして、現実を夢とすり替えた……」

「試してみるかい?」

 神獣は、薬剤で満たされた注射器を投げて寄越した。シックス・アイ。世界を書き換えるための、道具。

 俺は、手を伸ばせなかった。何もためらうことはないはずだった。だが、身体は動かない。注射器に手を伸ばすことすらできなかった。

「俺が、俺が何もできないように書き換えた――そうだろ? いや、さっきの注射か。あれはシックス・アイじゃない別の何かなんだ。それでこんな幻覚を見ている。そうなんだと言え! 何が狙いなんだ!」

「君も疑い深いな」 

 神獣はあきれているようだった。やれやれと目を伏せ首を振るその姿に、一つの影が重なった。ずっとそばで控えていた人影が、彼の前に出たのだ。

「ポーラ」

 神獣のお手伝い……いや、今なら俺にもわかる。ほかでもない俺の妹が、こちらに近寄ってくる。シックス・アイを試したところで、妹が生き返るはずがないのも当然だ。なにせ、彼女は俺の目の前にいたのだから。

 ポーラのその無表情な硬い目線がまっすぐ俺に向いている。一歩一歩、この世界を――神獣の腹の中という夢を、かみしめるように、確かめるように、ゆっくり俺に近づいてくる。

「君のその妹への執着は、非常に興味深い。だから望みをかなえてやろうと思うんだ。ご覧の通り彼女の情報は手つかずで残っている。撹拌を行うのは、君とポーラの情報のみにしてあげよう」

 ポーラが、手を伸ばしていた。俺は本能的に身をかわそうとしたが、やはり動くことはできなかった。目線はポーラを凝視して離れなかった。

「何を……」

「慈悲ではない。私自身の研究のためだ。もともと、君たち兄妹は、実験のために一人の人間を二人分に薄めて排泄した存在だった。これは実験の第2ラウンドということだ」

 彼女が少し、笑った気がした。

 彼女の手が、俺の頬に触ると、両者はどろりと溶けていった。融和していくのを感じる。意識が遠のいていく。溶けた部分から、神経が拡散していく。口どけする砂糖菓子に感じるような心地よさを、触覚が訴える。侵される部位は、なおも面積を増していく。

 ポーラの肩が、胴が、足が、俺に同化していく。融和が進むにつれ、対照的に知覚が鋭敏になっていく。視界がどんどん鮮明になり、ポーラの毛穴の一つ一つまでがよく見えた。

 あれほどまでに渇望した彼女が目の前に迫っても、俺は、自分の意識のありどころをまったく覚えられずにいた。ただ無感情に――いや、薄く引き伸ばされた多幸感に包まれながら、交合の瞬間のように、彼女との同化を楽しんでいた。

 知覚の鋭敏さと対照的に、意識は急速に薄らいでいく。全身は射精中の快楽と射精後の倦怠感をないまぜにしたような感覚に包まれている。俺は、初めてポーラを抱いた夜の快感を思い出していた。

 そのまま、ポーラの頭が、俺に重なった。快楽――いや、それすらも通り越した言いしれぬこの幸福は、絶頂に達した。その瞬間、驚くほど明晰に開けた俺の頭が、ある想念を獲得した。神獣は、愛を理解できないと言った。だから消したいのだと。

 愛なんてものは理解できるものではない。理屈を並べ立てたところでどうにかなるものじゃない。だがあえて言葉にするとしたら、いくら消そうとしても、つぶそうとしても、なかったことにしようとしても、虚無から滾々と湧き出してくるこの自然なる感情を、愛と呼ぶんだ。

 俺は生まれ変わっても、ポーラを愛し続ける。この愛はどんなことがあっても消滅しない。なぜなら、命が生きているから命であるのと同様に、愛は消えないからこそ愛なのだから。ポーラと一つになった瞬間に、その確信が、怒涛のように俺の内側から湧き上がってきた。

 脳が直接空気振動を拾っているように、神獣の声が響いた。

「ハッピー、バースデイ」

 それが俺の、タナカ・スバルの、本当に、今生での最後の記憶だった。


>>>


 ある月、ある日のある朝。祝言を終えた夫婦が、神獣の森に入っていった。長い雨の後の、よく晴れた日のことだった。

 朝露に濡れた木々の間を、夫婦は歩いていく。あたりを見回しながら。自分たちの、新しい家族を探しながら。

「ほら、あなた」

 妻が、はしゃぎながら夫に声をかける。夫が彼女の指さす方に目を向けると、二人の赤ん坊が、大きな岩の間で、安らかに寝息を立てていた。

 夫は自分の伴侶にやさしく微笑みかけると、大きな腕を伸ばして、二人の赤ん坊を抱え上げる。二人の赤ん坊は、まるでずっとそうしていたみたいに、夫の腕の中で安心しきった寝顔をさらしている。

「この子たち、笑ってるわ。幸せそうに……」

 和やかな表情の赤ん坊の頬を、妻がつつく。

 二人の赤ん坊は、お互い無垢な表情を浮かべながら、しっかりと、手を取り合っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Sin Eater(短編) 平群泰道 @aion-soph-aur

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る