アリアドネの憂鬱
栗栖紗那
第1話
しかし、人が良すぎるんじゃないかと思う。それに、名前が若干狙ったようで、まるで生まれた時から運命が決まっているんじゃないかと心配になってくる。いやまあ、俺ごときが心配したところで何も変わらないのだが。
進行方向向かって左の窓際。思いつめた表情の少女と艶やかな黒髪を肩口で切りそろえた少女。後者が音取だ。せっかくの黒髪だ。伸ばせばいいのに、と常々思う。まあ、手入れが大変かもしれないが。
歩調を緩めるような下世話な真似もしなかったが、だからと言って足早に立ち去ることもしなかったせいか、相談の内容が耳に入る。しどろもどろで若干要領を得ない、というか、途中から話が別の方向に飛んでいったが、要するに好きな人に告白したいらしい。
人を好きになることを否定する気は毛頭ない。せいぜい頑張ってくれ。
興味が失せる以前に、耳に入っただけの情報だ。俺はそのまま何事もなく帰路についた。
次の日はなんの変哲もない日だった。教室に入っても声をかけてくる級友がいないことも、昼休みに屋上で一人食事と読書に耽けるのも変わらない。ただ、放課後が少し違った。
「なんですか?」
さっさと帰ろうと思ったら、なぜか担任に呼び止められた。
「少し時間あるか?」
「多少なら」
「そうか、なら良かった。手間かもしれないが、帰り際にこれを保健の先生に届けて欲しい。先生、用事があってな。すまんが頼む」
手渡されたのは学校の名前が印刷された茶封筒。
「それぐらいなら」
「ああ、頼む」
そう言って、先生はさっさと教室を出て行った。回り道にはなるが、大した手間でもない。とっとと届けて、帰るとしよう。
だが、保健室に行くと目当ての人物はいなかった。部屋そのものは開いているが、入口に校内にいることを示す札が掛けられていた。探しに行こうかと思ったが、どこにいるかもわからないのに闇雲に探すのは無駄だ。すれ違いの可能性もある。待つにしてもそんなに長い時間不在でいることもないだろうと判断し、俺は丸椅子に腰掛け、読みかけの本を開いた。
ああ、前髪が邪魔だ。カバンからヘアピンを取り出し、適当に分けた髪を押さえる。
騒音未満、静寂以上。運動部の掛け声や吹奏楽部や軽音部の練習の音が聞こえてくる。ちなみに、保健室は体育中の怪我を考慮してか、校庭に面しているため、運動部の姿を見ることができる。
読書開始から十分経過。まだ戻ってこない。往復時間なども鑑みるとまだ時間はかかるかもしれない。そう割り切り、読書を継続。
さらに三十分経過。ちょっと、という時間ではなくなってきた。が、まあ、許容範囲内だと考え、しかし若干読書に飽きてきたので窓の外をぼーっと眺める。五月のやや気温の上がってきた頃だが、夏に比べれば遥かに過ごしやすい。
扉の開く音がした。先生が戻ってきたのかと思いきや、振り返ってみて目に入ったのは少女。制服の上にエプロンを重ねて着ており、料理研だと思われた。見れば、指を押さえており、どうやら切ったらしい。
「先生はいないぞ」
「へ? ああ、そう、みたいですね……」
つい、と視線を逸らされた。えっ、地味にショック。
「消毒液とか使っていいのかな? 使っていいなら、俺がやるけど」
「前に聞いたときは使っていいと言われましたけど。でも、えっと、その……アナタが?」
「そりゃ、見ず知らずの男に手当されるのも嫌だろうけど、ほっとくわけにもいかないだろ。自分で出来そうならそれでいいが」
どうする、と視線で問いかけると、
「じゃあ、お願いします」
そう、小さい声で返事が返ってきた。
丸椅子に座らせ、手をアルコール消毒してからピンセットで脱脂綿を摘み、消毒液に浸す。
「どこ?」
おずおずと差し出される指には浅いが確かな傷があり、赤が滲んでいた。
「染みるからな」
「ッ」
なるべく優しくしたつもりだが、消毒液が染みる痛さが変わるわけでもない。少女はぴくりと肩を強ばらせ、声を押し殺した。
蓋付のゴミ箱に脱脂綿を放り込み、水に強いらしい市販の絆創膏を貼る。
「これでいいだろ」
「……ありがと」
「どういたしまして」
少女はぺこりと頭を下げると、そそくさと保健室を出て行った。
俺は頭を掻き、そしてため息をつく。
「ふわぁ……」
あくびの声。いや、断じて俺じゃない。あくびが恥とも思ってないが、とりあえず俺じゃない。ということは、保健室に人がいるということだ。そういえば、ベッドのカーテンが閉まっていることに今更ながら気がついた。誰か寝てたということか。
しかし、俺よりも早くからここにいるということは、授業後のホームルームに出席していなかったか、よほど急いでここに来たことになるのだが。
布団が擦れる音と、そして僅かに衣擦れの音。それに続いて、やや覚束無いような不規則な足音が続き、カーテンが開いた。
「あっ」
俺は思わず声を上げた。そこにいたのが音取だったからだ。いつものやや凛とした様子はなく、寝癖で髪は跳ね、目蓋は半分以上とじている。口元も緩んで涎垂らすんじゃないだろうか。
「ぅん?」
意識がはっきりし始めたのか、目の焦点が合っていき、そして俺を確実に捉える。
「っ!?」
なんか、可哀想になってくるぐらい赤くなって、目が潤んでいる。どうした、音取。お前はそんなキャラだったのか。
「寝癖ついてるぞ」
跳ねた髪を自分の頭を指差すことで教えてやると、慌てて手を当てるが、残念反対側だ。
「……というか、誰ですか?」
今更押さえたところで直らない寝癖を手で必死に押さえつつ、彼女は問いを発した。まあ、そりゃ漫画的な超人的な生徒会長キャラや親切委員長キャラでもない限り、いちいち仲の良いわけでもない生徒の顔など知らないだろうが。だが一応言っておく。俺はお前のクラスメイトだ。だけどまあ、そんなこと本人に言っても仕方がないので、
「数瀬偵だ」
「そう、数瀬くんね」
何かが引っかかるのか、眉根を寄せていたが、やがて手を打ち、
「そういえば、同じクラス……よね?」
微妙に自信なさげだったが、そう確認してきた。
「まあ」
「ごめんなさいね。ちょっと覚えてなくて」
本当に申し訳なさそうな顔をする。
「で、どうして数瀬くんはこんなところに?」
「担任にこれを保健室の先生に渡せって頼まれてな」
封筒を見せる。
「なるほど……でも、私がここに来た時も先生はいなかったわ。長時間いないなら、本当は閉めとくべきなんでしょうけど」
それはそうか。鍵付きの棚に入れてあるとは言え、薬品の類も置いてある。盗難の危険性を考えたらそうだろう。
「まあ、閉める云々の話はともかくとして、俺はそういうわけで先生を待たなきゃなんない。お前も昼寝が終わったんなら用もないだろ」
「昼寝ではないのですけど……」
彼女は肩を落とし、そして丸椅子を引いて腰を下ろした。
「話し相手くらいにはなれますよ?」
「いや、別に時間を持て余してるわけじゃないけど」
文庫本を掲げると、彼女は「そう」と言い、少し柳眉を寄せて、
「話し相手になってもらえるかしら?」
「唐突なお誘いだな」
「イヤ?」
「正直メンドくさい」
「ふふ……あなたって結構本音をはっきり言うのね」
少し表情の硬さがとれた。
「だが、俺から話題を提供しろなんて、言わないなら少しだけ」
「ありがと、そんなこと言わないわ」
「そ。なら聞こうか」
俺が姿勢を正すと、
「そんなにかしこまって聞く話じゃないわ」
くすくすと笑う。あんまり注意して見てこなかったが、結構表情豊かである。
「それで、ね。その、私ってよく相談を持ちかけられるんだけど」
「らしいな。噂程度には聞くよ」
昨日現場を見たことをあえて言うこともあるまい。
「昨日もちょっと相談されて……えっと、その。この話は本人には内緒ね?」
「まあ、依頼人の秘密は漏らすべきじゃないな。大丈夫、この学校で俺が話をする奴いないから」
「……それもちょっとどうかと思うけど」
呆れられた。彼女は咳払いして、
「まあ、あなたの話はともかくとして。昨日受けたのが恋愛相談なのよ。でも、その私……」
「好きな人が同じだった、とか?」
「茶化さないで。そうじゃないの。そういう相談って今までなかったから。でも、そもそも私が誰か特定の異性を好きになったことがないの。だから、ちょっとどうしていいかわからなくて」
憂鬱そうな表情。だが、それは相談を負担に思っているというよりは、期待に応えられないことへの自責からだろうと思う。
「受けるべきじゃなかった、とも思ったけど、でも、力になりたかったのも事実だから」
「ホント、お人好しなんだな。噂以上だよ」
「昔から、頼られると弱くって」
「そうか。で、俺に意見を聞きたいのか? 話題を振れと言われる以上に重いような……」
だが、とも思う。この少女は思っていたよりも遥かに人間らしい。なんというか、もっと超人的で、人間離れしているんじゃないか、という勝手な想像があったのだ。だが、蓋を開けてみれば、相談事に悩む一人の少女に過ぎない。
「その、無理に聞こうとは思ってないから。だから、変に悩まないでいいのよ?」
「いや、まあ、面食らったのは事実だが、あんたが気にするほど負担に思っちゃいないよ」
「そう、なら良かった」
ほっと胸をなでおろす。俺は足を組み、
「で、相談者の特徴とか、相手がどういう人かってのは?」
「そうね。相談してきた子はまあ、なんていうか。ちょっと派手目の子ね。ほら、いるでしょ、クラス内にも髪の毛染めてたりする子」
「まあ、いるな。クラス内にヒエラルキーがあると仮定するなら、結構上位の連中だ」
「ヒエラルキーは仮定しなくてもいいけど……でもまあ、そう言う感じね。相手はバスケ部の――」
「エース?」
先回りして言ってみたが、首を横に振られた。
「どうやら、万年補欠みたい」
下手の横好き、ってやつか? まあ、本人がそれで満足なら俺が口出しすることでもないか。
「それに、少し気弱な人らしいわ。三田雪緒って言うんだけど」
「あ、そいつ知ってる。同じ中学だった」
「本当に? あ、でも名前知ってるだけだったりしない?」
「その可能性も無きにしも非ずだったが、そいつに限り安心しろ。それなりに話した仲だ。だがまあ、そうだな……」
確かに、音取が言うとおり、気弱な少年だ。ちなみに、虚弱ではない。
しかし、この取合せは結構想定外だった。派手目の女子というから、結構ミーハーな感じなのかと思ってたら、案外というか、かなり真面目っぽいし、マジっぽい。
「しかし、そうだな。案がないわけではない。ただし、少しばかり長期戦かもしれないが」
俺は壁にかけられた病気の予防を呼びかける内容が印刷されたカレンダーに目を向ける。
「長期戦……あっ」
俺の視線を追ってカレンダーを目にした彼女が声を上げた。流石に気づいたらしい。
「修学旅行、ですか」
「そうだ。非日常による浮ついた気分をちょっとばかり利用させてもらう。吊り橋効果によるカップルはその後に別れやすいという統計もあるそうだが、それは本人たちの問題で、相談内容には含まれていない。故に、今は効率的にくっつけることを考えるとそれが一番効果的だろう」
「長口上ありがとう。でも、確かに利用しない手はないかも。どうして気がつかなかったかな」
「ま、そこまで頭が回るのもな。で、具体的な計画だが――」
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