カノン興亡記
キール・アーカーシャ
第1話
全てのものに滅びがあれば、生まれもある。
血の記憶が子々孫々に受け継がれていくように、国家や文明もその形を変えながら継承されていく。それは時に思わぬ姿で発現するのだ。
古代アルキア文明が滅亡を迎えてより短くない時が流れ、新たな文明は再建されつつあった。しかし、それは旧文明に比べれば蛮族とも呼べる退行を示していた。
そんな中、一つの名も無き部族が女神アトラの加護の下、小さな国家を形成した。
女神アトラは彼らに《カノン》という名を与えた。
それは古代アルキア語で《基準》を意味する言葉だった。
他の国家や独立都市が戦乱に明け暮れる中、河や山脈など自然の要害に守られたカノン人は草木を植え慎ましやかに暮らしていた。諸国が戦乱の疲弊に崩れる中、カノン国は緩やかに発展を遂げていく。
時に隣国や遠国がカノンに襲来する。
だが、カノン人は階級に依らず団結し、それを撃退した。
さらに、かつての敵国であろうと、カノン人はそれが優れていると判断すれば文化や人材を積極的に取り入れた。
王制は実質的な共和制となり、カノンの力は増しに増していく。
いつしか、カノンは中海世界(ミズガルド)に覇を成していき、その名の通り世界の《基準》と化しつつあった。今、古代アルキア文明は新たな形で蘇ったのだ。
だが、栄えは衰えの始まりでもある。
史上最強とも謳われたカノンの魔導王は百を超える年を君臨し続けたが、彼の死と共にカノン王国は辛苦の時代を迎える。
しかし、カノン人は観念に捕らわれず新たな道を模索した。
魔導に頼りすぎていた事を深く反省し、質実剛健を旨としたのだ。
新たな時代、鍛え上げられた軍団と魔導の融合、カノンは世界を制し、共和制を廃し、強力な中央集権を叶うべく帝国と化した。
ああ、偉大なるかな、カノン。
幾たびかの谷はあれど、盛者必衰の理をも越え、その繁栄は永劫に続くかに思えども。
だが時は流れ、今や見るに無惨。
何と言う因果か、かつて滅ぼしたる筈の北の蛮族により国土は分断され、属国も次々に独立を宣言しゆく。かつての栄光は今や何処に・・・・・・。
第一話
荒れ地に熱砂の風が吹く。
かつては大規模な農地だったこの土地も、今や砂漠と化しつつあった。
灌漑(かんがい)は枯れ、地面の切れ目にはイラクサの亜種が点々と生えていた。
そんな中、一人の旅人が古びたローブを力無くなびかせながら歩みを進めていた。
しばらくすれば旅人は小さな町に辿り着く。
そして、喉の渇きを潤そうと目に入った居酒屋へと進んで行った。
とはいえ、その看板に掛かる《繁緑(グリーンフル)亭》という名も、荒涼とした土地には皮肉なモノとなっていた。
中は閑散としていて古びていたが小綺麗にしてあり、砂の土地だというのに埃っぽさは無かった。
奥の席には馴染みであろう中年の客が二人陣取っていたので、旅人は手前の席へと腰を掛けた。すると、茶色がかった金髪をした女店主らしき人物がスタスタと歩いてきた。歳の頃はそれなりに若く見え、化粧っ気も少ないのに魅力的で美しい顔立ちが覗えた。とはいえ、苦労を感じさせる何処か擦れた雰囲気もあった。
そんな女店主は旅人に尋ねた。
「飲み物は?」
対し、旅人は簡潔に答えた。
「水を」
「水はタダじゃないよ」
との女店主の言葉に、旅人は『確かに水と安全はタダでは無い』と納得し、銅貨を数枚、机に置いた。それを受け取り、女店主は奥へと去って行った。
旅人は酒を飲めないわけでは無かったが、渇きに耐える今はその気分では無かった。
そして、女店主が代わりに持って来たのは、水差しとコップ、それにナツメヤシの実が置かれた小皿であった。
「ありがとう」
と、旅人が習慣的に言えば、店主は「どういたしまして」と微笑み、再び奥へと去って行った。
「さて」
そう呟き、旅人はフードをとった。中から現れたのは少し日焼けした黒髪の美男子であり、しかし、それでいて周囲と同化して目立たぬ風貌であった。
いや、それはそうなるように旅人が気を抑えているのだ。
「頂くとしよう」
そして、旅人は微かに塩のまぶされたナツメヤシの実を口に含み、それを味わい呑み込んだ後、初めて水を飲んだ。塩分を失って弱っている時、急に水を飲めば胃や臓器がやられるからである。
もっとも、旅人はそれ程までに弱っているわけでは無かったが。
その時、女店主がつまみとも前菜ともとれる小料理をいくつか持って来た。
甘辛いソースの掛かった茹でてある卵、それに添えられた赤黄のパプリカ、隣の皿には
炒められた緑野菜に切られたレモンとトマトが載せられていた。
いずれも冷えてはいたが美味であり、旅人は思わず顔を微かにほころばせた。
すると、女店主が再び声を掛けてきた。
「料理はどうする?」
「お任せします」
「なら今日はアヒル料理がお勧めだよ」
と店主が言うと、奥の客の一人が「今日はじゃなくて、毎日だろ」とヤジを飛ばした。
これに店主は「いーでしょ」と苦笑しつつ軽く返す。
「じゃあ、それでお願いします」
そう旅人が注文すると、店主は少し嬉しそうに頷き、そのまま奥へと去って行った。
料理が出来るのには少し時間が掛かるようで、旅人はぼんやりと待っていた。
そんな中、奥の客達は酒をちびちびと飲みながら話に夢中になっている。
「しかし、偉大なるカノン帝国も墜ちたものだね」
「違いない。北の蛮族キルメア人に首都を制圧されて、東に新たな都を作るまではいいさ。いや、それも情けない話だけどよ。でも、本当に情けないのは、東カノンの連中はそれを甘んじて受け入れて、占領された西の領土を奪還しようとしない事さ」
「占領された西の首都では皇帝やお后様が蛮族に捕まってるってのに、真っ先に逃げた王の弟や宦官達はのうのうと東で暮らして、戦おうとしない。酷い話だ。もっとも、俺達の生まれる前の話だけどさ」
そして、二人はアッハッハと何処か自暴自棄に笑い合った。
「ま、もっとも王弟の気持ちも分からない事はないけどな。だって、兄様が捕まっているおかげで、自分は東で皇帝を名乗れるんだからさ。むりに蛮族と戦って首都を奪還しちゃあ、本来の皇帝である兄様が解放されて、自分は立場を失う」
「違いない、違いない」
「おかげでカノンは蛮族に支配された西カノンと、臆病者の東カノンに分かれちまった。どっちにも行きたくない俺達の先祖は南へと移民だ」
「先祖っていうか親父だろう?」
そして、二人は再び笑い合った。
ちなみに、この時、旅人はじっくりと話に聞き入っていた。
「ああ、誰かカノンを解放する救世主は現れないのか・・・・・・」
「居ない居ない。今や東カノンの皇帝も三代目。でも、今までの皇帝と同じで優柔不断に現状維持。西カノンに残った連中も、蛮族の犬になって仕えている。反乱の兆しすら無い。世の中、何も変わらないさ」
「変わるとしたら、この土地がどんどんと砂漠化してる事くらいさ」
「上流の辺りを支配しようとした蛮族が、包囲戦の時に水路をメチャクチャにしやがったからなぁ。それでもって流石は蛮族。水路を直す技術も無く放置だ」
「まぁ、蛮族も暑いのは苦手で、こっちの方まで攻めて来ないだけマシか」
今度は、二人は深い溜息をつくのだった。
すると、店主が料理を持って現れた。
「はい、お待ち」
と言い、店主は旅人の前に料理を差し出した。それはアヒルの肉と米を油と水で煮込んだ料理であり、その上には細かく刻まれたパセリが彩られていた。さらに、種々の野菜が煮込まれたスープも横に添えてある。
女店主に礼を言い、旅人は黙々とこのメイン・ディッシュを食するのだった。
「あーつまんねぇ世の中だ。酒だ、酒」
「追加で」
との客二人の言葉に、女店主は目を細めた。
「あんた達、お金はあるんだろうね」
すると、客二人は挙動不審になるのだった。
「べ、別に・・・・・・無い事はねーぜ」
「あっ、しまった。女房にお使い頼まれてたんだった。もう行かないと」
「おう。俺も急に用事を思い出した」
そして、二人は立ち上がり、何食わぬ顔をして出口へ向かおうとした。
しかし、そんな二人の肩を女店主は後ろから掴むのだった。
「お勘定は?」
との冷たい言葉に、客二人はフルフルと震えだした。
「すまん、ツケでッ!」
「利子付きで返すからよッ!」
そう叫び、二人はそのまま外へと駆けだして行った。
「はぁ・・・・・・まったく」
残された店主は二人の皿と酒瓶を片付けるのだった。
「ごめんね、見苦しいモノみせちゃって」
との女店主の言葉に旅人は苦笑混じりに答えた。
「いえ。お気になさらず」
「でも、お客さん、いったい何処から来たの?見ない顔だけど」
「何処からだと思います?」
その旅人の言葉に、女店主は少し考えた。
「アルカンド国とか?」
「どうして、そう思いました?」
「まぁ、やっぱり外見かなぁ。黒髪だしねぇ。カノン国にも黒髪は多いけど、お客さん、あんましカノン人って感じもしないしね。で、当たった?」
「ええ、当たりです」
と、旅人は肯定した。
「へぇ、じゃあ本当に海を越え、わざわざアルカンドからこっちへと来たんだ」
「はい。色々と世界を回ってみたくて。もっとも、そろそろ帰らなきゃいけないんですけどね」
「それは丁度良いかもね。これ以上先に進めば、蛮族の支配地だよ。危険にも程があるよ」
「ええ。ここらで引き返して、海岸沿いに少し町を巡って帰ろうと思います」
「それがいいよ、それが」
そして、店主は空いた皿などを下げていった。一方、旅人は食事を進めるのだった。
少しして旅人は食べ終わると、女店主が戻ってきた。
「お客さん。でも、このご時世、なんでまた旅を?」
「実は結婚する事になってまして。その前に、世界を見ておきたいなぁと思ったんです」
「ふーん」
と言い、女店主は神妙な顔をした。これに旅人はわずかにうろたえた。
「な、なにか?」
「いえね、お客さん。もしかして、あんまし結婚したくないんじゃないかなって」
その指摘に対し、旅人は真顔で尋ねた。
「どうして、そう思います?」
「そりゃあ、本当に相手が好きなら、ずっと一緒に居たいでしょ?まぁ、少なくとも好きで結婚するなら、結婚前くらいはそう思うでしょ」
「確かに・・・・・・その通りですね」
そう答え、旅人は口に水を含んだ。
妙な沈黙が二人の間に降りた。それを先に破ったのは旅人だった。
「別に、彼女の事は嫌いじゃないんです。あ、結婚相手の事なんですが。・・・・・・彼女は僕の従兄妹でして、幼い頃から兄妹同然に育っていて、それなのに結婚とか言われても戸惑ってしまって」
「なる程ねぇ」
と、女店主は同情を滲ませた。
「何て言うか、彼女と僕は顔立ちも似てて・・・・・・。もし、僕が女に生まれてたらこんな感じだったのかな、と思う事もありましたね。小さい頃は《とりかえばや》の真似事をして、お互いの綺麗な服を交換し合って着てみて遊んだりとかして。案外、お互い似合ってて、目の悪い年寄りの乳母なんか、服を交換した事に気づかなかったりしましたね。懐かしい話です」
「へぇ、でもそれなら綺麗な婚約者さんなんだろうね」
「はは、ありがとうございます」
そう旅人は苦笑するのだった。和やかな時が過ぎるが、旅人はそれを名残惜しげに断った。
「ごちそうさまでした。お勘定はこれで足りますか?」
立ち上がり、旅人は銀貨を一枚置くのだった。
これを見て、女店主は少しうろたえた。
「足りるどころか、お釣りがいっぱいになるよ」
「じゃあ、さっきの二人の分もこれで支払っておいてください」
「わ、分かりました」
と、思わず敬語になる女店主だった。
「では、失礼します。料理おいしかったです」
「あはは、それは良かった。機会があったら、また来てね」
「ええ。それが叶うのなら」
そう言い残し、旅人は去って行った。
店を出れば、辺りは薄暗くなりつつあった。
何とは無しに旅人が足を止めるや、その後ろに灰色のローブを着た男が無から生じたように現れた。その灰ローブの男はフードの隙間から、鋭い眼光と彫りの深い顔立ちを見せており、彼の辿ってきたであろう苦悩と困難の人生をうかがわせていた。それでいて周囲と同化しているかのように気配を消しており、まるで旅人の影として付き従っているかのようだった。
「・・・・・・何の用だ?」
振り返らずに旅人は灰ローブの男に尋ねた。すると、灰ローブの男は旅人にのみ聞こえるような小声で答えた。
「殿下、今すぐにアルカンド本国にお戻り下さい」
「時間はあるはずだ」
「状況が変わりました。戦争です。東カノンが蛮族掃討に動きました」
その簡潔ながらも重大な情報に、旅人も振り返り向き直った。
「何故、この時期に東カノンが動く?」
「蛮族の王デオドロス・・・・・・の妻であるアラマスタ王妃が処刑されました。それを命じたのは夫であるデオドロス自身です。アラマスタ王妃は蛮族でありながら、カノン人に憧れ、東カノンとも深く接触していたようですし、裏切り者と見なされたようです」
この話に旅人は顔をしかめた。それを無視し、灰ローブの男は続けた。
「そして、友好的な関係にあったアラマスタ王妃を殺された東カノンは怒り、兵を進めたわけです」
「本当に理由はそれだけか?」
鋭い目つきで旅人は告げた。
「やれやれ、殿下はお見通しですか。ええ、そうです。今のは一般に噂されている話。しかし実の所、今回の戦争は下らない理由で起きたんですよ」
そして、灰ローブの男は次のように語りだした。
「処刑された可哀相なアラマスタ王妃。彼女は蛮族とは思えぬ程に美しく気高かった。とはいえ、彼女は夫のデオドロスとは不仲でしてね、外交官として東カノンより派遣されていたベリウスという東カノン人と不義密通の関係にあったのですよ。そして、それがばれて、怒った夫に殺されてしまったというわけです。一方、王妃の浮気相手だったベリウスは辛くも蛮族の手から逃れ、東カノンに戻りました」
「それで?」
「どうにもベリウスは異なる民族ながら、本気でアラマスタ王妃を愛していたようです。それで、愛する人を処刑された彼は東カノン皇帝に涙ながらに謁見し、蛮族より西カノンを解放する事を懇願しました。すなわち復讐です」
さらに灰ローブは続けた。
「そして、今回の東カノン皇帝は変わり者のようで、これに許可を与えたのです。しかし、東カノン皇帝自身は戦場に赴く気は全く無いようで、討伐軍の全権をベリウスに委任しました。すなわち、ベリウス将軍の誕生です。彼は元々は東カノンの騎士ですから、十分に将軍としての資格はあります。そして、ベリウスは騎士時代の部下であった4名の子飼いを軍団長とし、合わせて5つの軍団を率いて東カノンを発ったのです」
「蛮族側の動きはどうなんだ?」
「始め蛮族のデオドロス大王は驚き、東カノン皇帝に講和を求めようとしました。ですが、その話を聞いた蛮族の諸部族が怒り、デオドロスに戦うように迫ったのです。元々、蛮族は戦闘的ですし、誇り高いですからね。さて、配下に弱腰と見られるのはデオドロス大王にとっても許しがたい事だったでしょう。ついには戦争を決意したようです」
一連の説明を聞き、旅人は寂しげな顔をした。
「ここも戦場になるのか?」
「なりますね。というか既になりつつありますよ。この町の北東に蛮族のシェネハ族が住んでるんですが、彼らも東カノンとの戦争に駆り出されるわけです。ですけど、最近あまりに平和だったせいか、シェネハ族の若者達は実戦経験が無いんです。ロクにヒト殺しをした事がない。これを憂えたシェネハ族の長老は戦争が始まる前に、少し離れた町を襲ってくるように命じたようです」
「それがこの町か」
との旅人の言葉に灰ローブの男は肯定しようとしたが、代わりに答えたのは町の警戒鐘だった。
「噂をすれば何とやら。さ、蛮族が来る前に逃げましょう、殿下」
そう言い、灰ローブの男は旅人に手を差し伸べた。
だがその時、居酒屋『繁緑亭』の扉が開き、中から女店主が真っ青な顔で出てきた。
「あ、旅人さん。早く逃げなきゃ駄目だよ。この鐘の鳴らし方は蛮族だよ!蛮族が攻めて来たんだッ!」
この鐘の音を町の住民達も聞いているようで、彼らは通りを逃げ出していた。
しかし、そう説明しておきながら、女店主は人の流れの逆方向へと行こうとした。
その手を旅人が掴む。
「待って下さい。蛮族が来るなら、あちら側ですよね?」
「そうだけど。あっちには小さな孤児院があって。中には足の悪い子も居るんだよ。助けに行かないと。あそこの建物がそうなの!」
そう女店主は必死に告げるのだった。
しかしその時、町の入り口付近の物見台で鐘を鳴らしていた見張りが、喉に矢を受けて物見台より力無く墜ちていった。
(近いッ)
と体人は心の中で呟き、前方を凝視した。見れば、夕暮れと砂埃の中に蛮族らしき姿が十数名ほど、おぼろげながら覗えた。
「あれは確かにシェネハ族ですね。蛮族で弓を得意とするのは彼らくらいです。どうにも野蛮人にとっては弓は卑怯な道具みたいですから」
誰にも頼まれずとも灰ローブの男は冷静に説明した。
一方、女店主は焦りをあらわにした。
「行かないと、放して」
「待って下さい」
そんなやり取りを女店主と旅人がする中、新たな矢が遙か前方から射られた。その矢は正確に女店主へと吸い込まれようとした。
だが刹那、旅人の取り出した剣入りの鞘が、これを防いだ。
そして、旅人は優しく女店主に告げた。
「分かりました。じゃあ僕が先行しますから、その真後ろを走って下さい。そして、僕と《彼》が蛮族の気を惹いている内に、子供達を避難させて下さい。時間が無い。いいですね」
との穏やかながらも有無を言わせぬ口調に、女店主はコクコクと頷いた。
しかし、灰ローブの男は軽く手をあげ異議を示した。
「殿下、その《彼》というのは私の事でしょうか?」
「当たり前だ。僕に何かあれば、父上に怒られ、お前も困るだろう?」
「うわっ、酷いですねぇ。私、戦闘向きの魔導士じゃないんですよ。しかも相手は魔導の耐性を持っている蛮族ですし」
と灰ローブの男は抗議するも、既に諦めているようでもあった。
「まぁいいですよ、では殿下、どうぞ」
「ああ・・・・・・行こう」
そして次の瞬間、旅人は猛烈な勢いで駆けだした。その斜め後ろを灰ローブの男が地面を浮き進むように続く。さらに、少し遅れて女店主も駆けだすのだった。
すると、次なる矢が旅人に迫った。これを旅人は予め知っていたかのように鞘で防ぐ。
さらに、まさしく矢継ぎ早に放たれた矢が次々と襲い来た、旅人は数本を弾いた。それと共に甲高い金属音が響いていく。
その隙に女店主は孤児院へと入りこむのだった。
一方、旅人は敵の射手達へと順調に距離を詰めていた。そして、誰にも見えぬほどの速さでナイフを抜きざまに投擲した。それは蛮族の弓使いの喉元へと突き刺さり、彼は崩れ落ちた。
これを見て、他の射手達は微かに怯んだようだった。
しかし、一瞬で気を取り直し、蛮族の射手達は旅人へと照準を合わせた。
その刹那、灰ローブの男、すなわち魔導士が手から光を発した。それは単なる閃光であり殺傷力は全く無かったが、射手達を動揺させるには十分だった。
今、旅人は射手達に肉薄しており、剣の収まった鞘が射手達を殴打した。これらの射手達は頭蓋など急所を割られ、次々に血を零し倒れていく。
その時、旅人は強烈な殺気をおぼえ、思わず身を捻った。次の瞬間、神速とも言える矢が通り過ぎ、旅人の頬を傷つけた。
見れば、数十メートルは先だろうか、舞う砂の先に4名の蛮族がおり、その内の一人が旅人に向けて弓を向けていた。その男は明らかにリーダー格であり、南方の血が混じっていて、それがエキゾチックな魅力を放っていた。しかし、同時に夜闇を連想させる吸い込まれるような恐ろしさと美貌を兼ね備えていた。
妙な寒気を旅人は覚えた。見えぬ圧力が旅人の足を止める。いや、旅人の本能と予知力が告げていたのだ。次の一撃は駆けていては防げぬと。
そして、その一撃が放たれた。音すら置いていくかの速度が重量を伴い襲い来る。
だが、これを旅人は躱した。確かに躱したのだ。
射られた矢は旅人のローブを貫き、遙か後方へと過ぎ去っていた。
これを見て射手の男は驚きで目を見開いた。
一方、旅人も自分が避けれたのは幸運に依るものと知っており、嫌な汗が全身から噴き出していた。本来ならば今の内に射手との距離を詰めるべきなのに、それをする余裕が無い程であった。
すると、射手の男は破顔し、口を開いた。
「避けるか、今のを。初めてだ、これ程までに確信があった一撃を躱されたのは」
対し、旅人は何かを答えようとも思ったが、息を整えるので精一杯だった。それ程までに先の一撃を避けるのに気力を要したのである。
射手の男は旅人が何も答えぬのを見て、つまらなそうに肩をすくめて続けた。
「俺はシェネハ族の長たるヴィス=ハシェトが孫、ヴィス=ティージス。さぁ、お前も名乗れよ。知っておきたいんだ、俺の矢を躱す奴が何処の生まれかを」
これに旅人は仕方なしに答えた。
「僕の名はレク。生まれはアルカンドだ」
「へぇ、アルカンドのレクね。聞いた事ねーな。大方、偽名か?まぁいいさ。その、ご大層に鞘にしまってある剣を調べりゃ何か分かるだろう」
「この剣は・・・・・・死んでも渡すわけにはいかない」
と言って、旅人レクは鞘をつけたまま剣を構えた。
「そういうのは・・・・・・死んでから言いなッ!」
射手ヴィス=ティージスは言葉と共に一瞬で弓を構えた。次の瞬間、矢が神速でレクに迫る。
だが、今度の一撃は先程に比べて《気》がこもっておらず、レクはたやすく横に避けた。
さらに、一気にレクはヴィス=ティージスへと距離を詰めた。それは讃うべき俊足であり、今まであえて力を溜めていたのだった。
レクは冷酷にヴィス=ティージスへと鞘を突き出そうとした。しかし、それは横から出された大盾に阻まれた。そこにはヴィス =ティージスの従者である大男がおり、レクの一撃を防いでいたのだ。
「させん」
そう有無を言わせぬ重々しい口調で大男は長剣を繰り出してきた。これをレクは上手く敵の剛力を受け流しながら捌いていった。とはいえ、大男はその巨体に見合わぬ程の俊敏さを有しており、レクも相当に手こずっていた。そんな最中、ヴィス=ティージスの矢が放たれた。
これを器用にレクは体を折り曲げ躱すも、当然の事ながら隙が出来る。そこへ大男の強烈な大振りが来るのだ。その剣撃をレクは真正面から受け止めるしか無く、彼の体は衝撃で後方へと跳ばされた。
とはいえ、レクは天性のバランス感覚で上手く着地し、鞘付きの剣を構え直した。
そこへ左右からヴィス=ティージスの残りの従者2人が襲った。
彼らは連携で次々と剣をレクへと振るった。これをレクは1本の剣でまるで2本の剣が踊るかのように防いでいった。
さらに時折、ヴィス=ティージスによる矢が襲い、レクは全方位に気を張らなければならなかった。もっとも逆に言えば、全神経に気を巡らせれば精鋭4人がかりですらレクは対処できるという事になる。ただし、その消耗は激しく、これが長く続けばレクも危うい。
その時、町の中で一段と激しい物音が聞こえた。この音をレクは知っていた。それは兵士と兵士がぶつかりある音、すなわち戦の音だった。
「おっと、別働隊が動いちまったようだな。少し待つように言ってたんだが」
とのヴィス=ティージスの言葉に、レクは戦慄した。これでは町の人々が危ない。
思わずレクは町の方へと駆けだした。
「待てよッ!」
ヴィス=ティージスはレクを狙い、弓を引いた。
だが刹那、光が生じ、ヴィス=ティージスはその照準を狂わせた。その矢はあらぬ方へと飛んでいく。これこそは灰ローブの魔導士の成した技だった。
彼は影のようにヴィス=ティージスの横に現れていた。いらだたし気にヴィス=ティージスは剣で灰ローブの魔導士を払おうとするも、魔導士は器用にそれを躱した。
「チッ、こいつは任せるッ!」
そう従者達に命じ、ヴィス=ティージスは猛烈な勢いでレクを追った。
とはいえ、何も敵を馬鹿みたいに追う必要も無いことに気付き、途中でヴィス=ティージスは立ち止まり、一瞬で矢をつがえ、放った。
今度の一撃は何ともあっさりレクの後ろ肩に刺さり、レクは倒れた。
ただし、この一撃は致命傷では無く、レクはすぐさま立ち上がり、片手で刺さった矢を引き抜き、ヴィス=ティージスへと向き直った。そこへヴィス=ティージスは直接に剣で斬りかかった。
これをレクは鞘付きの剣で受け、両者はつばぜり合いを興じる事となった。
「狙わねー方が当たるもんだなッッッ!」
全身の力をこめながらヴィス=ティージスは叫んだ。対し、レクは問いかけた。
「何故それ程の腕を暴力にしか使えない?」
「ハハッ、それ以外に使い道なんてあるか?」
「守る事にも使えるはずだ」
とのレクの答えにヴィス=ティージスは苛立ちを見せた。
「それもまた暴力だろうがッッッ!」
吼え、ヴィス=ティージスは思い切り剣を振るった。これを受け、レクは後方へと跳んだ。
すると、ヴィス =ティージスは妙に冷めた表情を見せた。
「いいぜ。なら、俺を止めて見せろよ。今から、俺はお前が守りたい連中を次々に射ってやる。守りたきゃ守れ。だが、俺を見ろ。俺を見ねーと、守り切れねーぜ」
そう告げ、ヴィス=ティージスは屋台の上へと一気に跳躍し、さらに隣接した建物の屋上へと跳び移った。ヴィス=ティージスの成さん事を悟り、レクは彼を追った。
だが、建物の屋上へと跳んだ時、ヴィス=ティージスは剣を振るったのだ。これをレクは剣で受け止めるも、衝撃を殺しきれず、屋上を無様に転がった。
この隙に、ヴィス=ティージスは屋上から天に伸びる見張り櫓の中を駆け上っていく。
そして、レクが起き上がる頃には見張り櫓の最上部から、弓矢の照準を合わせていたのだった。ヴィス=ティージスの狙う先には広場があり、その周囲を町の自警団が必死に守っており、その内側では逃げ惑う町の人々が避難所へと駆け込む所だった。
「やめろッ!」
レクは叫び、投げナイフを放つも、ヴィス=ティージスはなんなくそれを躱した。
そして、ナイフが届きようもない中央へと体を移動させ、再び照準を絞った。
「あの女を殺しゃ、少しは本気を出すか?」
今、ヴィス=ティージスの瞳には、足の悪い幼子を抱える女店主が姿が映っていた。
その言葉はレクの気を変質させた。これに呼応するかにレクの剣は霊なる輝きを放っていく。
刹那、レクは剣を鞘から引き抜き、一気に櫓を斬りつけた。
わずかに遅れ、石で出来ているはずの櫓が揺らいだ。
そして、櫓の一部は確かに切断され、櫓全体が傾いていく。
「なッ!?」
何が起きたかも知らないヴィス =ティージスはよろけていく。今、石の櫓はヴィス=ティージスごと道路の反対側へと倒れていった。
「ッッッ!」
蛮族の生存本能がそうさせたのか、とっさにヴィス=ティージスは櫓から跳んでいた。そして、幸運か必然か彼は向かい側の屋上へと上手く転がったのだ。その横を石の櫓が崩れていく。
屋上でうずくまるヴィス=ティージスは今にして戦慄した。
(切ったのか?石の櫓を?まるで熱したナイフでバターを切るように)
だが、それ以上を考える猶予は彼に与えられなかった。
何かが道路の反対側の屋上、すなわち櫓の建っていた屋上から跳んできたのだ。
それこそはレクであり、彼は道路の幅である数メートルをものともせずに跳躍してきたのである。さらに、抜かれた剣が刃の煌めきと共にヴィス=ティージスを襲った。
とっさにヴィス=ティージスは愛用の剣でこれを受けるも、次の瞬間、自身の刃が欠け出した。切れ味の桁が違う。その事にヴィス=ティージスは気付き、剣を打ち合うことを避け、横に跳んだ。
そのままヴィス=ティージスは崩れた櫓の上を転がり、地面へと辿りついた。
これをレクは冷酷な狩猟者のように追った。次々とレクは剣を振るい、ヴィス=ティージスは必死に躱すしかなかった。レクの振り下ろされた剣はヴィス=ティージスを捉えられずも、代わりに倒壊した櫓の残骸を難なく切断した。
そして、横に躱したヴィス=ティージスの方を、レクは処刑執行人のように向き直った。
だが、ここに来てヴィス=ティージスは妙な薄ら笑いを浮かべ、布と皮と鞘にしまわれた短剣を取り出した。
(毒・・・・・・)
これを見て瞬時にレクはそう思い至った。
警戒を露にしたレクを見て、ヴィス=ティージスは嬉しそうに口を開いた。
「お互い、これで一撃が死に至る。さぁ、始めようか」
対し、レクは無言で答え、剣を構え直すのだった。
今、2人の間には砂と風しかなかった。広間での喧騒が夢のように遠く聞こえる。
先に仕掛けたのはレクだった。彼には時間が無く、一刻も早く広場に駆けつけねばならなかったからだ。
そして、ヴィス=ティージスも刃の使い手として最高級の動きを見せ、互いの刃と刃が空を切っていく。金属音は生じず、大気の割かれる音のみが微かに漂っていく。それは見る者が見て聞く者が聞けば、空恐ろしい情景と旋律だった。
しかし、全てに終りは訪れ、均衡は破られる。
レクが見せた一瞬の隙をヴィス=ティージスは逃さず、鋭い突きを喰らわせようとした。それがレクの誘いだとも知らずに。
刹那、レクはヴィス=ティージスの小手を剣で打つのだった。
とはいえ、幸運な事にヴィス=ティージスのはめていた手袋には宝玉が付いており、レクの一撃はこれを割るに留まった。
痺れる手のままヴィス=ティージスは短剣を無我夢中で振るった。
だが、短剣ごとレクはヴィス =ティージスを斬り裂くのだった。
その一撃は浅かったが、ヴィス=ティージスの胸からは横一文字に鮮血が溢れた。
「グッ・・・・・・」
思わず片膝をつくヴィス=ティージス。
しかし、レクの頬からは冷や汗が零れるのだった。
何たる不運か。斬り裂かれた短剣の刃の破片がレクの頬を傷つけていたのだ。
わずかに触れただけにすぎぬのに、レクの体は毒で痺れだしていた。
「当たっていたのか・・・・・・?運が無いな、テメーも」
今、ヴィス=ティージスは片膝をついたまま、弓をレクに向けた。
その時だった。突如として現れた火球がヴィス=ティージスを襲った。
悲鳴もあがらず、ヴィス=ティージスは炎を受けて、地面を転がった。
「殿下ッ、ご無事ですかッ!?」
そこには血相を変えた灰ローブの男の姿があった。
しかし、レクは力無く首を横に振った。レクの頬の傷が黒ずんでいるのを見て、灰ローブの男は事情を察した。そして、強い語気でヴィス=ティージスへ迫った。
「毒消しを出せ、混血(ハーフ・ブラッド)の蛮族め!耐性が半分ならば、私の魔導でお前の魂を焼き尽くす事は可能だぞッ!」
だが、ヴィス=ティージスは焼かれながらも高笑いを発した。
次の刹那、ヴィス=ティージスの全身から気が発され、炎を掻き消した。
さらに、彼の右手からは魔導の力が噴き出していた。
「黙れよ・・・・・・。二つの血を有するのだ、俺は」
魔導の揺らめきにヴィス=ティージスの実像は歪み、海千山千を越えてきた灰ローブの男も気圧され思わず後ずさった。
その時だった。遙か彼方の山々に雷が降り落ちた。そして、雷鳴が轟き響く。
これを聞き、ヴィス=ティージスは発動しようとした魔導を解除した。
「残念ながら時間だ。クロムの神々ならぬ爺様が呼んでるんでな。あばよッ!」
そう言い残し、ヴィス=ティージスは怪我をものともせぬように崩れた櫓を越えて、町の外へと去って行った。さらに、ヴィス=ティージスの指笛が響き、町を襲っていた別働隊も撤収していくのだった。
そして、ヴィス=ティージスは従者の大男に抱えられながら、他の従者達と共に、名残惜しそうに場を後にした。
一方、危機は去ったのを悟ったレクは、聖なる剣を鞘に戻し、そのまま眠るように倒れた。
遠くから灰ローブの男の声が聞こえたような気がしたが、レクにとっては深いまどろみの方が勝っていた。
こうして辺境にて知られぬ戦いが起こる中、カノン中央部にては蛮族キルメア人と東カノンによる大規模な戦争が繰り広げられる事となる。
すなわち第二次キルメア戦争である。
だが、この戦争は早くも泥沼と化し、民衆に混迷と窮乏を与える事となるのだった。
とはいえ、今は時を少し遡り、この戦争の始まりと元凶を見る事とする。
そう、全ては一人の女性アラマスタ王妃、彼女から起きて終わるのだ。
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