即興短編集 はっぴぃえんど。他

桜枝 巧

はっぴぃえんど。

お題「リフレイン」「ハッピーエンド症候群」「最高速の」


「happy end」

「……さすがになめすぎだよ蒼―。幸せな結末」

「次、refrain」

「……ずっと雨が降ってますよー、みたい、な……?」

「そりゃ、今雨降ってるけれど」


 かわいらしく首を傾げた杏子に向かって、僕ははあ、とため息をついた。冷房の入っていない図書室の中、汗でシャツがじんわりと湿っていくのがわかる。


 座り込んだ椅子に向かって、気分が湿気と一緒に沈み込んでいく。気持ち悪い。

 大方、「rain」という言葉と「フレ」という音に反応してそんな答えが出たのだろう。ある意味発想力は優れているが、それでは明日のテストには合格できない。


「繰り返し、って意味だよ。割とカタカナでも聞いたことがあると思う、けど」


 そっと反応をうかがったが、帰ってきたのは大量のクエスチョンマークだけだった。眼鏡をはずし、軽く目頭を押さえる。視界がぶれ、現実逃避できたような気持ちになった。気持ちになっただけだった。


 眼鏡はそのまま机の上に置いて、頬杖をついた。

 向かい側に座ってノートの上に顎をのっけた杏子。やる気ないねー、とぼやく。


 湿気と暑さにまみれた放課後の図書室に来るような物好きは、僕らの他にはいなかった。司書のおねぃさんの姿も見えない。奥の部屋で教員採用試験の対策問題でも解いているのだろう。国語教師になるのだ、と昼休みぼやいていたから。物音がしないから、寝ているのかもしれない。


「あーお、蒼。ぶりゅぅ」


 Blue、のつもりか?


「その発音だとものすごくヘタレっぽいからやめて。R巻かないで。……そんなんだからいつまでたっても英語の点数が悪いんだよ」


 諦めたように呟く僕を無視して、杏子は呼んだだけー、と破顔する。彼女が笑うと、まるで酒に酔っ払ったような顔になるから不思議だ。目尻が下がり、きれいなピンク色をした唇の間からはだらしなく白い歯と舌が見え隠れする。前歯の間には、お昼に食べたひじきが挟まっていた。


「それ、僕が反応しないと言えないセリフでしょうに」


 特別モテるわけでも、とことん嫌われているわけでもない、ちょっと話のかみ合わない幼馴染。それが彼女の立ち位置だった。


「蒼―」

「何」

「好き」

「……どうも」

「反応つまんないー」


 これも、いつも通りの冗談。最初は驚いたが、にへら、と笑う彼女にとってはどうでもいいような遊びであるようだった。


「蒼―」

「何」

「ハッピーエンド症候群って、知ってるー?」

「それよりはrefrainの単語を覚えなさい。hppy end、の意味は知ってるんだから」


 はーい、とそのまま机の中まで浸透しそうな声が伸びていく。窓を閉め切っているせいか、雨の音は聞こえてこなかった。


「ひじき」

「んー?」


 挟まってる、と端的に告げる。あぁ、と杏子は後ろを向く。さすがに恥ずかしかったのか、ほくろの多い頬に赤みがさした。


「refrain……繰りかふぇし。繰り返し。繰り返し…」


 呪文を唱えるように呟く杏子。やはり声には、やる気がなかった。


 いつも通りの風景。繰り返される放課後。

 ハッピーエンド症候群、だなんて初めて聞いたけれど、杏子から出る言葉だ、なんだかろくでもなさそうだった。調べる気にもならない。


 雨ふりの図書室、二人だけのやる気のない勉強会。

 僕らにとっては、これが幸せなのだろう。

 そう思うことにする。


「ねえ、蒼―」


 杏子は後ろを向いたまま、いつもの間延びした調子で僕の名を呼んだ。


「ん」


 僕はぼんやりとした視界の中で、いつもの一音で応えた。



 その瞬間だった。



 ふっと、彼女は忘れ物を見つけに来たかのように振り返った。にへら、といつものように笑って――



 次の一瞬、僕の頬に生温かい感触が宿った。



「……へ?」


 頬杖をついた腕とは反対の指で、頬をなぞる。ぬめり、と唾液の感触があった。

 今触れたのは――唇?


 えっと。


 えっと。


 目の前には、いつも通りのチェシャ猫のような笑顔を浮かべた彼女がいた。


 いや、違う。


 その表情には、ある種の驚きが含まれていた。

 こんなつもりじゃなかった。

 そんなセリフを、必死にごまかすような笑顔だった。

 ほんの少しだけ、顔が赤い。

 机の上でまっすぐに立てられた両腕は、小刻みに震えていた。


 つまり、これは。


 僕の全身が発火したように熱くなる。あ、え、と言葉になっていない声が自然と漏れた。今まで見たことがない、明らかに最高速度を超えていた彼女の動き、いや待てそれ以前の問題として――


「ちょっと、今のはしゃれに――」

「蒼、知ってる?」


 混乱する僕に、杏子はやはりかみ合わない言葉を放ってきた。

 不思議と間延びした感じはなく、むしろレモンをよく研いだ包丁で切ったようにさっぱりとしていた。しかしその中にもやはり、小さじ一杯ほどの震えが含まれていた。


「……何」


 その言葉をつぶやくと、不意に心臓が落ち着きを取り戻していった。

フォークボールみたいだ、なんて僕は思う。

彼女の言葉は脈絡もなく落ちてきて、変に聞く相手を焦らせ、そして落ち着かせるのだ。

ぽとん、とボールが落ちるように。

言葉が、僕に降ってくる。


「refrainにはね、我慢するって意味も、あるんだよ」


 震えた声が、降ってくる。


「蒼が幸せになるためには、不幸にならないのが一番。私が幸せになるためには、私が幸せになりすぎないのが一番。はっぴぃえんど症候群。今時の若者。私たちは幸せ好きの、不幸嫌い。だから」


 だから。


 そう言って彼女は、一瞬にして腕の力を緩めた。膝が折れる。全身の力が抜けていく。顎がノートの上に落ち、瞬きを一度して。


「今のは、うそ。うそなんだよー」


 完全に「いつも通り」に戻った杏子は、そんな風にしてその場を締めた。

 諦めた。


「……ごめん」


 小さく、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの、本当に小さくつぶやかれた言葉は、湿気に紛れて消えていった。


 下を向いて、まだ火照っている顔を見せないようにして、僕も答える。


「杏子」

「なーにー、蒼」

「refrainに二つの意味があるってことくらい、知ってて当然だから」

「……」


 静まり返った図書室に、今までは聞こえてこなかった雨の音が響く。

 どこからか、よかった、という声がした。


 聞こえないふりをして、僕は再度単語帳を開いた。

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