嶺南神犬伝

ははそ しげき

序 章 

 中国の天地開闢かいびゃく神話に『盤古ばんこ伝説』がある。


 はじめ宇宙は、比類なく大きな卵の中身のように混沌としていた。

 音もなく、光もない、漆黒の空間だ。

 そのなかで、たったひとり、盤古は生まれた。

 語るべき相手のいない沈黙の世界だ。静寂と暗黒と孤独に耐えて、盤古は育った。

 ――ゴォッ

 一万八千年後、突如として盤古は爆発する。

 混沌のなかで耐え忍び、おとなしく成長してきた盤古は、鋭利な大斧をつかみとるや、四周にあるものををめった打ちした。たまりにたまった鬱憤を、ここぞとばかりに吐きだしたのだ。

 山は崩れ、地は割れ、巨大な卵は破裂した。卵の中身がどっとばかりに溢れでた。

 軽くて清いものは浮かび上がって天となり、重くて濁ったものは地となった。あたり一面が、明るくひらけ、光を呼び込んだ。

 ――これがまことの世界だ!

 盤古はこころのなかで、会心の笑みを浮かべた。

 かれはいま天と地のはざまにいる。

 ――天と地が、ふたたび重なり合ってはならぬ。暗黒の再来を防ぐのだ。

 盤古は、両腕を突きだして天を支えた。両足で揺るぎなく大地を踏みしめた。

 天地も盤古も生きている。だから生長する。天は一日に一丈(周尺225センチ)高くなり、地は一日に一丈厚くなり、盤古は一日に一丈身長が伸びた。

 かくて、さらに一万八千年後、天は果てしなく高く、地は限りなく厚くなった。盤古もまた雄々しく大地に立つ、とてつもない大巨人に成長し、その背丈は九万里に達した。

 ――おれが巨大な柱となって、天地の間に屹立しているからには、天地がひとつに戻ることはない。

 盤古は確信をもって、なおも天を支えつづけた。かくて、天と地は永遠に分立した。

 しかし盤古に永遠の生命はあたえられていない。やがて、盤古に死が訪れる。

 老い疲れ、衰え弱り、死に臨むかれのからだが、万物の元に変化した。


 吐く息は風と雲になり、発する声は雷となった。左眼は太陽となり、大地を照らした。

右眼は月となり、暗夜に灯りをともした。からだは沃土よくどとなり、万物を養った。血液は河川かせん湖沼こしょうとなって海に注いだ。筋と血管は道路となり、ゆく手を導いた。頭髪とひげは星となり、天空に瞬いた。皮膚と体毛は樹木草花となり、生長繁茂した。流れ出る汗さえも甘露慈雨となった。歯と骨はきらめく金属、硬い岩石、まばゆく光る珠玉となった。

 天地をひらいた盤古は、おのが肉体のすべてを、惜しみなく天地に捧げた。この天地に生きとし生ける万物は、すべて盤古に起源を発する。

 体内に寄生する虫類さえも毛穴から抜け出し、風に乗って飛んでゆき、あらゆる民草に生まれかわったという――。


   ☆ ☆ ☆


 司馬遷の『史記』は、『五帝本紀』からはじまる。五帝は、黄帝こうてい顓頊せんぎょくこくぎょうしゅんの五聖王をいう。五帝につぐ朝をひらき、商(殷)・周に王朝をつなぐ。

 五帝のひとり帝嚳ていこくは、もとの名を高辛こうしんといい、黄帝の曾孫にあたる。生まれながらの神霊で、生まれるとすぐに自分の名を名乗った。聡明で明晰、広く人に恩を施し利益をあたえ、いささかもわたくししなかった。天の義にしたがって民の苦を知り、仁にして威、慈にして信があり、身を修めたから、天下の人がみな服従した。

 堯、そして商の始祖せつ、周の始祖は、いずれも高辛氏の子である。


 中国の西南少数民族、ヤオ(瑤)族に『盤瓠ばんこ伝説』がある。『盤王伝説』ともいう。瑤語で「瓠」と「古」は同音である。盤瓠と盤古は同類の造物主と見てとれる。

 盤瓠は人ではない。神犬である。晋代干宝かんぽうの『捜神記そうじんき』が伝えている。


 あるとき高辛氏の王后が、耳痛を訴えた。病は長引き、三年治療したすえ、医師は王后の耳から金蚕きんさん―大きなまゆのような虫をほじり出した。王后はふしぎに思い、瓢箪ひょうたんひさごに入れてふたをかぶせておいたところ、たちまち犬に変じてしまった。この犬の毛並みには五色の美しいあやが交じっていた。青・黄・赤・白・黒の五つの色彩のあるぶちだったのだ。

 王后は、ひさごふたにちなみ盤瓠ばんこと名付け、宮中で飼うことにした。やがて盤瓠は一メートルあまりの大きな犬に成長する。

 折しも、犬戎けんじゅう族の戎呉じゅうごという夷狄いてきが勢威をふるい、たびたび国境を侵犯することがあった。高辛王は諸将を遣わし征討を試みたが、思うような成果を挙げられない。そこで王は天下に向かって布告した。

「豪勇の士に告ぐ。戎呉の大将の首を取りたるものに黄金千斤をあたえ、万戸の領主に封じ、さらに王女をたまう。われと思わんものは名乗り出よ!」

 布告が高々と読み上げられた。寝ていた盤瓠の耳がピクリと動いた。盤瓠は跳ね起きた。ぶるっと身をひとふりすると、王に向かって咆哮した。人びとがあれよ見るまに、盤瓠は城門を駆け抜けていた。

 数日後、盤瓠が王宮に戻った。首をひとつくわえていた。紛れもない、敵将の首ではないか。王は喜び、上等の肉を盤瓠にあたえた。しかし盤瓠は肉どころか水さえも口にしようとせず、ただ悲しげに王を見やり、鼻を鳴らすばかりだった。

 王とて盤瓠の気持ちが分からぬではない。

「盤瓠よ、おのれは王女ひめが所望か。さりながら畜生の身で人とちぎるは、かなわぬこと。あきらめてもらえぬか」

 聞いて王女は、覚悟を王に告げた。

父王おとうさま、盤瓠はただの犬ではありません。人語を解する神犬です。戎呉の大将の首を取ったものにはわたくしを嫁にやると、天下に約束されました。盤瓠はそれを知り、身をなげうって敵将にあたり、その首を取って、国のわざわいを除いたのです。王に二言は許されません。天下に誓った約束は、果たさなければなりません。どうかわたくしを、盤瓠のもとに嫁がせてくださりませ」

 王女の決意を耳にした盤瓠は、とつぜん人語を発した。

「王よ、ご心配にはおよびません。七日七晩、わたしを金の鐘のなかに入れて蒸してください。人に変身してみせましょう」

 高辛王は盤瓠のいうとおりにした。しかし王女は、盤瓠の身を案じ、六日目に金鐘の蓋を開けてしまった。盤瓠のからだは人の姿に変身していた。

 開けるのが、一日早かった。王女の情けが仇となり、頭だけは、まだもとのままだった。狗頭くとう人身だったのだ。。盤瓠は黒い頭巾で頭を覆った。


 王は約束を守り、ふたりの結婚を許した。ふたりは王宮を出て、人跡まれな深山に入り、石室に住んだ。

 狩猟し耕作するうち、三年がすぎた。王女は三男二女を生んだ。かれらは木の皮を紡いで布を織り、草の実で染めて着物をつくった。かれらは青・黄・赤・白・黒の五色の美しいあやを好んだ。その着物には、いずれも尾の形がついていた。


 やがて盤瓠は亡くなった。盤瓠の今際いまわの咆哮が全山に響きわたった。山に棲むすべての禽獣がその咆哮に呼応し、盤瓠の死を悼んだ。

 王女は五人の子らとともに、王宮に戻った。子らに五匹の子犬がついていた。それぞれ青・黄・赤・白・黒、いずれか一色に覆われた美しい毛並みの子犬たちだった。

 王宮にひきとられた子らは都の生活をきらい、山に住むことを願った。そこで王はかれらの意をくみ、王女亡きあと、山に帰した。名山広沢をたまわり、自由に移動することを許した。人びとはかれらを蛮夷と呼んだ。

 蛮夷は中国の西南方諸地域に自由に棲まい、子孫を増やした。

 成長した五色の犬たちも山に帰った。蛮夷とともに棲む神犬と敬われた。


   ☆ ☆ ☆


 ヤオ(瑶)族は毎年農暦(旧暦)の十月十六日、盤王節を祝う。祖先の盤古(盤瓠)を祀る盤古王廟の伝統祭だ。

 盤古王廟は、いま広州市花都区獅嶺鎮の北面、盤古王山の麓にある。

 王廟内には盤古大王の坐像が安置されている。盤古は天子の着る黄袍こうほうに身をつつみ、大斧を手に、凄まじい形相で天地を睥睨へいげいしている。清の嘉慶初年(一七九六)に建てられた王廟だ。山腹から「初開天地盤古大王聖帝神位」と刻まれた石碑が発見されたことにちなんでいる。

 紀元五六〇年、梁朝のひと任肪じんぼうの著した『述異記』のなかに、「南海中の盤古国」なる記載がある。この王廟が建てられた南海郡の山里に、瑤族の自治国「盤古国」が、存在していたというのだ。

 かれらは人に知られることなく、千年ものあいだ、ひっそりと隠れ棲んでいた。貧しいながら自由で平等、親は子を慈しみ、子は親を敬い、争いのない、穏やかな生活を楽しんでいた。まさにもうひとつの「桃源郷」といっていい。

 それが明朝弘治年間(一四八八―一五〇五)、地方官により発見されたのだ。

 地方政府は、自治国の解体と租税の上納を命じた。瑤族は指示にしたがわず武装蜂起し、朝廷に歯向かった。朝廷は大軍をもって山中に進撃、征伐した。

「桃源郷」は、壊滅した。

 まつろわぬもの、不服従の民は、その存在自体が罪にあたる。瑤族の多くは殺戮された。運のいいものは他の地に逃れた、少数民族の風俗を棄て、漢人に紛れ込んだ。

 石碑は、この征伐戦争で焼け落ちた盤古国の遺物である。







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