ある少女の憂鬱の思い出
雅島貢@107kg
二人の男が酒を飲む話
夜。看板も無く、営業しているかどうかも判然としない酒場にて。
一人の男が優雅に杯を傾けている。
そこにもう一人男がやってくる。彼は少しだけ疲れたような顔をして、男の隣に腰かける。
「ずいぶん久しぶりだな。お前のそのにやけ面を見るのも」
「ご無沙汰しております。ちょっと、気になることがありまして」
にやけ面、と呼ばれた男は気分を害した様子もなく、目を細めて、慣れた様子で酒を注文する。
しばらく店内には、バーテンダーがシェイカーを振る音だけが響く。
彼の前に、カクテルが置かれる。黄色い、カチューシャのようなカクテル。
「まずは乾杯と行きましょうか?」
「何にだよ」
「では、我々の再会に」
彼に顔を寄せて、男は言う。
「顔が近いんだよ」
チン、とグラスが鳴り、二人は酒を飲み交わす。
「で? なんだ、気になることっていうのは。まさかまた、奇想天外、奇妙奇天烈な出来事が起こったというわけじゃあないだろうな」
「いえいえ。神、空に知ろしめす。なべて世はこともなし、です。ただね。これをご覧いただけますか?」
男は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、あるサイトを見せる。
「『涼宮ハルヒの完奏』ねえ。これがどうかしたのか」
「伺いますが、この作品――というのはつまり、この元になる『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品のことですが――ご存じですか?」
「うんにゃ、知らん。同級生がなんだか騒いでいたような気がするが、どうも読書は向いていないようでな。本のことなら、あいつに聞けばいいじゃないか」
「いえ、あなたが知っているかどうかが重要なのです」
そう言って男は、少しだけ目つきを鋭くする。
「これはwikipediaからの引用ですが――」
wikipedia、という語を妙に流麗に発音し、男は『涼宮ハルヒの憂鬱』についての概略を話す。
黙って聞いていた彼は、だんだんにその表情を強張らせていく。
「ちょっと待て。お前、それは、正気で言っているのか?」
「僕はいつでも、ほどほどに正気のつもりです」
「いや、しかし――信じられるか? お前の話を聞くと、俺たちが経験してきたことが、その本にそっくりそのまま書かれているように聞こえるが」
「ええ。不思議なこともあるものです」
あっさりとそう言い、軽く髪をかき上げて、男は再び杯を傾ける。
「お前らの『機関』が一枚噛んでいるのか?」
「いえ。神に――ふふ、まさに神に誓って、それはありません。なんでしたら、『彼女』にも誓いましょうか? ご存じの通り、僕たちにとっては、それは同じことですが」
「何にも誓わんでいい。だとしたら、これは一体どういうことなんだ?」
「実はこの作品については、ずっと謎だったんです。僕たちの間でも」
「ということは、お前はずっと昔からこの話を知っていたということか」
「ずいぶん流行しましたからねえ。むしろ、あなたが気づかずに過ごしてきたことに、少々驚いています。でも――それは必然だったんでしょうね」
「どういうことだ?」
「いいですか。この作品が書かれたのは、おそらく2002年頃。出版は2003年の6月です。さて、2002年と言えば? 覚えていらっしゃいますか?」
「忘れるわけがないだろう。俺たちが高校に入学して、あいつがあのけったいな団を作って、皆で奇想天外な日常の中で楽しく遊んでいたころじゃないか」
「ええ、その通りです。ですが、もう少し限定してみましょう。ザ・スニーカーに掲載された、谷川氏――これがこの作品の作者なわけですが――のインタビューによると、この作品は阪神タイガースが好調だったころに3週間ほどで書き上げられた作品、ということになっています。記録によると、阪神タイガースが首位をキープしていたのは5月まで。残念ながら6月には4勝13敗1分と明らかな負け越しで、首位を転落し、その後は勝率を5割を超えることはありませんでした。とすれば、この作品が書かれたのは5月の終わりから6月の中頃くらいまでの間、と考えて良いでしょう」
「それがどうした」
「おや。覚えていらっしゃらないんですか? 僕たちが高校に入学した年の、5月の終わりに起こった、世界崩壊の危機のことを」
男は芝居がかったしぐさで、くい、と杯を空けた。彼は少し苛立ったように、乱暴にカクテルを飲み干す。
バーテンダーは無言でシェーカーを取り出し、新しい酒を作る。
何も言わずに、二人のグラスにカクテルを注ぐ。
白い雪のような酒と、黄色いひまわりのような酒。
しばらく店内にはなんの物音もなかった。
長い長い沈黙の後、彼は答える。
「覚えているとも。忘れるもんか」
「そうですか」
にっこりと男は微笑んで、彼をじっと見つめる。そして、静かに語り始めた。
「あの出来事は夢ではなかった。現実にあったことだった。それはあなたにとっては、少々受け入れるには困難だったとしても、確信を持てることだったと思います。僕も少しだけですが参加させていただきましたし、ええ、本当にあったことだと太鼓判を捺しましょう」
男はわざとらしく間を取って、彼に問いかける。
「では、『彼女』にとって、あの出来事はどのように受け取られたのでしょうか?」
少しだけ考えて、彼は答える。
「夢だと思ったんじゃあないか? あいつは『常識的』なんだろ、お前たちの言葉で言えば」
「ええ。おそらくそうだったのでしょう。だとすれば、一つの推測が可能です。『彼女』は疑問を抱いたのではないでしょうか? これは本当にただの夢だったのか? それとも、本当はあなたと共有した、現実に起こった出来事だったのか?」
「お前の言っていることは、さっぱり分からん」
「本当にお分かりではないんですか?」
「どこかで聞いたセリフだ」
また長い沈黙。どこか遠くでサイレンが鳴る音がする。
「つまり――お前が言いたいのは、あのプレアデス星団を自分の中に閉じ込めちまったような元気娘が、無意識のうちにどこぞの作家に、あの作品を書かせたということか? あの出来事が本当にあったことかどうかを確かめるために?」
「もっと正確に言えば、あの出来事をあなたがどう受け止めたかを確かめるために。そういうことなのではないか、というのが、僕と、『機関』の結論です」
ふう、と彼は溜息をついた。そして、掌を振って、こう呟く。
「「やれやれだ」」
呼吸をあわせて同じ言葉をつぶやいた男を睨みつけ、彼は言う。
「心を読むんじゃねえよ、超能力者」
「ふふ。申し訳ありません」
超能力者と呼ばれた男は心の底から面白がっているように笑い、そして楽し気に言葉をつづける。
「実はこの作品は2011年からこっち、ずっと沈黙を守っています。スピンオフ作品の方は、今もまだ続いているんですけどね。これが作者の心境の変化なのか、それとも『彼女』の心境の変化なのか――僕には分かりかねていたんです。それが、ですね」
男は言葉を切り、再びスマートフォンを操作する。
「このサイトはご存じですか? 『カクヨム』という、なんと言いますか、市井の人が小説を自由に投稿できるサイトなんですけれど、このサイト内では、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品の二次創作を行って良いということが、公式に表明されています。このサイトのオープンは、今年の頭のことでした。それから、先ほどお見せした『涼宮ハルヒの完奏』。このゴールデンウィークには、2006年に放映されたアニメーション作品としての『涼宮ハルヒの憂鬱』全28話が一挙無料公開ということもされるそうです。作品がアニメーション化されて10周年の記念だ、と言ってしまえばそれまでですが――ずいぶん、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品にかかわることが一気に起こった、というのが僕の率直な印象です。つい、考え過ぎてしまう性分で。あなたと『彼女』の間に何かあったんじゃないか、またあなたの本心を知りたくなるような出来事が『彼女』に起こったんじゃないか、なんてことを、ええ、野次馬根性と言われればそれまでですけどね。つい、考えてしまったわけです。何か良くないことが起こっているのではないかと、ね」
「それで俺を呼びだした、ってわけか」
「ええ。でも、あなたがこの席に着いたときに、この心配は杞憂だったことがはっきりしました。あなたの本心が気になったことは確かでしょう。でもそれは決して、『良くないこと』なんかではないと」
「ほう? なぜだ?」
男は黙って、彼の左手を指さす。そして、優しくウインクをする。
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