えりえりれまさばくたに

雨後の筍

正しさが常に正しいわけではない

【相転移】

【不特定多数】

【見知らぬ天井】




「これ、明日反応見たいからこのまま置いておいて」

「了解。教室の鍵閉めるぞ。さっさと荷物取って来い」

「少しくらい融通しなさい。全くこの堅物は」


 彼女はため息をつく。

 確かにそちらの理屈もわかるが、俺の方が正論なはずだ。

 彼女が研究熱心なのは百も承知だが、部活の活動時間くらいは守ってもらわないと困る。

 自発的に時計を見て実験を切り上げてくれたのは、前回はいつのことだったか。


「時間にルーズなのはいただけない。淑女としても時間厳守はマナーだろう」

「淑女なんて言葉を日常会話で使うのはあなたくらいよ。第一今時の女子高生を淑女だなんて呼べるのかしら」

「年頃の乙女はすべからく淑女だろう。たとえその振る舞いが淑女らしからぬものであったとしてもだ」


 そう俺が言えば、彼女はその端正な顔立ちを辟易と歪める。

 この手の話はタネは違えど何度も繰り返してきた話だから、彼女の方もわかりきってはいるはずなのだが。

 たとえ、世間ズレしているということを俺が自覚していたとしても、俺自身がどう振舞うかまでは規定されていない。

 そのことが彼女はお気に召さないようで、こうやって何度も突っかかられているわけだが。


「あなたはどうしてそういつも変なものの見方をするのかしらね。確かに正しいことばかりだけれど、綺麗事ばかりでもあるのよ?」

「ふむ、君はいつもそう言うな。ならば俺の答えもいつもと同じだ。綺麗事だからと忌避していたのでは何事も成せん。その小さな一歩からすべては始まるのだ、と」


 夢を見なければそこに希望はないのだよ、と続ければ、本格的に彼女の機嫌は急降下だ。

 俺からすれば、彼女が何が気に入らなくてこうやって毎度突っかかってくるのかよくわかっていない。

 俺がお決まりの答えを返すと彼女が機嫌を悪くするのはいつもどおりなのだが、その時に彼女が一瞬寂しそうな顔をするのもいつものことなのだ。

 俺にどんな答えを期待しているというのか。

 その他不特定多数が抱くような一般論に基づいて発言しろとでも言うのだろうか。

 バレなきゃ規則を破ってもいい。時間だって守らなかったって何も言われない。いちいち細かいことで口を出すな、とよくいる学生たちのように言えばいいのだろうか。


「君にだってわかるだろう。社会規範に則っているのは俺の方だと。確かに学生たちの文化においては俺は異端者かもしれないが、たとえ小さな悪の芽といえどそれを許容するようでは社会は回るまい」


 彼らも心の中ではわかっているのだろう。これは学生である自分たちだけに許された特権だ、と。

 だが、それを実際に改めることができるかと問われれば疑問だ。自分の欲望のままに違反行為を繰り返していた者が唐突に改心などできるわけがないのだ。

 だからこそ、大学というモラトリアムが存在しているのだが、それを最後まで改善できずに社会に出てしまう者もいる。

 そういう者にとっては余計に俺の存在は煙たいだろうから、言葉も届かないのは残念なのだが。


「はぁ、あなたはわかっているのにわかってくれないのよね。ねぇ、あなたは願ったことがすべて叶うと思っている?」


 なにか懇願する響きを持ったその言葉は、いつもとは違う雰囲気だ。

 一瞬しか見せないはずの、俺に見せる気もないはずだろう寂しげな顔を惜しげもなく晒している。そんな殊勝な態度俺の前で初めてだろうに。

 いつもならば、もうあなたなんて知らないっ、と言ったあとにすたこら一人で先に歩いて行っては、そのくせ職員室に鍵を返しに行った俺を校門で待っているようなよくわからない行動に出るのだが。

 俗に言うツンデレというやつだな。俺は日々学び続けているのだ。

 だが今はそんなことどうでもいいのだ。


「別に、そんなことはあるまい。願い事が全て叶うならばこの世なんてとうの昔に滅んでいるだろうさ。俺が言いたいのは願わなければ何も始まらないということであって、願えばすべて叶うということではないのは重々承知だと思っていたんだがな」

「いいえ、わかっているわよ、その程度のことは。ただ、もう一度だけあなたの言葉で確認したかっただけ。なぜならあなたはいつも正しくて、間違っているのはいつだって私の方なのだから」


 そう寂しげに、でもどこか何かを諦めたような顔をした彼女は告げる。

 確かに俺は正論に常に頼っている。それこそが俺の拠り所だからだ。

 だが、間違っているとまで自分を卑下するのはいかがだろうか。失敗することはあれど、それを間違いと切り捨ててしまうのはそれはそれで問題である。

 まぁ、こんな雰囲気でそんな茶々を入れないくらいには俺にも常識はある。

 傷ついた女子に追い打ちをかけるほど俺は畜生ではない。いつだって紳士たれ。女子とは淑女であり花だ。優しく愛でてやらねばならない。


「そうか、なんにせよ納得したのなら何よりだ。どれ、話し込んでいたらいつもよりも時間が遅い。最近は陽が暮れるのも早いから家まで送っていこうではないか」

「え、そ、そこまではしてもらわなくても結構よ。別に夜道というほどでもないのだから」

「いや、冬の夜はすぐにやってくる。なに、遠慮することはない。うちに帰る途中で寄り道する程度の距離でしかないからな」


 からからと笑う俺になぜか腰が引けて動揺する彼女。

 別に俺自身が送り狼になる気などさらさらないわけだから、信用してもらいたいところなのだが。

 いや、今までの俺の言動からそんな心配をしているのだとしたら、そいつは俺が思っているより数段ぬけているだろう。彼女がそういう人物でないことは確かなはずだが……。


「そ、それならお願いするわ……でも、帰りになにかあっても私知らないからね?」

「それこそおかしな話だ。そのなにかを防ぐために俺がついていくというのに」


 彼女の奇妙な言動には笑わざるをえなかったが、ここでその違和感について深く考えていれば結果は違っていたのかもしれない。


 結果的に言ってしまえば、この時俺が彼女についていったのは大きなミスだったし、俺彼女の両方の人生に大きな影響を与えることとなったのである。


 まぁそんなことを知る由もなくとりとめのない会話をしながら彼女を家まで送り届けたわけだが、その帰り道の彼女との会話もなかなかにぎこちないものが多かった。

 いつもだって一緒に帰っているというのに家の前まで送るという動作が加わっただけでこれだ。どうやら俺は家に近づけたくない危険人物か何かと思われているのやもしれない。

 いや、実際彼女から家族の話はほとんど聞いたことがない。妹なりなんなりがいて俺を近づけたくない、だとか何かしら事情があるのだろう。悪いことをしてしまっただろうか。

 そんな風にぎこちなく笑う彼女の顔を見ながら考え事をしていたわけだが、どうやら彼女は俺を拒絶していたわけではないらしい。

 いや、同じ部活の部長と副部長なのだし、クラスだって同じな上に席が隣同士なのだ。仲が悪くては立ちいかない。実際に今までじゃれることはあれども、邪険にされた覚えはほとんどない。

 では、何が原因で彼女はここまでロボットのごとく緊張しているのであろうか。

 それは彼女の家の前にたどり着いたときに自ずと分かることになった。


「お、送ってくれてありがとう」

「いや、大した手間ではない。実際俺が思い描いていたよりも近いところにあったくらいだ。これならば毎日だって送っていってやるぞ」


 からからと笑う俺の顔を見て頬を染めるその様は、家を同級生に見られたことに対する羞恥だろうか。

 この段に至っても鈍感な俺は、そう一般論的にしか考えていなかったわけである。

 だからこそ次の対応が遅れた。


「ほ、本当に毎日送ってくれるの?」

「む、冗談のつもりだったのだがな。別に君が望むのならば毎日だって送り迎えしようではないか。俺たちの仲だ。遠慮はいらない」

「……いいの? 我慢できなくなるわよ? いえ、我慢できなくなった」

「?」


 俺との会話を打ち切り、ぶつぶつと呟いていたかと思うと、おもむろに扉に向き直り鞄を漁り始めた。

 どうせ鍵を探しているのだろうと深く受け止めなかったが、これが致命的だった。

 次に彼女が振り返ったとき、その手にはスタンガンが握られていたのだ。

 もちろん次の瞬間俺の意識は飛ぶ羽目になったし、どうしてこうなったのかと自問自答する俺の思考も途切れることとなった。


「あなたが思わせぶりな事を言うのが悪いのよ」





 ぶっちゃけてしまえば、彼女は俺のことを愛していたのだろう。

 次に目覚めた時に見知らぬ天井が見えた時には、もうそう結論づいていた。

 その愛が抑えきれなかったのだろう。今日の彼女の様子がおかしかったのはそういうことだろう。

 そうやって冷静に考えたのはいいのだが、どうやらベッドに縛り付けられているだろう現状からすると、そんな考えも無用の長物に思えてくる。


「あ、やっと起きた」


 ベッドの横に椅子を置いて俺の寝顔(気絶していた!)を眺めていたのだろう彼女の顔がぬっと視界に現れる。

 その顔はいつもはああも怜悧に凛々しくあったというのに、今日ここに限ってはどろどろと砂糖が煮詰まったかのように甘々しく、毒々しかった。

 俺からの言葉の圧力に負けてしまったのだろうか、それとも溜め込んでいた想いが溢れてきたのか、相転移してしまった彼女の様相は、普段のある種素っ気無さすら感じさせる態度とは打って変わっていて不気味だった。


「ねぇ、あなたは言ったよね。願いはすべては叶わない。でも、願わなければ何も始まらないって」


 あぁ、確かに言ったとも。だが、それはこんな悪行を推奨するために言ったわけではない。

 彼女もそれは理解しているのだろう。薄らと艶然と微笑む。


「だから私は行動することにしてみたの。挑んでみなければ、何事も始まりっこないでしょう?」


 くすくすと可愛らしく笑う様は本当に童女の悪戯のようで、この状況とのアンバランスさにひどく精神安定を欠く。


「さぁ、これからなにをされるのか、何が起こるのか、聡明なあなたならわかっているよね?」




「全部、ぜぇーんぶ溶かしつくしてあげる。あなたの理性もその規範も。私以外目に入らないくらいに。あなたの存在が変わってしまうまで」


 ああ、神様、彼女に罪を犯させた俺はなんと罪深いのでしょうか。









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