4: 幸せ
第16話 4−1: 第172日
20日ほど前に、向いに女性が越してきた。研究所に着任した人だった。何回か研究所でも見かけている。近い棟にいるようだ。
彼女が引越しの挨拶に来た時には、どうにもうまく会話することもできなかった。
朝、玄関を出る時にも何回か出くわした。
「おはよう! そして会えなかったときのために、こんにちはとこんばんはも!」
どこかで聞いたことがあるのだろう。そう挨拶をした。会った時には、だいたい同じような挨拶を。
「おはよう、アキさん」
彼女はそう答えてくれた。
彼女の声はいくぶん高めで、滑らかで、耳から心臓へと転がるようだった。このような言い方は失礼なのかもしれないが、あまりに女性的すぎない印象が、また良かった。
毎日、彼女の声を思い出しながら、研究所へと足を進めた。軽い足取りで、心地良く。もちろん、実際に歩いていったわけではないが。
そして、今、玄関を開けたところで、ちょうど彼女も玄関の前に出ていた。
「おはよう! そして会えなかったときのために、こんにちはとこんばんはも!」
彼女は振り向き、挨拶を返してくれた。
「おはよう、アキさん」
私は微笑み、いや素直に言おう、にやけた。
次の言葉を出そうとして、何度か口を開いては閉じた。
彼女は、私から目を外さず、歩き出すこともなく、目の前にいた。
「あの」
やっとそれだけを言えた。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。
彼女はうなずき、まだ目の前にいた。
「もしよかったら、私の車で行きませんか?」
「お邪魔でなければ」
「もちろん」
そう答え、私は右手を階段に向け、歩き出した。彼女も一緒に歩き出した。
車の中での会話は、一つを除きほとんど覚えていない。よく運転できたと思う。正直に言えば、アシストがほぼ動かしていたのだが。ハンドルに手を置き、運転している様子を演じた。
車の中では、夕食の約束をした。それよりも、軽い昼食をとも思っていたのだが。なぜか、今夜夕食を一緒にすることになった。
「こっちに来てから、まだいろいろと店を探しているところですよ」
「このあたりには、まだあまり店という感じのものもないんじゃないですか?」
「うーん。そうかもしれませんけど。それでも案外あるものですよ」
そんな会話をしていた。
研究所に入り、駐車場の入口で彼女を降ろす時には、何やらわからない気持が湧き出した。彼女の手を取ってみたいような。
帰りにまた駐車場で待ち合わせる約束をし、彼女は歩いていった。
私は車を停め、自室へと向かった。
* * * *
夕方、駐車場の前で彼女を待っていた。
どうせ向いに住んでいるのだし、少しは飲むだろうということで、車を置いてから改めて出掛けようと、朝の車で話していた。
その後、楽しい夕食の時間を過ごした。会話も楽しかった。
これだけ会話を楽しんだのは久しぶりだと思う。
会話を楽しんだことがないわけではない。だが、何か楽しさが違うように思う。それをどう表現したらいいのかはわからない。何とか言葉を見付けようと考えてみてはいるが、どうも思いつかない。
そうやって、二時間ほど言葉を探してみた。
「ミルフィーユ」
計算機の前で、その言葉を思い出し、見付けた。
一言一言が多層であったように思う。一言一言が、他の様々な事柄を含んでいた。あるいは、他の様々な事柄に繋がっていた。
今もそうではあるのかもしれない。だが、どうだっただろう。そんなミルフィールのような言葉を使う必要などなかったのかもしれない。
ただ、楽しい会話をすれば、出来れば、それでよかった。
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