第9話 雪解け


 佐田敬一郎はベッドの中で考えていた。


―― 美咲のやつ、いつごろから変わったのだろう ――


 あの、やきもち妬きでヒステリックで、

 ことあるごとに「死んでやる!」が口癖だった妻が……。

 いつの間にかおおらかで、落ち着いた性格美人になってしまった。

 考えれば考えるほど、わからなくなってくる。

 たしか彼女が最後にキレたのは……彼が忘年会から帰った夜だったから去年の暮れだったろうか。


「あなたっ! この口紅はどういうことなの!」

 ワイシャツの襟に赤い口紅がべっとりとついている。 

「知らないよ……」

 ほんとうに知らなかった。おそらく終電の中でつけられたものだろう。

「なにが知らないのよ! あなた、この前だってそうじゃない!」

「こ、この前って、お前……」

 おそらくカマをかけているのだろうと敬一郎は思ったが、つづく言葉が出てこない。亭主には、妻に知られるとまずいことが二つや三つはあるものだ。

「麗奈とかいうキャバクラの女の子、あなたなにかしたんでしょ!」


―― わっ! なんで知ってるんだ! ―― 


 彼女からもらった名刺がなくなっていた。彼はてっきり落したものだと思っていたのに……。

「お、お前な、俺の鞄の中を勝手にさぐるなよ! 接待で行ったんだよ!」

 たしかに最初は接待で連れて行ってもらったがホテルへは敬一郎が誘ったのだ。

「もぉ~悔しい! こうなったら死んでやる!」

「お~そうすれば? へそ噛んで死んだらいいんだ!」

 売り言葉に買い言葉、敬一郎はそう言ってから近くのスナックへ飲みに行ったのだ。


 あの日以来、美咲は穏やかな性格になった。

 今日のバレンタインデーだって、

「たくさんもらったのね~。あら、またお食事に誘ってください! だって……」

 メッセージカードをみつけられてドキリとしたが、それ以上なにも言わなかった。

 なにがいったい彼女を変えたのだろうか――。

 べつに原因がわからなくても、彼女が今のままでいてくれさえすれば敬一郎には文句はなかった。

 幽かだけれども安らかな寝息が、今も隣のベッドから聞こえてくる。

 この幸せが、いつまでも現実のものとして続くことを彼は祈らずにはおれなかった。

 だが、雪深い北陸の町にも春はやってくる。

 佐田夫婦が入居しているマンションにも、少しずつ春は訪れていた。

 7階のベランダ越しに覗き込んだ階下の植え込みの雪もゆっくりとだが確実に溶けていく。


 去年の暮れに、ベランダからダイブした妻の美咲のヒステリックな横顔も徐々に姿を現した。

 凍っているとはいえ、まるで今でも生きているように――。



                              (了)

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