『郵便』
矢口晃
第1話
『郵便』矢口晃
「ほら直子ちゃん、郵便受けにこんなものが入っていたわよ」
そう言ってお母さんが直子ちゃんに見せたものは、茶色い封筒に入った、一通の手紙でした。四月から小学校にあがったばかりで、一人っ子の直子ちゃんは、ロボットの人形で遊んでいた手を止めてお母さんの方へ振り返りました。
お母さんの手に持っていた封筒には、宛先も書いていなければ、切手もはってありません。
「中を見てごらんなさい」
お母さんにそう言われたので、直子ちゃんは封筒を少しふくらまして、中をのぞいてみました。中には、白い紙きれのようなものが入っています。
直子ちゃんは封筒の中から紙切れをつまんでとりだすと、それを注意深く広げました。そこには、大きな字で、いくつかのひらがなが書いてありました。
もうひらがなを読めるようになっていた直子ちゃんは、そこに書いてある字を、大きな声を出しながら読み始めました。
「お、か、あ、さ、ん、の、い、う、こ、と、を、き、か、な、い、と、お、ま、え、を、つ、か、ま、え、て、た、べ、て、し、ま、う、ぞ。お、に、よ、り」
読み終わると直子ちゃんは、くりくりした大きな目を不思議そうにお母さんの方へ向けたまま、
「これ、なあに?」
とお母さんに尋ねました。お母さんは得意そうに胸を反らせながら、
「そこに書いてあるでしょう。鬼からの手紙よ」
と答えました。
「鬼?」
直子ちゃんはお母さんの言っていることがまだ信じられなくて、少し首を横に傾けながら聞き返しました。お母さんは立っていた腰を屈めて、視線を直子ちゃんと同じ高さに合わせました。そして直子ちゃんの両肩を手でしっかりとつかみながら、直子ちゃんに言い聞かせるようにゆっくりとこう言いました。
「いつも言っているでしょう? なおちゃんがいい子にしていなかったら、鬼にお願いして叱りに来てもらうからって」
「うん」
直子ちゃんは、一つ頷きました。それを見ながら、お母さんは話を続けました。
「昨夜も、お母さんが早く寝なさいって言うのに、いつまでもおもちゃ遊びをやめなかったでしょう?」
直子ちゃんはお母さんにそう言われると、すぐさま昨夜のことを思い出しました。そうです、直子ちゃんは、昨夜も、その前の晩も、お母さんの言うことを聞かずに、夜の十時ころまでおもちゃやお人形で遊んでいるのでした。
お母さんは、それまでうっすらと浮かべていた微笑みを表情から完全に消すと、少し低い声で直子ちゃんに言いました。
「だからお母さんね、昨日の夜、なおちゃんが眠った後に鬼に電話をしておいたのよ。なおちゃんがお母さんの言うことを聞いてくれないので、一度こらしめに来て下さいって」
「うそだあ」
直子ちゃんは恐さを紛らわそうとして、わざと明るい声を出しましたが、お母さんはさらに真剣な顔つきになって、
「嘘じゃないわよ。現に今日になって、そうやって鬼から手紙が来ているじゃない。いい子にしていないと、鬼がなおちゃんを食べに来るのよ。いいの?」
「いいもん」
直子ちゃんは、心の中では鬼が恐くて、本当に鬼が来たらどうしようと思っていたのですが、表情ではそれをおくびにも出さずに、かえってお母さんに反撥するように言いました。
「ああそう」
お母さんは冷たくそう言って立ち上がると、上から恐い目つきで直子ちゃんのことをじっと見つめ、
「なら、鬼に電話してもいいのね? 今から来て下さいって言うわよ?」
と言いました。直子ちゃんはその場に立ち尽くしたまま、何も言い返そうとしませんでした。
おかあさんはくるりと振り返って歩くと、電話機の方へ向かって行きました。そしてコードレス電話機を左手に持つと、右手の指で長い番号を押し始めました。
番号を押し終わると、お母さんは電話の受話器を耳に当て、しばらくの間、電話がつながるのを待っていました。直子ちゃんは立っている場所を一歩も動かないで、固唾を飲みながらじっとお母さんのことを見つめていました。
しばらく経ってから、電話がつながら、お母さんが話し始めました。
「あ、もしもし。鬼さんですか?」
直子ちゃんは、どきっとしました。お母さんが、本当に鬼と話をしていると思ったからです。
お母さんんは横目でちらちらと直子ちゃんの方を見やりながら、鬼と話を続けました。
「今日手紙を書いてくれた鬼さんですか? すみません、うちの直子がどうしてもお母さんの言うことを聞いてくれないので、今日の夜、直子をさらいに来てくれませんか? ――ええ、そうです。悪い子なので、鬼さんたちで懲らしめてあげて下さい。――はい。はい。夜の七時ですね? わかりました。それではお願いします」
お母さんはそう言うと、電話を切ってしまいました。そして心配そうにお母さんの方を見つめている直子ちゃんに向かって、こう言いました。
「今日の七時に、鬼がなおちゃんを食べに来るってよ」
それを聞くと、それまで必死にこらえていたのですが、直子ちゃんはとうとう恐ろしさに我慢できなくなって、大声で泣き出してしまいました。
「えーん、えーん。いやだよう。鬼は恐いよう」
泣きだした直子ちゃんに、お母さんはゆっくりと近づいてくると、直子ちゃんの頭を優しく胸の中に抱きかかえました。そしてさっきまでとはまるで違う優しい口調で、
「だったら、お母さんの言うこと聞いてくれる?」
と直子ちゃんの耳元に問いかけました。
直子ちゃんはめそめそと泣きながら、でもはっきりとした口調で、
「うん。お母さんの言うこと、聞く」
と言いました。それから二、三度、むせるように咳をしました。
お母さんは抱きしめた直子ちゃんの頭をゆっくりと撫でながら、
「いい子にしてくれる?」
とまた聞きました。直子ちゃんはまたしっかりした声で、
「うん。いい子にする」
と答えました。
お母さんは直子ちゃんを抱き締めていた腕から力を抜くと、顔を赤くして泣いている直子ちゃんに、
「なおちゃんがいい子になってくれて、お母さんうれしいな。じゃあ、鬼に今日は来ないでって、電話しておくからね」
と明るく笑いながら言いました。そしてさっきのようにまた電話機のところまで行くと、長い番号を押してから、
「あ、鬼さんですか? さっき電話したものですけど。なおちゃんがいい子にしてくれるっていうから、今日は来ないでいいです」
と言ってがちゃりと電話を切りました。
さて、その夜のことです。直子ちゃんはお母さんの言うことを守って、九時前にはちゃんと布団の中にもぐって眠りについていました。
ぐっすりと眠る直子ちゃんのかわいい寝顔を眺めながら、隣の部屋では、会社から帰って来たお父さんとお母さんが、テレビを見ながら仲良さそうに話しています。
お母さんは、肘でお父さんの肩をつつきながら、嬉しそうにこう言いました。
「あの手紙、ありがとうね。直子ったらすっかり信じちゃって、ちょっとおどかしすぎちゃったわ」
しかしお父さんの方は、お母さんの話にぴんと来ないような表情で、
「あの手紙って、何のことだい?」
とお母さんに聞き返しました。
お母さんはお父さんがふざけて言っているのだと思い、
「やだ、とぼけないでよ。今朝、郵便受けにあの手紙入れておいてくれたの、あなたでしょう?」
と言いながら、いったん席を外しました。そして別のところに隠しておいてあった手紙を持ってくると、それをお父さんに見せながら、もう一度こう言いました。
「これ書いてくれたの、お父さんでしょう?」
しかしお父さんはいよいよ真剣な表情で、
「いいや。こんなの書かないよ」
とお母さんの目を見て言いました。まじめそうにお父さんが言うのを見て、お母さんはきょとんとしてしまいました。
「私、すっかりお父さんが書いてくれたものとばかり思っていたのよ」
「いいや。違うよ。第一これは、僕の字じゃないよ。お母さんが書いたんじゃないのかい?」
お父さんがそう聞くと、お母さんは激しく首を横に振りながら答えました。
「違うわよ。私だって書いてないわ」
直子ちゃんの家には、お父さんと、お母さんと、直子ちゃんの三人しか住んでいません。
お父さんも、お母さんもこの手紙を書いていないとしたら、いったい誰がこんな手紙を書いたというのでしょう? 本当に鬼が来て、この手紙を直子ちゃんの家の郵便受けに、入れて行ったのでしょうか?
お父さんとお母さんは、しばらくの間、不思議そうにお互いの目を見つめあっていました。
隣の部屋では、直子ちゃんがいい夢でも見ているように、寝顔にうっすらと微笑みを浮かべながら、すやすやと穏やかな寝息を立てていました。
『郵便』 矢口晃 @yaguti
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