第六章 4 超絶技巧のロッシュ
ロッシュがムスタークにともなわれて自軍のテントにもどったのは、もう真夜中近くのことだった。
その姿を眼にすると、固く氷結したようになっていたその場の空気は、とたんに安堵と、そして同時に強い緊張感が入り混じったものに変わった。
「ロッシュさま!」
泣きはらした眼をしたセイリンが、人目もはばからずロッシュにしがみついてきた。
「ああ、そういえば、まだあなたにおめでとうを言っていませんでしたね。みんなにも正式に発表するひまがなかったが、セイリンのお父上からお許しをいただけた。今日から私たちと同じ騎士だ。今まで以上にかわいがってやってほしい」
ロッシュはセイリンを優しく抱きしめ、意識的に明るさをよそおって言った。
それを聞いて騎士たちの表情はほんのわずかほころんだものの、またすぐに不安そうでもの問いたげなものにもどった。
「疑いは晴れたんですか? まさか、またすぐ拘禁されるなんてことには……」
ロッシュの胸から顔を上げたセイリンがこわごわと尋ねる。
「いや、大丈夫だ。安心してくれ」
ロッシュはセイリンをそっと横にどけ、野戦用の大きな作戦卓の前に進み出た。
「被害者の意識が一時的に回復したのだ。背後から狙撃されたらしいが、彼は気を失う前に逃げ去る犯人の後ろ姿を目撃していた。私の姿を一目見て、『制服がちがう』と証言してくれたよ。おかげで無罪放免になった」
騎士たちの後ろにひかえていたハーロウが、青ざめた顔で訴えるように言った。
「すみません、サー・ロッシュ。おれがもっと早くもどってきていれば……」
その言葉に、メイガスが首を横に振った。
「いや、おれがハーロウを止めたんだ。ロッシュをかばおうとする部下の証言など、信用されるはずがない。ましてやフィジカル兵では、まともに相手にしてくれまい」
ロッシュはうなずいた。
「それでいい。しかも、ハーロウが見てきたのは、そう簡単に信じてもらえるようなことではなかったのではないか?」
ハーロウは、ニキビだらけの純朴な顔にせいいっぱいの驚きを表した。
「どうしておわかりになったんですか、サー・ロッシュ?」
「見張りを立てられて、ずっと一人で隔離されていたからな。考える時間だけはたっぷりあったのさ。撃たれたのはガムディアのモルヴァン伯の子息、アグレリオだ。私も顔は知っていた。彼の国は現在、水利権をめぐって隣国マレンガともめている。さっそくデュバリから仕入れた情報によれば、今にも発火しそうな帝国の火種のうち、いちばんきな臭いところらしい」
同席していたデュバリが、もったいぶってうなずいた。
自分は騎士と同格だとでも言わんばかりに、酒杯を片手に作戦卓の一角を占めている。
ガブリと酒をひとあおりして、一同をにらみつけるようにして言った。
「だが、アグレリオがいくら強硬に自国の水利権を主張していたにしても、マレンガの連中がよっぽど考えなしの短気なやつらでなけりゃ、そいつ一人を殺して解決するような問題じゃないことくらいわかるはずだ。爵位継承者が狙撃されたとなれば、ガムディアは当然黙っちゃいない。これは、紛争をわざと戦争に持ち込もうってたくらんでるやつが仕組んだことにちがいない」
「じゃあ、問題なのは、犯人がだれなのかってことより、すでにこの事件がガムディアとマレンガの間の戦争に発展するかどうかってことなんだな?」
デュバリの向かいに座ったウォルセンが、抱えた酒杯を卓上に置きながら尋ねた。
「そういうことだ。しかし、水っていうものは流れていくもんだ。流れ方の影響は下流の数か国におよび、複雑な利害がからんでいる。二か国それぞれの背後にどういう同盟や支援関係ができてくるか、それによって対戦国の組み合わせも変わるだろう」
武器商人の本性から、デュバリはもう戦争になることしか考えていないようだった。
ようやく長椅子に腰をおろしたムスタークが、腕組みしながら言った。
「ばかな。戦争などそう簡単に起こるはずがない。領国同士の武力抗争は新帝国最大のご法度だぞ。しかも、皇帝の面前で起こった事件だ。皇帝府のメンツにかけても、かならず拡大を阻止しようとすることだろう。騒ぎを大きくしないために、フィジカルの射撃会場からの流れ弾による事故の可能性もあるという公式見解が出された。ロッシュがあっさり解放されたのは、そのおかげでもあるんだ」
ペデルが勢いよく立ち上がって言った。
「だけど、ハーロウが犯人を追跡していったんでしょ? 真犯人さえ捕まれば、サー・ロッシュの嫌疑は完全に晴れるし、すくなくとも事件は解決して、戦争を起こす口実もなくなるじゃないですか!」
「ええ。おれは気づかれないように注意しながら追いました。むこうも怪しまれないようにすぐゆっくりとした歩きに変えたから、見失う恐れはありませんでしたよ。あいつは、マレンガ軍の暗い無人のテントを選ぶようにして入っていきました」
「やっぱりマレンガなのか!」
ラムドが勢いこんで言った。
「それが……なかなか明かりがつかないし、どうも気になってそのまま隠れて見張っていたんです。そしたら、しばらくしてまたそっと出てきたと思うと、なんとひと気のない暗い草むらのほうに行くんです……」
「そして、ふたたび現れたときには別の制服を着込んでいて、まったく別の軍の天幕に向かったというのだろう」
ロッシュがうなずきながら言った。
「そ、そのとおりです、サー・ロッシュ!」
「じゃ、マレンガに濡れ衣を着せようっていう魂胆か?」
ウォルセンが眉をしかめてロッシュのほうを見る。
「両国間に戦争が起こって漁夫の利を得そうなところってなると……。こりゃ、そうとう複雑な話になってくるぜ」
デュバリが慎重な顔つきになってつぶやいた。
ロッシュは手を上げてその議論を止めた。
「だれの耳があるかわからない。うかつな話はしないほうがいい。ハーロウ、それ以上の内容は、後で私にだけ聞かせてくれ。……ところで、祝勝会はどうなったんだ?」
ムスタークが、ハッとして顔を上げた。
「おお、そうだった。おまえが捕まってそれどころじゃなくなってしまったんで、準備したままになってる。だが、事件のせいで中止になった馬上弓術は、明日の分に組み入れられることになった。おまえの出番が終わってからにしよう」
「いや。みんなが新鮮な気分でいるうちに、健闘をたたえ合おうじゃないか。私もかならず勝つつもりだから、その前祝いもかねて今夜やってくれ」
ロッシュがうって変わったくったくのない笑顔で言うと、一座はたちまちワッと盛り上がった。
皇帝が臨席して閲兵を行う帝国軍の集結式は、あらためて三日後と変更される旨が通達されていた。
翌日にはロッシュの馬上弓術くらいしかもう予定らしいものは残っていないベルジェンナ軍の陣営は、その夜どの天幕も明々と明かりがともされ、いつ果てるともなくにぎやかな声や笑いが聞こえていた。
翌日の馬場は、前日から当日にかけてもっとも多くの領国が到着したために、鈴なりの見物人であふれていた。
競技会への出場者も当然増え、各競技にかなりの時間がかかった。
それで、最後の馬上弓術は、前日同様に夜間の開催となったのである。
闇を追い散らすようなかがり火に取り囲まれ、そこに馬のいななきやひづめの音が交差すると、いやがうえにも特別な競技が行われるという雰囲気になってきた。
他の競技とちがい、競技者の集中力の妨げにならぬようにと観衆が静粛をたもつ必要はない。
熱狂ぶりを遠慮なくさらけ出せるのも、馬上弓術が人気競技であるゆえんだった。
前夜の忌まわしい事件のことは、箝口令が敷かれたために表立って口にする者はほとんどいない。
しかし、知らない者もまたほとんどいないはずだった。
一時は容疑者とされたロッシュについても、それなりに知れ渡っているにちがいない。
ロッシュの出番になると、会場がにわかにざわつきはじめるのがわかった。
ロッシュの馬は前脚を高く跳ね上げ、それから弾かれたように駆けだした。
小国ベルジェンナ自体の応援はけっして多くないが、優勝候補の一人に挙げられているロッシュにはその点でもかなりの注目が集まっており、スタートすると同時に自然と大きな歓声がわき起こった。
ロッシュの乗り方は華麗だった。
手綱は軽く押さえているていどなのに、馬は姿勢を低く保ち、ストライドをどんどん大きく前方に伸ばしていく。
観衆は、馬が通過して突き立った矢が震えているのがわかってから、ようやくロッシュがそれを射放ったのだと気づいたくらいだ。
それほどの速度と早技だった。
最初の曲がり角を折り返したところで、もっと驚くべきことが起こった。
直線に入ってふたたび速度を上げると、ロッシュが鞍の上にヒョイと身軽に立ち上がったのだ。
馬は激しく上下動しているにもかかわらず、ロッシュはひざを軽く曲げ伸ばしするだけで、上体は微動だにしない。
その姿勢でおもむろに射られた矢は、深々と次の的の中心に吸い込まれていった。
次の折り返しでは、手綱を握って腰をわずかにかがめたものの、鞍に腰を落とそうとはしなかった。
そのほうが速度を落とさずに曲がり切れるのだ。
エルンファードも曲芸のような立ち乗りを得意としたが、直線以外でその体勢を保持するのは、いかに身体能力に優れたスピリチュアルでも難しい。
しかし、ロッシュはそれを楽々とこなしてみせた。
ベルジェンナの仲間たちも、そんな妙技を見たことがない。
それどころか、ロッシュが乗馬や弓術の練習をする姿さえ目撃したことがなかったのだ。
観衆はただただ唖然として、眼の前を疾風のように通過するロッシュの動きにあやつられるように、雁首をそろえて左から右へ、右から左へと動かすのみだった。
ロッシュが規定の三周をこなしてゴールしたとき、まだふつうの者の一周分近い時間が残っていた。
その時間を楽しむかのように、ロッシュは彼としてはゆっくりともう一周優雅に流すように馬を走らせ、観衆の盛大な歓呼に応えた。
勝利を確信するかのようなその姿を見せつけられてから、すべての矢が的の中心を射抜いていることにようやく気づいた者も多かった。
それほどに、ロッシュの卓越した乗馬術に魅了されてしまっていたのである。
ロッシュが「かならず勝つ」と言ったのは、誇張でも強がりでもなかったのだ。
持てるかぎりの能力を全開にして挑んだときのロッシュには、一種の超越的な凄みとか、風格のようなものさえ漂っていた。
そのとき、見物席を駆け下りてくる人影があった。
それを止めようと後ろからムスタークが追いすがったが、その手のわずか先で人影はヒラリと跳躍し、ちょうど真下に来たロッシュに飛びついていった。
それがこの集結地にいる唯一のスピリチュアル女性であるセイリンだとわかると、観衆からは羨望と嫉妬の入り混じったなんともいえないうなり声のようなものが、大歓声の上にさらにつけ加わった。
セイリンの腰を小脇に抱いて馬をあやつるロッシュは、誇らしげにいつものかすかな笑みを唇の端に浮かべていたが、その眼はけっして笑ってはいなかった。
彼の視線は、見物席の一角にひたとすえられていた。
(紫色のスカーフだ……)
そこに陣取った一群の男たちは、暗緑色のそろいの制服に鮮やかな紫色のスカーフを首に巻いている。
ハーロウが追跡した狙撃犯が、草むらで着替えたという服装だった。
そのほぼ中央に、悠然と拍手している若者がいた。
快活そうな表情をして、ロッシュと似ていると言えなくもない余裕の笑みをたたえている。
ロッシュの眼がすぐにその人物に引きつけられたのは、知らない相手ではなかったからだ。
三年前、カナリエルの捜索隊にロッシュが有能な同輩の一人として選抜し、飛空艦での追跡作戦にも同行していた若者である。
若者とロッシュとの間に、一瞬、その二人双方にしかわからない冷たい強烈な火花のようなものがはじけた。
それは、再会と言うにはあまりにも含む意味の大きな、宿命的な遭遇だった――。
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