第六章 2 騎士になる、という選択
鮮やかな銀色の頭頂部は、後方の通路からでもすぐに見分けられた。
主賓席の最前列に、それが当然とでもいうように悠然と座を占めている。
ペデルをともない、ロッシュはゆっくりと近づいていった。
早朝のことで、主賓席はまだがらがらだった。
皇帝や随行の文官などはまだ到着しておらず、競技会場には最終日の決勝戦まで姿を見せないのかもしれない。
しかし、ブロークフェン侯オリアスは、ベルジェンナ軍と同様に昨日、しかも夜半になってようやく到着したばかりのはずだ。
なのに、長旅の疲れも見せずに今日の競技会を最初から観戦しているのだった。
まさに現役の将軍らしい精力的な行動力であり、風格を感じさせるたたずまいだった。
「失礼いたします、オリアス閣下。ベルジェンナ辺境伯領のロッシュと申します。ペレイア伯の代理として国軍を率いて参りました」
「ロッシュか。憶えているとも。娘が世話になっておるそうだな。わがままの言い放題、し放題ですっかり手を焼いておった。迷惑をかけているのではあるまいな?」
「いいえ。侯爵家のご令嬢としてならばどうかわかりませんが、数の足りないわが軍の騎士としてはよく働いてもらっております」
「騎士としては……か」
オリアスは眼を細めて競技場のほうを見つめ、しばらく無言だった。
「娘はずっと騎士にあこがれておった。甲冑に身を固めて長槍を小脇に抱え、従士を横に走らせ、敵陣めがけていっさんに馬を駆る。高潔で正義感にあふれ、慈悲深く、命知らず……。しかし、それは物語かおとぎ話の中の人物だ」
「失礼ですが、それはまさに、お嬢さまが遠くブランカから想い描いていたオリアス将軍のお姿だったのではありませんか?」
「娘にあこがれられたのだから喜べと、おぬしは言うのか?」
父親らしい嬉しさと悩ましさの入り混じった苦笑を頰に浮かべて問い返す。
ここまでオリアスは、いっさいロッシュに眼もくれていない。
「すくなくとも、悲しむべきことではないと存じます」
ロッシュは、同じ分量の笑みをたたえてオリアスの横顔を見つめた。
「娘は知らぬのだ。戦場がいかに狂気と混乱に満ちたものであるかをな。勝者と敗者を分けるのは、最後に生き残って旗をかかげる者がどちらであったかというだけのことで、傷つき、死にゆく多数の者の悲惨さは変わらぬ」
「連戦連勝を誇った閣下のお言葉とも思えませんが……」
ロッシュには意外だったが、戦争の現実を知りつくしてなお勝負に徹する冷徹な指揮官の覚悟のほどがうかがえる言葉だった。
「そうか。おぬしも、小隊を率いて連戦連勝し、しかも一兵の犠牲も出さなかったという噂だな。たしかに、勝者にふさわしいいい顔をしておる」
オリアスは初めてロッシュのほうに向き直り、正面からにらむように見上げた。
「けっして完璧に勝ちつづけているわけではありません」
ロッシュは自然に表情を引きしめて言った。
カナリエルはロッシュが出した唯一の犠牲者だったが、その喪失感は自軍の壊滅にも等しいものだった。
オリアスはそのことには触れず、別のことを、しかもズバリと聞いてきた。
「おぬし、貴族制をどう思う?」
「正直に申し上げて、一兵卒に過ぎぬ私の想像をはるかに超えるものでした。政治の根本的な体制をも左右することのできる支配者の立場にいる者でなければ、とうてい考え出せぬものです。そういう意味では、画期的な変革と言えましょう」
「どう変わった? あるいはこれからどう変わる?」
オリアスはロッシュの人物を試しているのだ。
ロッシュは、相手の視線に仕込まれた鋭利な刃のきらめきを感じた。
下手な答え方をすれば、それはたちまち嘲笑とともに突き刺さってくるだろう。
「平和がもたらされました。すくなくともここ三年間は。大陸じゅうの人々が絶えて忘れていた、明日の戦乱を予感せずに過ごせる貴重な時間を現出したのです」
「たしかにな。帝国軍三師団のひとつをまかされた身としては、帝国のあらゆる場所に兵を駐屯させ、剣と銃だけで不満の声と反乱を押さえこんで完全に支配しきることはとうてい困難に思えた。それぞれの土地にスピリチュアルが浸透し、未来永劫にわたって民びとと苦楽を共にするのだと誓うことによってしか、この平和はもたらされなかった」
「そのとおりです。そういう意味で、これはフィジカルに対する歩み寄りだったし、スピリチュアル自身にとっても文字どおり新しい生き方を与えるものでした。しかし、歩み寄るというのは、必然的にスピリチュアルがフィジカルの抱えていた諸問題を引き受けざるをえないということです。フィジカルの支配者たちがわれわれ帝国軍に一致団結して立ち向かった例などごくわずかだし、彼ら同士がたがいに友好的だったためしもありません。同じことはわれわれにも起こりえます」
「だが、われわれは〝帝国〟という、より大きな国家の一員だ。やつらが張り合った意地や欲の皮などより、ずっと上位に優先する義務と誇りと生きがいを持っておる」
「ええ、その……はずです」
「そう、はず、でしかない」
オリアスは率直にうなずき、チラと眼を下に落として間をおいた。
「……いずれ戦いは起きよう。おぬしの言うとおり、な。わがブロークフェンはその南側の抑えだ。そのために望外の大所領を賜ったのだ。小事にわずらわされず、しっかり北を見据えていなければならぬ」
オリアスの本音だろう。
彼は今でも帝国軍第二師団を率いているつもりだろうし、皇帝から与えられた使命の大きさをわずかも疑ってはいないようだった。
そして、小事のひとつはまちがいなくベルジェンナとの関係のことだ。
「ところで、騎士の仕事は国家経営の諸事万端にわたるが、セイリンなどがものの役に立とうか? 正直に申すがよい」
「はい。有能さについては疑う余地はありません。それに、ご息女は、閣下がお気になさっている以上に、騎士であることに自覚的で真摯でいらっしゃると思います」
「正直言って、そうではないという答えを期待していたが……」
オリアスは父親らしい困惑の表情で額に手をやった。
「あれをご覧ください――」
ロッシュは弓術の試技が行われている会場を指さした。
ちょうどそこに、ベルジェンナの真新しい甲冑にきりりと身を固めたセイリンが、ゆっくりと歩み出たところだった。
女子には、帝国軍人になることはもちろんのこと、幼年学校の生徒によるブランカの競技会に出場することさえ、かつて認められたためしはない。
観覧席には、驚きと当惑のざわめきが広がった。
矢をつがえたセイリンの頰はいくぶん紅潮して、矢じりの先端がわずかに上下しているように見えた。
息をひそめるように静まりかえった空気の中に放たれた一矢目は、案のじょう的を外れてわずかに手前に落ちてしまった。
会場には、どう反応すべきか迷うようなまばらな拍手が起こっただけだった。
セイリンは気を取り直して二の矢をつがえた。
非力さを無理に隠そうとすることをあきらめ、狙いに徹してこころもち上向きに放たれた矢は、ゆっくりと大きな弧を描いて飛んだ。
大方の関心は的に届くかどうかにあったが、矢はその距離をなんとか越え、的の隅に当たって乾いた音を響かせた。
歓声と拍手が、ホッと安心したように上がる。
しかし、それが鳴り止まないうちに、セイリンは立てつづけに三矢めを射放った。
矢の軌道は二矢めより低く、その分ためらいのない勢いがこめられている。
矢は吸い込まれるように的にむかって飛翔し、精確にその中心をつらぬいた。
「わが娘が弓を射る姿を初めて見た。よくぞ持ち直したものだな」
「そこが非凡さの証しです。ご息女がこちらにむかって挨拶しておられます。お誉めになってあげてください」
今までとは比較にならないひときわ盛大な歓呼と口笛が渦まくのに合わせて、オリアスは満足げにゆっくりと拍手した。
そしてロッシュのほうにふたたび顔をふり向けた。
「あんな開けっぴろげな笑顔を見たのは久しぶりだ。あれは、おぬしにこそ誉めてもらいたいのだ。昨年の園遊会以来、あこがれの騎士が、わたしではなくおぬしになったことには気づいておった。いつか妻に迎えてくれると約束するなら、ベルジェンナの騎士となることを許そう」
ロッシュはオリアスの言葉に応えるように、セイリンにむかって軽く手を挙げた。
「ですが、そのような条件でお許しが出たと知れば、彼女はどう思うでしょう……」
「黙っておればよい。それだけで、わがブロークフェンとベルジェンナ両国の関係が、不釣り合いでぎくしゃくしたものにならず、穏便にひとつにまとまっていくことだろう」
オリアスは、セイリンがベルジェンナの実質的な指導者であるロッシュに嫁ぐことによって、ごく自然ななりゆきとしてブロークフェンの従属国になることを期待しているのだ。
オリアスとすれば、強要しているような意識はまったくなく、むしろ好意で言っているくらいのつもりなのにちがいない。
「そして、いざ戦乱が起こったときには、息子のクローゼンを参謀として支えてくれ」
オリアスは、すぐ後ろの席にいる偉丈夫の青年を横目で示した。
クローゼンは忠実な護衛のようにその場にひかえていたが、ロッシュをにらみつけるような眼ざしは父親以上に鋭かった。
三歳年長で同じ第一師団にいた。
部下だけでなく、年下のスピリチュアルたちに対しても厳格なことで知られていた。
「父親の威光をかさに着て――」と陰口を叩く者もいたが、ロッシュにはむしろ、猛将と呼ばれる父の恥にならず、父に認められたいという一心で無理に肩ひじ張っているように思えた。
「閣下。私は三年前、皇帝陛下にも似たような申し出を受けました」
「ひかえろ、ロッシュ。それとは話がまったく正反対だろう。これは、おまえにもベルジェンナのためにもなる現実的な提案なのだぞ」
クローゼンが恫喝するように重々しい声で言うのを無視し、ロッシュはオリアスの眼を真正面から見すえて言った。
「……そのときは、皇女との結婚をあきらめるようにというものでしたが、私にとってはどちらも同じことです。生き方をだれかに決められることには耐えられないのです。小国ベルジェンナの騎士になることは、私にとってまさに生き方を選ぶことでした。騎士になりたいと宮殿を飛び出したご息女にとっても、それは同様なのではないでしょうか。彼女と私が、たとえ結果的にそのようになるにしても、みずからの意思で選び取った道でありたいのです」
クローゼンは座席を蹴るようにして立ち上がり、ロッシュの面前に立ちはだかった。
「きれいごとを言うな。妹を人質に取らないという保証はどこにある? わざと危険な任務におもむかせぬという保証は、いったいどこにあるというのだ!」
「私は個人的な密約をしに参ったわけではありません。ペレイア伯よりベルジェンナ軍の全権をゆだねられた者として、公式の要請をしているのです」
ロッシュは動揺の色も怒りの色も見せず、ゆっくりとクローゼンを横に押しやった。
「オリアス閣下。私は、純粋に騎士になりたいと願うセイリンの夢を叶えてやりたいのです。どうか、そのことをお許しいただけないでしょうか――?」
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