真夜中の会話
人気絶頂の俳優であるエヌ氏が結婚を発表すると、彼を情熱的に応援していたファンたちの叫び声が、SNSを駆け巡った。なかには、「絶対に許さない」「エヌを殺して私も死ぬ」などと、物騒な言葉を書き込む連中もいた。
その騒動の最中、エヌ氏が滞在先のホテルで寝ていると、深夜にもかかわらず、自分のベッドに、何者かが近づいて来ている気配を感じ取った。
仰向けに寝たまま、エヌ氏がベッドライトのスイッチを押すと、見知らぬ女が刃物を手に、彼を見下ろしていた。
エヌ氏は声にならぬ悲鳴をあげた。
「どなたですか?」
落ち着きを取り戻したエヌ氏が、相手を興奮させないように、穏やかな口調でたずねると、女は妙なことを口にした。
「私になまえはありません。私は、あなたの結婚を知った女たちの思いが生み出した存在のようです」
頭のおかしい奴かと、エヌ氏はまず思ったが、女の姿形を見ているうちに、何となく本当のことを言っているように思えてきた。
女は、エヌ氏のファンによくいそうな顔をしていた。髪形や服装もそうだった。特徴がないのが特徴と言った感じで、そのために、人間味が感じられなかった。
「それで、あなたは何のために、私の前に立っているのですか?」
エヌ氏がたずねると、他と同じく、特徴のない声で女が言った。
「それなのです。女たちの強い思いが私を生みだしたようですが、彼女たちから何かしろとは命じられていません。そもそも、命じられたからと言って、従う理屈があるのかどうかもわかりませんが」
「なるほど。あなたはずいぶんと抽象的な存在のようですね」
「ええ。女たちの思いが具現化した存在と仮定した場合、そうならざるを得ないのです」
「そうですか。ところで、その刃物には、どういう意味があるのでしょうか?」
「これですか」と言いながら、女が刃物を自分に近づけたので、エヌ氏は短い悲鳴をあげた。
「あなたのファンたちの感情を分析したところ、あなたに死んでほしいと願っている者が少なからずおりました。その思いが、私の手に、この刃物を持たせたのかもしれません」
「それで、あ、あなたは、その刃物をどう使うつもりなのですか?」
「それが問題なのです。この刃物は、私の着ている服のように、私という存在にとって、単なる飾りでしかないのか。それとも、この刃物こそが、私と言う存在の本質なのか。私もわかりかねております」
「もし、本質だとしたら?」
「そうならば、あなたをこの刃物で刺さなければなりません」
女の言葉を最後に、ひんやりとした室内に沈黙がおとずれた。
エヌ氏が努めて冷静な口調で言った。
「私は、その刃物は、あなたの本質、発生した目的とは関係がないように思います」
「どうして、そう思われるのですか?」
「そ、それはですね……。ほら、先ほどのあなたの話からすれば、私に殺意を抱いているのは一部のファンであり、その総意ではないとおっしゃられたではないですか。ですから、私は、その刃物は、あなたという存在の一部を表層しているものに過ぎないと考えているわけです」
「なるほど。たしかに一理ありますね。しかし、私は、女たちの理屈ではなく、正確に言語化できない感情が生み出した存在であると、自分自身では考えております。つまり、感情の産物である私は、あまり理屈に従って動く必要はなく、感情に従って行動すれば、私が発生した目的を果たせるのではないかとも思うのです。私の存在に目的などというものがあればですが……」
「目的を持って生まれて来る人間もおりませんから、あなたにも、そのようなものはないように考えますが……。ところで、その感情に従って行動する、というのは、実際、何をなされるつもりなのですか?」
そのようにエヌ氏がたずねると、彼が想像していたとおりの答えが返って来た。
「せっかく、手に持っているのですから、この刃物であなたを刺してみようと考えています。何となくですが、そうすれば、問題が解決するような気がします」
「ちょっと待ってください」と、ベッドから立ち上がろうとしたエヌ氏を、女の持っている刃物が制した。
「多くのファンが、私の結婚に対して不満を抱いており、少なくない方がSNSなどで言及されているのは把握しています。しかし、それは彼女たちに湧き出た感情の一部分でしかなく、また、一時的なものに過ぎないと、私は考えています」
「つまり?」
「ファンのほとんどは、私の結婚に対して、何だかんだと祝ってくれているはずです」
「だから?」
「ですから、ごく一部のファンの願望をあなたが満たすことは、あなたが発生した理由ではないと思うのです。また、私が死ねば、多くのファンは悲しむにちがいありません」
「言いたいことはわかりました」と言いながら、女がエヌ氏に近づけていた刃物をひっこめたので、彼はすこし安堵した。
つづいて、「しかし、反論させてください」と女が口にしたので、エヌ氏は「どうぞ」と話をうながした。
「あなたに対するファンたちの不満は、一時的なものに過ぎないとおっしゃられました」
「はい。たしかに」
「それはそうなのでしょう。だが、あなたは大事なことを忘れています。私は、その一時的な感情の爆発によって生まれた可能性が高いということです。ですから、私が、ファンたちの一時的な感情に基づいた行動を取ることに矛盾はないように考えます」
「ええ。その点はそのとおりです。しかしながら、だからと言って、いま、お話しされたことが、その一時的な感情のごく一部分でしかない、私は殺すという結論とは結びつかないことは、ご承知いただけますか?」
「……そうですね。結びつかないと断言はできませんが、結びつけるのには、その間を埋める理屈が必要であることは認めます」
女の言葉に、エヌ氏がほっとしたのも束の間、「ですが」と言いながら、女が刃物を突きつけてきたので、彼はからだを硬直させた。
「先ほども言いましたが、私はファンの感情から生まれた存在であろうと思われます。そのため、理屈などはどうでもよく、いま、あなたを殺せば、よくわからない存在である私に何かが起こるかもしれないという期待に沿って、行動をしたいという気持ちが高まっています」
「待ってください。話せばわかります」
「いや、もう結構。このまま議論をつづけていれば、朝になってしまいます。いまの言葉でいえば、あなたへの推し活に夢中となっていた者たちの感情の総意から生まれた私は、理屈を無視して、心に沸き上がった感情のままに好きなようにさせてもらいます」
逃げ出そうと思ったが、どういうわけか、エヌ氏のからだは動かなかった。
「ま、まて」
とエヌ氏が声を張り上げると、彼の心臓に突き刺さろうとしていた刃物が動きをとめた。
「何ですか。私に遺言を残しても、奥様に伝えるすべはありませんが?」
「ちがう。おまえが思いちがいをしている可能性があることに気がついたのだ」
「思いちがい?」と言い終えたのち、女が刃物を、エヌ氏の首筋にあてた。
「おまえは本当に、ファンの感情が生み出した存在なのか?」
「一度も私は断定していません。その可能性が高いという前提で議論を進めさせてもらっただけです。ほかに、私を納得させる可能性があるのならば、おっしゃってみてください」
「ある。あるぞ。おまえが、おれの意識が生み出した存在である可能性を忘れている」
女はエヌ氏から刃物を遠ざけて、ベッドに横たわっているエヌ氏を見下ろした。
「あなたの意識が、私を生み出した……。なにやら、理屈に沿いそうな話ですね。根拠をおっしゃっていただけますか?」
「ああ、話してやろう。おれは、デビューしたときから、行き過ぎたファンの行動に悩まされてきた。それに、今度の結婚の騒ぎだ。ファンのだれかに殺されるのではないかとびくびくしながら過ごしている。その恐怖心が具現化したのが、おまえではないのか?」
「ふむ……。なるほど。私がファンの感情が生み出した存在と定義するよりも、そちらのほうが理屈にあっていそうですね」
「そうだろう。でも、それだけではない。デビューから働きづめのおれは、だいぶ前から疲れていた。その結果、心のどこかで、死にたいと思うようになっていた。そのおれの願望が、おまえに刃物を持たせているのではないのか?」
「私があなたの意識が生み出した分身のようなものであると仮定するのならば、合理的な話ですね」
「そのとおりだ」とエヌ氏が答えると、女が一歩、後ろに下がった。その様子を見て、エヌ氏は安心しかけたが、彼の思い通りにはならず、女の突き出した刃物の先が、彼の左胸に刺さった。
激痛に襲われながら、エヌ氏が「なぜ」と問いかけると、女が無表情で答えた。
「つまり、あなたは、私の発生した理由を、あなたのファンの感情が爆発したためではなく、自分のファンに対する恐怖心と希死念慮が生み出したと言いたいわけでしょう」
「そうなるな」
「私をファンが生み出したのか、あなたが生み出したのか。それはわかりませんが、後者だとあなたが望んだ場合、その結論は、私があなたを殺すということになりませんか?」
「……いいや、ならないぞ。断言できる」
「どういう理屈で?」
エヌ氏は最後の気力を振り絞って、女に言った。
「おまえは、おれの引退したいという願望が生み出した存在だ。おれは、おまえのようなやつが出てくるような暮らしはもうご免だ。おれは引退する。もうファンも関係ないし、死ぬ気もない。もういいだろう。おれの前から消えろ」
翌朝、ひどい寝汗と共にエヌ氏は目をさました。
「ひどい夢を見たな。でも、だれが、こんなにもうかる仕事をやめるものか。妻も反対するに決まっている」
そう言い終えた瞬間、エヌ氏の左胸を痛みが襲った。
恐るおそるシャツを脱いで確認してみると、左胸に、まだ癒えていない刺し傷が……。
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