お茶がある

 僕の通っている高校は自由な校風であり、部活動は自由参加であった。

 そのため、生徒の大半はどの部活にも所属していない。


 かく言う僕も、部活に入るつもりはなかった。

 しかし、現実はうまくいかないもので、入学してみれば、出たくもない茶道同好会に、週三回も顔を出している。


 事の始まりは、僕の入学と同時に卒業した姉から、幽霊部員でいいから、茶道同好会になまえを貸せと、命令されたことにある。


 我が校では、所属員が四名以下の部には、個室が与えられなかった。

 個室の没収を避けるため、茶道同好会がかき集めた新入生は三人おり、そのうちのひとりが僕であった。



 僕に茶道愛好会への入部を命じた姉自身は部外者で、バレー部のエースだった。

 ただ、喉が渇いては、茶道愛好会の部室に出入りして、茶菓子を強奪していたらしい。

 卒業を控え、その清算を求められた姉は、茶道愛好会の前部長の提案を受け入れ、僕を売り渡したのだった。


 姉に生殺与奪の権を握られていた僕に、逆らうすべはなかった。



 五月も終わりかけの頃になれば、学校にも大分慣れる。

 授業が終わり、友人と某トレーディングカードに関する意見交換を行ったのち、しぶしぶ部活へ出ることにした。


 部室は旧校舎の六階にあった。

 廊下の東側の突き当りに大教室があり、昔は音楽室だったそうだ。

 いまは、美術部が使っている。

 その横にある小部屋が、我が茶道愛好会の部室であった。

 もとは、楽器の保管庫だったと聞いている。



 僕が元気なくドアを開けると、背の低い女の子が、じっとこちらをにらんでいた。

 小さな人差し指が、壁の時計を指している。

 約束の時間よりも、五分ほど遅れていた。


 少しくらい良いではないですかという視線を部長に送ると、涙目の彼女は、スマートフォンを手に取り、画面を僕に向けた。

 すると、予想通り、いつもの僕の音声が、室内に流れた。


『その肉の塊で、バカな男を二三人捕まえればいいじゃないですか』

 これを聞かされると、僕は、「次から気をつけます」としか言い返せなくなる。



 入学から二日後の話である。

 顔ぐらいは見せておいたほうがいいだろうと、僕は部室に向かい、部長にあいさつをした。

 部長は、高校三年生にしては、異常発達している胸部以外の何もかもが小さく、一部の男子から熱烈に好まれそうな容姿をしていた。


 眼鏡越しに上目遣いでこちらを見ながら、オドオドと小さな声で話す様子も、追加ポイントであっただろう。

 残念ながら僕にその良さは、今となってもわからないが。


 狭い部室で机を挟んで話を聞いていたのだが、ボソボソ声が聞き取りづらい。

 しかたがないので、僕は彼女のとなりに椅子を並べ、話を聞こうとした。

 すると、部長は顔を赤らめ、椅子を少し離した。


 彼女のふるまいをかわいらしいと思う男もいるだろうが、僕は苛立つだけであった。

「ですから、幽霊部員は認めません。お姉さんとの約束とちがいます。毎日、来てください。そういう約束です」

 話しているうちに、僕たちは、お互いの認識のちがいに気がついた。


 姉にメールを送ると、三通目でようやく返事が来た。

『うざい。死ね。記憶にない。相手の指示に従え。姉は今、飲み会に向けて化粧中。忙しい。邪魔。青虫童貞は死ね』

 青虫童貞って、なに?


「アオムシワラワサダって、なんですか?」

 横に坐っていた部長が僕に身を寄せて、スマートフォンをのぞいていた。


 左腕に柔らかい肉の感触がして、鼻腔が甘ったるい匂いに支配された。

「見ないで下さい。プライバシーの侵害です」

 僕の抗議を受けて、部長は離れた。


「のぞかれるのが、泣くほど嫌だったんですか。繊細な後輩くんですね」

 僕が泣いているのは、あなたが理由ではありません。


 部長は、下を向き、もじもじとしながら、話をつづけた。

「とにかくですね。約束は守ってください。おまけして、毎日とは言いません。週三回、各一時間でいいですから、来てください」

 高校生のバイトか。


 僕が強く首を横に振ると、部長は目にためていた涙を決壊させ、癇癪を起した。

「約束守れ、この短髪まな板大好きのシスコン。前の部長から聞いているんだから」


 ゆうてはならなんことを言われて、激高してしまったのが、僕の運の尽きであった。

 その後に言い放った、部長に対するセクハラ発言を録音されてしまい、週三回のお勤めを約束させられた。


 最後の抵抗に、「一人でお茶をかき回していればいいじゃないですか」と僕は訴えたが、部長に退けられた。

「ばかみたいじゃない。それよりなにより、一人はさみしいから嫌。となりの美術部、けっこう部員が多いの。ひとりだとあんまりにも惨めじゃない」

 眼鏡の奥の大きな目を血走らせて、部長が叫んだ。


 知らんがなと言いたかったが、僕に構わず、すでにかなり惨めな女が、脅迫をつづけた。

「大事な用事がある場合は許してあげる。でも、あんまり来なかったら、放送部の友達に頼んで、お昼の放送で音声を流すからね」

 この女ならやりかねないと思い、僕は幽霊部員になるのを諦めた。



 部室のドアを閉じ、部長のとなりに坐った。中は五月のうららかさに包まれていた。

 部室には二人しかいない。

 他の部員は幽霊になることに成功して、姿を見せたことがなかった。

 僕が坐ると同時に、先輩は立ち上がり、鼻歌を歌いながら、ポットのお湯を急須に入れた。

 ご機嫌だ。


 ここは茶道愛好会の部室である。

 しかし、茶道の道具は見当たらない。

 昨年、部員数の減少から、この部屋へ引っ越しを余儀なくされた際、どこかへ無くしてしまったらしい。

 一式ごっそりと。


 初めて聞いた時、僕がそれでいいんですかと尋ねると、部長はあっけあらかんと言い放った。

「実は私、あんまり抹茶って好きじゃないんだよね。ほら、苦いじゃない。だから、まあ、いいかなって」

 いいかなじゃねえよと、僕が記憶にツッコミを入れたときだった。

 コトンと、机の前に茶碗が置かれた。


 部長が自分の席に坐り、ズズズと緑茶を飲み始めた。僕も一礼してから口をつけた。

 さすが茶道愛好会の部長だけはある、のかはわからないが、彼女の淹れたお茶は、いままで飲んだものの中でいちばんおいしい。


 女の子は口に出して褒めろという教育を、姉から徹底して受けていた僕は、部長のお茶を初めて飲んだ時に、その味を絶賛した。

 すると彼女は「でへへ」と、丸い顔をさらに丸くして笑った。

 その笑顔だけはかわいいと思えた。


 飲み終わった茶碗を置いて、部長が神妙な面持ちで、僕に尋ねた。

「さっきから黙ったままだけど、それで、どんなエロいことを考えてたの?」

「考えてねえよ。エロ一択かよ」


 少し強くツッコんだせいか、部長は「ごめんなさい」とつぶやき、さらに小さくなった。

 ほんのちょっとかわいそうだったので、僕は話を振ってみた。


「ところで、エロではないですけど、一般的にみて、まあ、部長はそこそこかわいい部類じゃないですか?」

「一般的と、そこそこと、部類はいらないと思いますが」

「一般的にみて、部長はそこそこかわいい部類じゃないですか?」

「あっ、繰り返した」

「エロい手を使わなくても、男子生徒なら、何人かは入ってくれたんじゃないんですか?」

 部長は僕を一瞥いちべつしてから、自分の胸を服の上から持ち上げた。


「入部希望はそこそこあったんだけどね、所詮はこれ目当てだから。そうじゃない人もいたかもしれないけど、そんなの見分けがつかないし。それに、子供の頃から、男の子が怖くて。ほら、何かあったらね。私、力よわいし」


「なるほど。あっ、僕が大丈夫な理由はノー・センキューです。察してますから」

 部長がひとつうなづき、胸から手を離すと、重力の音がした。

 それから、僕のほうを見て、にっこりと微笑んだ。

「ほら、あなたは、お姉さんみたいな背の高いツルペタじゃないと、欲情しないじゃない。あと、私みたいなロング・ヘアーよりも短髪が好きなんでしょ。だから、安心かなって」

「だから言うなよ。真実は心に突き刺さるんだよ、おぼえておけ」


 続けて、僕がキル・ユーの和訳を口にしたところで、部長が机の下からスマートフォンを取り出した。



 また、引っかかってしまった。

 この年上のちびっ子に調子を合わせていると、姉に鍛えられ、常はよく働いている僕の判断力がうまく作動しない。


 大きな声を出したため、喉が渇いた僕は、その元凶である部長にお茶のお代わりを要求した。


 聞こえているのか、いないのかわからないが、部長は窓に近づき、靴を脱いだ。

 窓の前に、二枚の畳が敷かれていたので、部屋に風を入れるには、靴を脱ぐ必要があった。


 畳は、それ単独では無理だったが、この部屋が茶道愛好会であることを示すゆいいつのアイテムと言えた。

 ゴールデンウィーク前、部長がいなかったので、この畳のうえで寝ていたところ、いつの間にか、横で部長がよだれを垂らして寝ていたことがある。

 そこを美術部の生徒に見られて、ずいぶんとひどい目にあった。


 さきほどのキル・ユーという我が心の叫びも、防音壁越しに聞く美術部員の耳には、うるわしい痴話げんかの一言に聞こえているのかもしれない。


「あっ」

 窓から校庭をながめていた部長が叫んだ。


 「何ですか」と面倒くさそうに僕が尋ねると、「バレー部の女子が柔軟中」と答えるではないか。


 走りながら靴を脱ぎ、部長のとなりに立つと、下では、むさくるしい剣道部の部員どもが、二人一組で体操をしていた。


 部長ごときにだまされて、自己嫌悪に陥っている僕を、その部長が見上げた。

「お詫びに、抹茶を飲ませてあげる」

「道具はないですよ?」

「いいの。抹茶とミキサーはあるから。それでかき混ぜればできあがりよ。そうね。ちょっと暑いから、グリーンティーにしようか。ミルクも入れたいわね。でも、ミルクはないから買って来て、後輩くん」

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