悦耳袋

悦太郎

第1話 線香

まだしんしんと雪が降る大学2年の1月はじめのことだった。

悦ひろは日常生活のなかで、ある違和感を覚えていた。

部屋の中はもちろん、外の廊下でも、つまりはアパートの敷地内で四六時中、線香の匂いがしていることに気が付いたのである。

それは古着屋などで焚かれているお洒落な香りとは程遠く、まぎれもなく仏壇仏具のソレであった。

そうまるで、お寺にいるみたいな。

最初は正月休みで、周辺のどこかの民家では親戚が集い、仏間で線香をあげていることもあるだろうし、それが風などで流れてきてるのだろうと勝手に思っていたが、どうもそうではないらしい。

1月の後半に入っても毎日続いたからだ。

知らない地域特有の風習があるのかもしれないとも考えたが、昨年はこんなことは無かったように思う。


このアパートで生活する他の住人は気にならないのだろうか?

いや、そもそも線香の匂いなど本当はしていないのかもしれない。

気のせいということも充分に有り得る。隣人に確かめてみようか?

でも隣はヤンキーのたまり場だし、真下に住んでるのは大学1年生らしいけど面識はない、一階端のおっさんは話しかけるにはちょっと…いや、かなり危なっかしいしな。



悦ひろは彼女に問いかけてみた。

「俺のアパートさぁ。ちょっと前からなんだけどさ、なんか線香くさくない?」

「はてな。確かにそういわれれば、ちょっと前から、かすかにしてる気がしてたはー。おまえがお香焚いてたんじゃないの?」

「いや、お香持ってないし。でもそうってことは、やっぱ線香臭してるってことか」

「おめぇのアパート、テレビも映らねーくらいぼろいから、ほだなごともあるびゃー」

「そっか、それならよかったわ。俺の嗅覚がおかしくなったのかと思ったわ。でもそうなると発生源はどこだべ?」

「まぁ、いいびゃー」

「そだね。それにしてもまだ冬なのにお盆みたいな気持ちにさせるね」

「んだにゃ」

「あっ、一つだけ聞く。俺の体臭じゃないよね?」

「うん。おまえからはイースト菌の匂いがする」

「イースト菌…」

「パンっぽい匂いがしているってことだ」

パンの匂いをイースト菌と表現してきたのがなんか面白かった。


ひとまず幻想じゃないことは、彼女との会話ではっきりした。いやはっきりしたのかな?

でも、かすかに匂いがしてるって言ってるし。やはり気になるところではある。

この匂いを意識し始めたのは1月に入ってからだ。

例えば誰かが正月から突然習慣的に線香を焚き始めたとして、その匂いが建物全体を覆うことなんてあるのだろうか?

そもそも、線香なのだろうか?ひょっとして老朽化した建築材とかが線香臭を放つことでもあるのだろうか?

一体どこから発生しているのだろう?全く原因の見当がつかない。

まぁ、生活に支障が出ているわけでもないし、あまり気にしても仕方がないのかもしれない。

彼女のいうとおり、まぁいい。そのうち慣れるか、消えるさ。

そうこうしているうちに、2月も後半になった。

相変わらず、線香の匂いはしていて、しかも日に日に強くなり、慣れるということはなく、不快感が増していくだけだった。



そんなある日、悦ひろが帰宅したときのことである。

この日は、中心街で夜までCMフェスティバルを鑑賞していたため、辺りはすっかり暗くなっていた。

アパートの前に到着すると、駐車場がなにやら騒がしくなっているのがわかった。

薄暗い街灯が照らすなかで、人だかりができていた。

黒いスーツを着たガタイのいい男たちが群がっていたのだ。

アパートの階段を見上げると、隣人のヤンキーが二階の廊下の手すりに寄りかかって、その様子をじろじろと眺めているのが見えた。

ヤンキーとヤクザの争いごとでもあったのかとも一瞬思ったが、どうもそうではないらしい。

とりあえず階段下の駐輪場に自転車を止めるべく、その正体不明の群集をそそくさとすり抜けて移動してみせた。

すると駐輪スペースの前で中年の男女、おそらく夫婦が支え合って涙を流していた。

大規模な取り立てでもあったのだろうか?そもそも、こんな夫婦いたっけ?と疑問に思いながら悦ひろは一礼して、その奥に自転車を静かに止めた。

状況がよくかわからないけれど、なにかただならぬ空気だったので、その場に長居するのがなにかいたたまれない。

そのため即刻にこの場を立ち去りたかった。

急いで自転車に鍵をかけて、二階にかけあがりたいと思ったそのときだった。

一階の少し奥から扉が開閉する音が聞こえ、複数の足音が私のいる駐輪場の方へと迫ってきた。


間もなく廊下の暗がりから、白桐の棺を担ぐスーツ姿の男たちがぬっと現われ、目の前を横切っていく。



その瞬間、中年の夫婦は膝を倒して、泣き崩れてしまった。

同時に何が起こったのかを察した。

気づけば駐車場に葬列ができていて、棺桶は黒塗りのワゴンカーへと運ばれいく。

悦ひろは階段をあがりながら、その一連を目で追っていた。

2階の廊下ではヤンキーが手すりに寄りかかってタバコをふかしらがら、その様子を見続けていた。

「こんばんは。何があったんですか?」と問いかけると、ヤンキーは「さぁ?」とだけ冷たく答えた。

ヤンキーに並列して、その様子をじろじろ眺めるのも不謹慎なので、悦ひろはその場を後にし部屋へと直行した。


悦ひろは畳の上で横になってみた。

そして畳に片耳をあててみた。

いつも聞こえていたはず足音や洗濯機の回る音、水まわりの音など、真下の階に住む学生の生活音をやはり確認することができなかった。

真下の部屋の学生が、なにかしらの理由で亡くなったのだ。

静かに目を閉じ、ご冥福を祈った。



その日以降、それまでアパート全体に漂っていた線香の匂いが、嘘のように消え去った。


いくら冬とはいえ、普通のアパートの一室で遺体を二ヶ月も安置しているはずもないよな。あの匂いは死の予兆だったのかもしれない、そもそも線香の匂いとは、その死を連想させる匂いを打ち消すために作られたのかもしれないな。いや線香は悪霊退治にも使われると聞くし、それはないか。

と勝手にスピリチュアルな推測をしてみたが、考えるだけ不毛で、何故線香の匂いが二ヶ月間漂っていたのか、何故出棺した翌日からその匂いが消えたのか、それらに因果関係があったのかは、結局わからなかった。


駐輪場にはその学生が使っていたと思われる自転車が寂しく残っていた。

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