[4] 対峙する軍隊

 1941年5月から6月にかけて、ソ連軍首脳部は限定的ながら対独戦に備えた対応を進めていた。赤軍参謀本部は西部国境沿いの四個軍管区(沿バルト特別・西部特別・キエフ特別・オデッサ)に対し、各軍管区司令部が戦時に「正面軍司令部」に改組された際に使用する野戦指揮所の設置に着手するよう命じた。

 この時、国境を挟んで対峙するソ連軍は国土の全域をカバーする17軍管区に計20個軍を保有していた。兵員は530万人、戦車台数は2万5932両、航空機は1万9533機(海軍を除く)にのぼっていた。

 北方軍集団と対峙する沿バルト特別軍管区、中央軍集団と対峙する西部特別軍管区、南方軍集団と対峙するキエフ特別軍管区には、全体の54%に当たる約290万人の兵員(レニングラード軍管区を含む)が配備されていた。

 戦車台数も全体の54%に当たる1万3981両(レニングラード軍管区・オデッサ軍管区)が配備されていたが、配備された戦車の約半数は大規模な修理や整備を要する使用不能な状態にあり、ドイツ軍および同盟国と対峙する各軍管区では稼働状態にあった台数は約7200両ほどであったと考えられる。航空機は7133機(全体の54%)が配備されていた。

 これらの部隊は国境付近に集中的な配備されておらず、一定の兵力を内陸部に広く控置する縦深配置になっていた。スターリンは「ドイツに対する挑発とみなされ、偶発的な開戦を招く恐れがある」として国境に展開する部隊に臨戦態勢を取らせる命令をいっさい承認せず、赤軍将官らも独裁者の意に反する方策を無断で取れるはずもなかった。

 6月17日、第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将は独ソ国境を流れるブク河を自ら偵察した。東岸の西部特別軍管区では将来の戦争を警戒する緊張が見られず、河岸も築城工事を進めている形跡は見られなかった。グデーリアンはソ連に対する奇襲攻撃が成功する可能性が高いと確信を強めた。実際、ソ連側では国境を守るはずの部隊が陣地から遠く離れた兵舎で寝起きする状態が続いていた。

 6月21日、西部特別軍管区司令官パヴロフ上級大将は国境の防備に当たっている麾下の各軍司令部から執拗な進言に悩まされていた。いずれもドイツ軍の尋常ではない兵力集結に不安を募らせる内容だったが、対独戦が差し迫っていると考えていなかったパヴロフはこのような情報を無視した。

 この日の夜、パヴロフは部下の将校たちと共に、西部特別軍管区司令部が置かれている白ロシアの首都ミンスクの将校クラブで観劇をしていたが、そこに情報部長ブロキン大佐が「国境付近でドイツ軍がソ連への攻撃準備を進めている模様です」と報告したが、パヴロフは「ナンセンスだ」と言い捨てた。

 6月22日午前0時過ぎ、すでにポーランド南部の国境ブレスト・リトフスクのブク河西岸に展開していたドイツ第45歩兵師団の眼前を煌々とライトをつけたモスクワ発ベルリン行きの列車が鉄橋を渡って来た。中央軍集団の兵士たちは場違いな思いを抱きながら、その列車を見送った。午前2時過ぎ、貨物列車が橋畔の税関に到着した。

 午前3時過ぎ、闇の中で前方を注視していた将兵たちに「攻撃開始!」の号令が下った。凄まじい砲声がバルト海から黒海に至る国境の随所に響き、砲火が未明の夜空に反映した。対岸では煙と火災が出現し、明け方の半月が雲に隠れた。

 装甲師団の戦車兵たちは戦車や半軌道車のエンジンをかけたまま、ヘッドホンに入る情報に聞き耳を立てた。歩兵が橋脚や渡河点を確保した後、ただちに装甲師団に対して前進命令が下った。当時のドイツ軍で最強の装備を誇る50ミリ砲搭載型のⅢ号戦車が敵の後方地域を凄まじい勢いで突破して行った。今まで活躍してきたⅠ号戦車・Ⅱ号戦車にまざって、チェコ製の38(t)戦車も参加していた。

 平和は死に絶え、戦争が不吉な呼吸を始めた。ヒトラーの「黒い十字軍」がついに動き出したのである。

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