その線の先
ヘキサ
第1話 美味しいパスタと口紅と
一
いとっても本当に死んだわけではない。今も平凡な時間を一つ一つ積み重ねている。
「貫太、これを海のテーブルへ。」
お世辞にも愛想が良いとは言えない、しかもこの空間にはとても似つかわしくない角刈り頭の篤さんが出来立てのトムヤムクンチャーハンとオムドリアを貫太の前に寄越した。
「はい。」
ここのテーブルの呼び方はちょっと変わっている。
カウンター席とは別に、中央にドンッと置かれたテーブルを歓談のテーブル。
ひっそりと置いてある観葉植物のお陰で常に日陰になっているテーブルを影のテーブル。
そして、海岸沿いが見えるテーブルを海のテーブル。
「お待たせいたしました、トムヤムクンチャーハンとオムドリアになります。」
熱いのでお気をつけください、とできる限り音を立てず、カップルの前に置いた。
貫太はここで働いている間は自分が空気となるように心がけている。
お客様は神様です、というどこぞの素晴らしい精神でというわけではないが、このカフェにくる客は料理とともにその空間を楽しんでいる、と思っている。
アルバイトの貫太と定年間近というような年齢の夫婦2人がやっている小さなカフェだ。
料理は美味い、ケーキも文句無しだ。(個人的にフルーツタルトが格別だと自負している)
だが、夫婦はおよそカフェには縁遠い愛想のない熟年夫婦だ。しかも、駐車場は極端に少なく、予約も受け付けていないときた。初めて貫太が訪れた時もよくやっていけるものだと驚いたものだ。
だが客はくる、なぜくるのかは元客の貫太にはすぐにわかった。
このこざっぱりとした、そこそこに放置される空間が格別なのだ。
「貫太」
ややハスキーボイスの夏さんがコーヒーを挽きながら声をかけた。
「はい」
歓談テーブルにいた赤いヒールの女性のお会計だ。
「チキンドリアとイチジクタルト、合わせて1600円になります。」
これで、と最近よくテレビでやっているブランドの財布から2000円を取り出し貫太に渡した。
400円のお戻しです、ありがとうございました。
ぺこりとお辞儀をすると、やや勝気そうな瞳で貫太をジッと見つめている。
まただ‥
なにか、と言いかけた貫太の言葉を遮るようにどーも、といい女性は静かに店を出た。
ほらよ、ドンッと明太子パスタが目の前に置かれた。
テーブルを拭きながら時計を見れば15時を少し過ぎている、客が引き始めたはずだ。
このカフェの変わったところその2は店員である夏さん、篤さん、そして貫太も店の奥ではなく店内のカウンター席で賄いを食べる。
大抵初めてくる客はこれを見てギョッとした顔をするが、じきに慣れてしまう。まったく人間とは慣れる動物だ。
「いただきます。」
自分で拭いたカウンターに座り、出来立てのパスタを食べるのは最高だ。
濃厚なクリームソースと明太子に刻まれた大葉がベストマッチだ。
いつの間にか貫太の前に置かれたレモン水がなんとも心地よかった。
「お疲れ様です、お先に失礼します。」
時刻は19時を少し過ぎたころだ。
いつものように店内の清掃を済ませ、いつもと同じ挨拶をし店を出ようとした。
「貫太、これお客さんの忘れ物みたいなんだが誰のかわからんかな?」
歓談のテーブルの下に落ちてたんだ、と首をさすりながら貫太に近づいてきた。本人は気づいてないだろう困った時の篤さんの癖だ。
「これ‥口紅ですよね?」
真っ赤なケースのそれは間違いなく口紅の入れ物だった。それにしてもド派手だな。
「派手だよねぇ、私には縁遠くてすぐにはわからなかったよ。」
やっぱり若いから男でもすぐにわかるのかね、などとぼやきながら夏さんは食器を片付ける。
‥あの人かな、真っ赤なハイヒール。
年は自分より同じか上だろうか?
短く切った髪とちょっときつめの顔立ちのその女性。なにか、探るような目線を向けてくるその人。
僕に興味がある‥わけではないと思う。
背も高くなく、お世辞にもイケメンでもない。ごく平凡な自分。
自慢できることは、視力の良さくらいか。
「あの人かもっていうお客さんなら‥。またいらした時にでも聞いてみましょうか?」
「おぅ、お願いするよ。」じゃあこれ預かってくれ、と派手すぎる口紅を手渡された。店に置いておけばいいのでは?とは言えなかった。
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