箸休め 語源百景 神話・宗教篇④ クワバラクワバラ……。 

 高僧が語源になった言葉があるなら、恐ろしい怨霊が生み出したそれもあります。例えば雷が落ちた時にお年寄りが唱える「クワバラ」は、天神てんじんさまこと菅原すがわらの道真みちざね公に由来すると言われています。


 菅原すがわらの道真みちざね公は平安時代の政治家で、遣唐使けんとうしを廃止した人物として教科書にも登場します。また学者や歌人としても非凡な才能を持ち、道真みちざね公のんだ和歌は古今和歌集こきんわかしゅうにも選出されています。優秀な道真みちざね公は朝廷にも重用され、太政大臣だじょうだいじん左大臣さだいじんに次ぐ権力者である右大臣うだいじんにまで昇進しました。


 しかし西暦901年、政敵である藤原ふじわらの時平ときひらおとしいれられ、太宰府だざいふ(現在の九州)に左遷させんされてしまいます。閑職かんしょくに追いやられた道真みちざね公は、失意の内に生涯を終えたそうです。


 まんまと道真みちざね公を排除した藤原ふじわらの時平ときひらでしたが、彼には恐ろしい運命が待っていました。非業の死を遂げた道真みちざね公が怨霊と化し、自分をおとしいれた者達を祟ったのです。


 西暦909年、藤原ふじわらの時平ときひらは39歳の若さで病没びょうぼつしました。

 前年の西暦908年には宇多うだ法皇ほうおうを追い返した藤原ふじわらの菅根すがねが、落雷にって命を落としています。宇多うだ法皇ほうおうは日本初の「法皇ほうおう」で、優秀な政治家であった道真みちざね公を重用した人物です。息子の醍醐だいご天皇てんのう道真みちざね公を左遷させんしようとした際にも、抗議に駆け付けたと言われています。しかし藤原ふじわらの菅根すがねに阻まれ、道真みちざね公を救うことは叶いませんでした。


 道真みちざね公の祟りを受けたのは、時平ときひら菅根すがねだけではありません。

 西暦936年には、時平ときひらの長男である藤原ふじわらの保忠やすただが病死。三男の藤原ふじわらの敦忠あつただも短命でした。西暦913年には、道真みちざね公に次いで右大臣うだいじんになったみなもとのひかるが、狩猟中に溺死したと伝えられています。


 時平ときひらそそのかされ、道真みちざね公を左遷させんした醍醐だいご天皇てんのうも、次々と不幸に見舞われます。

 西暦923年には醍醐だいご天皇てんのうの息子、保明やすあきら親王しんのうが21歳の若さで死去。二年後の西暦925年には、時平ときひらの娘を母に持つ慶頼王やすよりおうが命を落としました。


 西暦923年、祟りを恐れた朝廷は道真みちざね公の左遷させんを撤回しましたが、事態は好転しませんでした。西暦930年にはついに、天皇の住まいに雷が落ちると言う事件まで発生します。ショックを受けた醍醐だいご天皇てんのうは体調を崩し、三ヶ月ほどで崩御ほうぎょしてしまったそうです。


 落雷の被害を受けたのは、朝廷だけではありません。伝承によれば、怒れる道真みちざね公は各地に雷を落としたと言います。しかし唯一、道真みちざね公の領地であった「桑原くわばら」にだけは、落雷がありませんでした。このことが後年、「クワバラ」と唱えれば落雷を受けないと言う迷信を生み出したそうです。


 人々は道真みちざね公の怒りをしずめるために、神としてまつり始めました。西暦919年には墓所のあった九州に太宰府だざいふ天満宮てんまんぐうが、西暦947年には朝廷のあった京都に北野きたの天満宮てんまんぐう創建そうけんされ、今も多くの人が参拝しています。

(参考文献:週刊 日本の100人 №76 菅原道真 

                   (株)デアゴスティーニ・ジャパン

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