第四章『闘牛入門』

どーでもいい知識その① アリは昆虫界の森進一 

 街外れの霊園は、顔色の悪い月光に照らされていた。

 苔むした墓石が、岩礁のように並んでいる。

 長年の風雨によって朽ちかけた卒塔婆そとばは、さしずめ難破船の残骸。地平線に目を向ければ、夜霧で霞んだスカイツリーが、ぼうっと紫の灯りを滲ませている。日中からは想像も出来ない陰気な姿は、鬼火のカンテラをぶら下げた幽霊船が、仲間を増やそうと手招きしているかのようだ。


 冷えた御影石みかげいしが地面の熱を吸っているせいか、寒さに喉を刺される感覚は道中より鋭い。

 それでいて空気は乾いているどころか、ジメジメと不快に毛穴をべとつかせる。き出しの土にぽつぽつと石畳が敷かれただけの足下から、湿気が放たれているのだろう。


 ふと墓石の列を微風が吹き抜け、線香がふっと明滅する。雑草の茂みが密やかに騒ぎだし、霊園の片隅に立つ枯れ柳が怪しく揺れた。

 生ける屍の登場には絶好の前フリだ――が、実のところ、気の早い屍はとっくの昔に墓穴から這い出ている。目玉なんか垂らした化け物とは、イケメン度が段違いだが。


 風に運ばれてきたのか、たすき状の影が本堂の軒下を潜り抜け、墓石に覆いかぶさる。

 餓鬼だ。

 墓石の頂上に敷いていた頭を浮かした奴は、ひくひくとしきりに鼻を動かす。

 呼吸にしては肩の上下動が浅い。

 警察犬が犯人の遺留物を嗅いでいるような動きは、十中八九何かを誰かを捜している。


「探し物は何かな~♪」

 墓石に腰掛けていた改は、どうやら自分を捜しているらしい餓鬼のために陽水ようすいっぽく口ずさむ。

 まったく待たせすぎだ。長々座っていたせいで、墓石の冷たさが尻の間にまでこびり付いてしまった。って言うか、鈴木すずき家さんごめんなさい。

「もっと早く来てよ。稲川いながわ淳二じゅんじと夜の墓場は大嫌いなんだから。あともうちょっとで、『お化けなんて~♪』って熱唱するとこだったり」

 改は吊り輪の要領で足を振り、墓石から飛び降りる。Y字の着地を決める予定とは裏腹に、一歩二歩とふらつくと、バランスを取ろうとした腕がオランウータンのように揺れた。


「ボコスカ殴られたせーで、三半規管がいかれちゃったのかしら」

 体調を懸念する改を余所よそに、餓鬼は白い吐息を引き連れながら空を睨む。

 とぉ!

 オオカミのような遠吠えが響くと、途端に墓場を囲む茂みがざわめき始めた。

 ぞわ……ぞわぞわ……。

 地面――正確には地面の下が、無秩序に蠢きだす。

 足を着けている場所がウジの大群になった?

 視覚をソースにするなら勿論もちろんノーだが、触覚を信じるなら大正解になる。


 藪へ視線を撃った改が目にしたのは、小動物の大群。

 トイレで遭遇したハゲモグラだ。

 本来なら枝葉に月光を遮られ、暗闇が広がっているはずの場所を、真っ赤に光る瞳が爛々らんらんと照らしている。


 ちぃ!

 先頭の一匹が発した高い声は、マラソン大会の開催を告げる合図だった。

 氾濫はんらんした大河のような勢いで、ハゲモグラが溢れ、溢れ、溢れ出す。扇状に広がる大群が、濃茶こいちゃの土、灰色の石畳と肉色の絨毯を敷いていく。豪雨としか言いようのない足音がボリュームを上げるにつれて、湿っぽい土埃が空を濁らせていった。

 燃えさしの線香から漂っていた白檀びゃくだんの香りが、天文学的数の体臭に上書きされていく。真夏の肥溜こえだめのようなアンモニア臭が鼻を突き、焼けるように熱くなった眼球から涙が滲む。今、鏡を見たなら、呼吸困難に陥ったように青くなった顔が見られることだろう。


 トイレでは確認出来なかった下半身は、餓鬼と同じく膝が人間とは逆に曲がっていた。ぽっきり折れてしまいそうな細さと言い、パーツだけ見るとカナリアやスズメのようだ。歩き方も彼等にそっくりで、這うと言うより小刻みに飛び跳ねている。

 歩く姿も妙なら、カンガルーのように長い尻尾もモグラ離れしている。身体のサイズこそ、改の予想通りモルモット程度だが、尾を含めた全長と言うなら仔猫くらいはありそうだ。


 ちぃ! ちぃ!

 姿形を観察している内に次々と地面が盛り上がり、赤い瞳があちこちから改を見つめる。

 流石さすがはハゲ「モグラ」。

 土の中もお手のものらしい。

 筒状に隆起した地面から、それこそ雨後のタケノコのようにハゲモグラが生え、生え、生える。暗い地中に引きこもっていた彼等は、鬱憤を晴らすように枯れ木や墓石によじ登っていく。丸裸だったはずの木々は、見る見るシワだらけの果実を実らせていった。


 何が起こるか、改には大方見当が付いている。

 出来るならその前に掃討してしまいたいが、何しろ世界の色を塗り替えるほどの大群だ。身一つでどうにかしようなんて、ハエ叩きで蚊柱を殲滅しようとするに等しい。完遂した頃には、年が明けているかも知れない。


 相手が蚊柱を作るユスリカなら、歳末を費やす覚悟も出来る。

 何しろ彼等は血を吸わない。と言うか、口が退化していて、エサを食べられないそうだ。それなら年明け早々、ムヒを買い占める必要もない。

 対して目の前の大群は、噛まれたら絶対痛い出っ歯を生やしている。下手にちょっかいを出した日には、ムヒどころか赤チン、絆創膏、包帯のセットがマツキヨの棚から消えるだろう。


 中條は運がよかった。

 餓鬼に襲われたから、引っ掻かれる程度で済んだのだ。

 仮にハゲモグラの大群に狙われていたら、改が駆け付ける前に食い尽くされていただろう。


 数=力は人間界のみならず、大自然でも不変の定理だ。

 そして集団になった時、小ささは「脅威」になる。

 自重の二〇倍以上の物体を引っ張れるカブトムシでも、アリの大群を全滅させるのは無理だ。ご自慢の角で薙ぎ払おうにも、蚊柱VSハエ叩き状態。小さすぎる標的に攻撃を当てられるかも怪しい。

 アリの側に害意があったなら、ヘラクレスオオカブトでもなすすべはないだろう。現に南米のグンタイアリは、黒い川としか形容出来ないほどの大群で、爬虫類すら仕留めてしまう。

 そう、改にユスリカの件を教えてくれた一三歳女子は断言していた。

 アリは強い。


 自然界での立場を探る指標に、擬態がある。

 こいつはヤバイ――。

 広く浸透している生物には必ず、本家の悪名を利用し、我が身を守るちゃっかりさんがいる。

 有名なのがハチだろう。スズメガの一種オオスカシバからカミキリムシのキスジトラカミキリまで、多くの虫が黄色と黒のストライプをパクっている。

 ウミヘビの一種サンゴヘビにも、ミルクヘビと言うそっくりさんがいる。

 黒、白、赤と分かれた体色こそ同じだが、前者はコブラの仲間、後者はナミヘビの仲間だ。危険度も段違いで、無毒のミルクヘビに対し、サンゴヘビは一噛みで人間を死に至らしめる。


 アリもまた多くの生物に模倣されている。

 ハチが昆虫界の美川みかわ憲一けんいちだとするなら、アリはもり進一しんいちだ。

 例えば、ハエトリグモ科にアリグモと言う種がいる。名前の通り彼等はアリに瓜二つで、虫眼鏡片手に観察しないと正体が判らない。

 クモには計八本、四ついの脚がある。アリグモはこの内、一番前にある一つい、二本を突き出し、アリの触角に偽装している。大顎を備えるオスはまだ判りやすいが、すっきりしたお顔のメスはアリ以上にアリっぽい。

 体長は六㍉前後。ハエトリグモと同じく網は張らず、直接獲物に襲い掛かる。特に稀少なわけでもなく、日本全土に棲息しているが、知名度は高くない。コロッケばりに芸を極めた彼等を見付けても、クモだとは思わないのだろう。


 多くの虫の驚異となっているクモが、なぜわざわざアリを真似るのか?

 ①仲間とカン違いし、近寄って来たアリをディナーにする。

 ②アリの巣に忍び込み、幼虫をさらう。

 ――と一昔前の図鑑には、クモのイメージに相応ふさわしい解説文が添えられていた。

 事実、アリの巣の周りを徘徊していることも多い彼等だが、狩りのために擬態していると言うのは大間違いだ。実際は強い強いアリ師匠の真似をし、身を守っているに過ぎない。


 そもそも、アリはフェロモンや体表のワックスで仲間を認識する。姿形を完コピしたところで、彼等を騙すことは出来ない。

 ワックスは炭素と水素からなる化学物質で、ずばり炭化水素たんかすいそと言う。大ざっぱに説明するなら、家庭用のメタンガスやプロパンガスの仲間だ。


 アリグモの他にもシロオビアリモドキカミキリの幼虫や、ホソヘリカメムシの幼虫がアリに擬態している。

 アリは用心棒としても引っ張りだこだ。日本最小のコオロギであるアリヅカコオロギや、沖縄に棲むホラアナゴキブリは彼等の巣に同居している。またアブラムシが甘い分泌液を対価に、アリを雇っているのは有名な話だ。

 多くの虫が擬態し、共棲の相手に選ぶ――。

 アリが弱ければ、アリ得ない。


 実のところ、アリは一匹でもかなり強い。あまり知られていないが、彼等は「ハチ目」、しかも「スズメバチ」の仲間で、多くの種類が毒針を持っている。

 中でも南米に棲息するアカヒアリは凶悪で、刺されると焼けた釘で貫かれたような痛みを味わうと言う。おまけに彼等は発汗、動機、息切れとアレルギー反応を起こす強い毒を持ち、外来種として侵入した北米では、二〇〇八年までに八〇人の死者を出している。

 重い荷物を難なくくわえて運ぶ姿からも判る通り、アリは顎の力も強い。特にグンタイアリやブルドッグアリに代表される南半球産の一撃は強烈で、噛まれれば大男も悶絶する。

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